【長嶋巨人にやってきた男/広澤克実】野村監督からは「巨人は合わない」 大型補強の中に埋もれた悲運の元打点王
思うような結果を残せず
しかし、新天地で広澤は開幕から打撃不振に喘いだ。ヤクルト時代からスロースターターで、前年の4月も打率.197だったが、全試合が地上波テレビで中継される巨人ではそれもマスコミの恰好のネタとなる。皮肉にも、ヤクルトが広澤の代役で獲得したトーマス・オマリーの大活躍もあり、ペナントレース序盤から首位を快走する。広澤は落合が打撲で欠場した5月3日の阪神戦で、第61代四番打者を経験したが、7月12日のヤクルト戦では、慣れない札幌円山球場の試合前練習で、外野で打球を追った際にアルバイトの学生と激突。後半戦は、このときのムチ打ち症に苦しめられた。終わってみれば、新しい環境に戸惑い、巨人1年目は自己ワーストの打率.240に終わり、20本塁打、72打点、OPS.758。対ヤクルト戦は過剰に意識するあまり、打率.177と抑え込まれた。9月30日、神宮球場で古巣ヤクルトに敗れ、目の前で野村監督の胴上げを見ることになった広澤は、「今日は勘弁してください……」と足早に球場をあとにした。 「広澤は、来年もこのままの守備だと厳しいね。来年は守備重視の野球をやるわけだし、相当な努力が必要でしょう。今季は(連続試合出場の)記録を意識した起用法もあったが、来年は妥協しませんよ」(週刊ベースボール1995年11月13日号) 長嶋監督のそんな発言にも危機感を覚えた広澤は、95年オフに東ドイツ出身のトレーナー、ホルスト・ギュンツェル氏と個人契約してプロ12年目の肉体改造に着手する。1996年は、正月返上でトレーニングに励み、克己から「克」への登録名変更を申し出、「今年の目標は、三冠王を取ることです。今年は遠慮せずに何でもハッキリ言います」と宣言した勝負のシーズンだったが、オープン戦でアクシデントに見舞われる。3月22日の西武戦で石井丈裕から右手首に死球を受けるのだ。当初は打撲の診断も、右手甲の骨折が判明。長期離脱となってしまう。 この間、一軍の外野争いではドラフト3位ルーキーの清水隆行が猛アピールしていた。当時の巨人外野は右翼・松井と中堅・マックが固定されていたため、実質空いているポジションは左翼のみだった。広澤は二軍で1打席でも多く立ちたいからと、イースタン・リーグの試合に一番打者として出場。34歳のベテランが6月末の沖縄遠征にも同行した。一軍復帰は遅れ、初スタメンは7月10日の広島戦。この年、球場のファンからの応援ボイコットもあった。結局、勝負の移籍2年目、チームはメークドラマで逆転優勝を飾るも、広澤はわずか38試合の出場で打率.198、4本塁打、13打点に終わる。ヤクルト時代からの連続出場記録も途切れ、通算250号達成がせめてもの勲章だった。