【長嶋巨人にやってきた男/広澤克実】野村監督からは「巨人は合わない」 大型補強の中に埋もれた悲運の元打点王
自由契約から阪神へ移籍
オフになると構想外がスポーツ紙で報じられ、広澤は出場機会を求めて移籍志願するが、阪神へのトレード話も「広澤は戦力」という長嶋監督の意向で立ち消え、巨人残留となる。長嶋監督からは、「もう少しがんばれ」と激励の電話を受けたが、今度は西武から清原和博がFA移籍してくるわけだ。相変わらずの逆風だったが、それでも背番号80から10へ変更した1997年シーズン、ようやく広澤は復調する。126試合で打率.280、22本塁打、67打点、OPS.818と巨人移籍後最高の成績を残した。清原の打撃不振により、5月下旬から20試合連続で四番を任され、9月26日の中日戦ではサイクル安打を記録する。しかし、その年のドラフト会議で巨人は、慶應大の外野手・高橋由伸を逆指名で獲得するのだ。 1998年、36歳のベテランは左翼、右翼、一塁、三塁と4つの異なるポジションを守り、右の代打の切り札として起用される。192打席と出番こそ少なかったが、打率.301をマークした。だが、翌99年4月29日のヤクルト戦で二盗を試みた際、広澤は右肩を突いて脱臼骨折してしまう。チームはその穴を埋めるため、元西武の大砲ドミンゴ・マルティネスを緊急獲得する。結局、在籍5年目の1999年は16試合で打率.143と低迷。そのシーズン限りで自由契約となり、かつての恩師・野村克也が率いる阪神への移籍が決まる。 「巨人も僕の処遇をどうするか迷っていたみたいですね。自分としては現役を続けたい、ジャイアンツとしても現役は続けさせたいんだけど、右バッターや代打があまりにも多過ぎるから、どうしようかというところに、僕が自由契約にしてくれないかと話を持っていったので、すんなり決まったんですよ」(週刊ベースボール1999年12月13日号) 今思えば、同じFA組でも長嶋監督を胴上げすると堂々と公言して巨人にやってきた落合や、少年時代からの巨人への強い思い入れを隠そうとしなかった清原、さらにはのちに長嶋監督の背番号33を継承した江藤智らと比較すると、広澤のFA獲得はファンにもストーリーが見えにくい、いわば感情移入のしづらい移籍だったのは否めない。「僕が最後まで、巨人の雰囲気に深く溶け込めなかったことは事実です」(週刊宝石1999年10月30日号)と広澤自身も振り返り、移籍1年目のマスコミからのプレッシャーに押し潰され、その後は故障に泣き、大型補強の中に埋もれていった悲運の元打点王。これもまた、華やかなイメージが強い、長嶋巨人の明と暗である。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール