ID非表示さん
2013/9/27 10:31
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三国志のifについて。 赤壁の戦いの損害がどれほどであったか不明ですが、208〜209年にかけて南郡で周瑜・劉備の連合軍が曹仁・徐晃と交戦している間、救援に駆け付ける事が出来たのは汝南太守の李通だけ でした。 これだけ見ると赤壁の戦いの損害は、主要な魏将が誰も死んでいないという「本当に大敗したのか?」と疑われるような有様だったとはいえ、末端の兵的被害は大きかったのかと思っていたのですが。 同時期の廬江で、袁術残党の陳蘭・梅成(梅乾)・雷緒(雷薄)が反乱を起こし孫権がこれに呼応したのに対して、于禁・張遼・張郃、徐州刺史の臧覇、そして夏侯淵と、大規模な曹操軍が動いて討伐しています。 つまり、赤壁直後でも曹操軍はこれだけの大規模な軍事行動が起こせたということですよね。 多分、章陵で趙儼が統括した七軍(于禁・張遼・張郃・朱霊・李典・路招・馮楷)は赤壁に参加しておらず、丸々動けたのでしょう。 袁術残党の反乱要因は、赤壁の敗戦による曹操軍の威信低下もあるでしょうが、直接的には、彼等を手懐けていた揚州刺史の劉馥が丁度208年に死んでしまったからだと思います。 そこでですが、もし劉馥が長生きして、袁術残党の反乱を未然に抑え切っていれば、趙儼の七軍や夏侯淵が曹仁への援軍に向かえたと思いますか? そして、南郡を曹操側が守り切った場合、その後の展開はどういった差異が出てくると思いますか? 皆さんの御考えを教えてください!
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