〔PHOTO〕iStock
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バネット゠ワイザーは、「能力と傷」をキーワードにして次のように述べている。

わたしが言いたいのは、ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニーは、(仕事への、自信をもつことへの、経済的成功への)個人の能力についての新自由主義的な考え方を利用しているが、両者がその能力を実現するための主要な障害としての傷を負っていると考えるということだ。つまり、女性たちは性差別によって傷つけられ、男性たちはフェミニズムと「多文化主義」によって傷つけられている。

ややわかりにくい文章だが、言い換えてみよう。

ポピュラー・フェミニズムは、女性は性差別という「傷」を取りのぞきさえすれば「能力」を発揮できるはずである、そして、すでに性差別はかなりの程度取りのぞかれているはずだ、と考える。ゆえに、能力を発揮できなかったとすれば、それは女性個人の努力不足である、とする。しかし、実際には、性差別という「傷」は残存しており、それは女性たちを強烈に抑圧している。

対して、ポピュラー・ミソジニーの発想は、男性がフェミニズム(ただしあくまでフェミニズムのひとつのイメージ)によって不利を被っており、「能力」の発揮を阻害されている、と考える。

これが、ポピュラー・フェミニズムとポピュラー・ミソジニーの図式なのだ。

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ポピュラー・ミソジニーの感性

ここで、最初に述べた女性専用車両の話に戻ろう。女性ばかりを優遇する女性専用車両(=フェミニズム)が、男性に「傷」を与えてきている(逆差別である)という発想、そして、小田急の事件の犯人が「女性の幸福」と「自分の不幸」に因果関係を見いだしてしまった感性を、より繊細に、ニュアンスをともなって説明できるかもしれない。それは、ポストフェミニズム的な世界観を前提とした感情なのだ。

男女の平等はもう達成されている、それどころか一部の女性たちは、男性たちを従属化させている新自由主義の競争社会を勝ち抜いて輝いてさえいる──そのような社会のイメージはもちろん、かなり一面的なものだといえるだろう(たとえば、男女の賃金格差を参照してほしい)。だが、どうやらそうした認識が現実に新しいポピュラー・ミソジニーを駆動し、場合によっては極端な暴力にさえつながっている。

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