鎌倉武士
かまくらぶし
鎌倉時代の武士を指す。当時は武士道なるものも(一応存在するにはしたが)体系化されていなかった時代であり、公務員化・サラリーマン化した江戸時代の侍とは殆ど別物である。武士の台頭が著しかった平安時代末期の武士も鎌倉武士と連続した存在と考えることができる。
この時代の武士に対する現代のイメージは、大変に野蛮・残虐な戦闘集団であったというものであった。しかしながら、江戸時代までは武士の模範とされており、相手に向かって「お前は古の鎌倉武士のよだな」と言うのは、相手に対する最上級の褒め言葉となっていた。
鎌倉武士は命ではなく名を惜しむとされ、後世の武士の模範となっていたのである。
しかし、ネットミーム化した「鎌倉武士」像には誇張や捏造が多く含まれているという指摘がある。
なお、鎌倉武士が活躍した12世紀から14世紀の世界は、ユーラシアではモンゴル帝国、中近東では十字軍、北欧・東欧ではドイツ騎士団といった、とんでもない蛮族達が暴れまわっていた時代だった。
蛮族説は様々存在するが、ここでは代表的な「男衾三郎絵詞」「元寇の打線」「族滅」の3つのネタについて解説する。
男衾三郎絵詞
外部サイトにあるように、「鎌倉武士は庭に生首を絶やさず置いていた」「通りがかりの人を練習目的で弓で射る」と言った内容は、いわゆる鎌倉武士の野蛮性を強調するために何度も引用されており、これの出典は「男衾三郎絵詞」である。
しかし、そもそも出典に問題がある。というのも、男衾三郎絵詞はそもそもが架空の物語であるということであり、実はこれらのエピソードは架空の人物による架空の話なのである。
この物語は、弟の三郎が兄の遺産を横領した上に未亡人となった兄の嫁と娘をいじめるといういわゆる「継子いじめもの」であり、上記の野蛮な話は物語上の悪役「三郎」のセリフであり、これは悪役の非人道的描写を誇張するためのものであり、鎌倉武士の習俗ではない。
そもそも高温多湿の日本において、生首をみだりに置いて放置していては疫病を招きかねない自殺行為であり、また通行人を弓で射る部分の原文も、「ひきめかぷらにて、かけたて/\おもの射にせよ」とあるが、これもそもそも走りながら弓を射ることはできない(走りながら攻撃できる武術が発明されるのは江戸時代に入ってからである)という基本的事実からも否定される。
元寇の打線
なんJで「最新の研究」と称した元寇打線がよく貼られているが、ほぼ全てデタラメである。
元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた
1、2は対応する史料がそもそもなく、3については日蓮の「一谷入道御書」に、元軍が捕虜の手に穴を開けたという風に読める(手ヲトヲシテ船ニ結付)記述があるものの、何を指すかは分かっておらず、そもそも元軍が捕虜を盾にしたという史料がない。その上で鎌倉武士が捕虜関係なく矢を射かけたとする創作が付け足されたものである。
4は元寇に備えた防塁のことで教科書で習う内容である。
5は鎌倉武士団が博多を略奪したとするもので、元寇ネタでよく出てくるものであるが、これも史料に全く存在しない。
6は3がデタラメであるから成り立たず、7についても史料的な裏付けがない。
8の牛馬の腐乱死体を投げ入れたにしても、何の史料の裏付けもないなんJ民の創作である。
9について元史には、蒙古、高麗、漢人は処刑され、宋人は生かされたとある一方で、高麗史には、高麗人の技能者は生かされたとあり、他にも当時の一次資料では処刑されたはずの高麗人の捕虜がみな生きている事を知り、改めて高麗から謝意の国書が送られたともある。
なお、女性が殺されたというのはこの時代の習慣としてあり得ない。あるとすれば男性に間違えられた場合である。
トリビアの泉にも紹介されていたように、清少納言が男に間違えられて殺されそうになった時に股間を丸出しにすることで女性であると証明して難を逃れたように、平安時代から室町時代にかけては、女性を殺すのは禁忌であった。武士がみだりに女を殺すようになったのは戦国時代に入ってからである。
元寇において、鎌倉武士が野蛮な戦法を取ったという史料的な裏付けは実はどこにもないのである。また集団戦法にしても、戦国時代後期以降確立されたもので、この時代の社会システムではそもそも不可能である。
族滅
鎌倉武士は敵対した相手を族滅したとする言説があるがこれも事実ではない。
なんJなどでは以下のようなコピペが知られている
平和になってからの抗争で族滅した有力御家人の皆様
梶原氏 族滅
比企氏 族滅
畠山氏 族滅
城氏 族滅
名越氏 族滅
和田氏 族滅
三浦氏 族滅
そして最後には北条氏自らも族滅させられた。という筋書きが加わるのである。
しかしこれは事実ではない
族滅させられたとされる一族のその後
梶原氏
実は梶原氏は族滅させられたどころか、子孫が現代にも生き残っているのである。
梶原景時の三男の子が、気仙沼に土着していた景時の兄を頼り神職となり早馬神社を建立、その子孫が現在も同地で祭祀を司っているのである。当該神社は東日本大震災では甚大な被害を受けている。
確かに梶原景時の変や和田合戦などで北条氏に敵対したため没落しているものの、分家が各地で興隆しており、特に三男梶原景茂の子孫は早馬神社の家系以外にも全国に散らばっており、戦国時代にはあるものは伊豆水軍で北条早雲こと伊勢宗瑞に敗れたり、あるものは織田信長に仕え、あるものは讃岐で海賊となり黒田藩の家臣となったりしている。
よって梶原氏が族滅させられたというのは明らかに誤りである。
比企氏
比企能員の変で一族の大半が鎌倉幕府に反旗を翻して、ことごとく殉死・討ち死にとなったものの、当主比企能員の末子比企能本は数え2歳という幼年であるため和田義盛に預けられ、後に配流となった。
その後、能本は武士をやめて日蓮宗に帰依し、妙本寺の僧侶となっている。また弟の時員の子孫が復興している。
畠山氏
畠山重忠の乱において、畠山重忠が討ち死にしたものの、乱と無関係の兄弟と一族は処罰を受けていない。
重忠の兄弟はそれぞれ伊知地氏、長野氏、渋江氏を興しており、伊知地氏は薩摩の豪族として活躍、紆余曲折あり最終的には江戸時代に島津氏の重心として活躍、明治維新後には日本海海戦で三笠艦長を務めた伊知地彦次郎海軍中将を初め、陸海軍で多数の将官を出す華族に興隆している。
現代にも伊知地家は多数の子孫が様々な分野で活躍している。
また重忠直系の子孫も篠塚氏を興し、南北朝時代には篠塚重弘が活躍している。
後に畠山重忠は冤罪だったとして、畠山の名跡も復興されるとともに、室町時代には三管領の一つにまで興隆することとなる。戦国時代に没落するものの、江戸時代を通じて高家旗本として明治維新まで活躍している。
安達氏(城氏)
城氏は安達氏とも言う。霜月騒動にて当主の安達泰盛が平頼綱の讒言により討たれ、一族500名余が殺されたとされているが、平頼綱が滅ぼされた後に冤罪と分かり、大甥の安達時顕によって再興、鎌倉幕府執権北条高時の母親も安達氏出身である。
鎌倉幕府滅亡にあたり東勝寺で北条氏一族と共に一族ともども自害したとされているが、南北朝時代にも生き残りの記録が存在している。
名越氏
名越流北条氏として、得宗家と度々対立し、何度か討伐を受けている。
が、そもそも何度も討伐を受けている時点で族滅などされていないという証拠である。
特に大きかった二月騒動では一旦当主らが討伐されたものの、例によって冤罪だとして子孫はその後も存続、南北朝時代には鎌倉幕府残党として度々反乱を起こすものの、次第に鎮圧されていくことになる。
名越氏の後裔を名乗る一族に今川那古野氏がいる。
和田氏
和田合戦によって当主和田義盛が討ち死にし、多数の一族が討ち取られたものの、例によって乱に参加していない弟一族は処罰を受けておらず、また一族の中には北条側についておるものもおり、当たり前だが彼らは何の咎め設けていない。
北条側についた一族からは三浦和田氏が興隆している。
戦国時代には佐竹氏の宿老として活躍した一族や、朝比奈氏を名乗り後に徳川氏に仕えた一族など、子孫が各地で活躍している。
和田義盛の息子常盛も和田合戦で討ち死にするものの、その子、つまり義盛の孫の朝盛が生き残る。
義盛の従兄弟である佐久間家村の養子となり佐久間朝盛と名乗る。
承久の乱では親子が敵味方に分かれるという悲劇となるが、幸いにして息子が勝者側である幕府方についていたため、恩賞として尾張国の一角を領地としてもらい受けることとなり、そのまま尾張に土着。戦国時代には子孫が織田氏の重臣として活躍する。
ここまで言えば分かるだろう。佐久間信盛は和田義盛の直系子孫である。和田氏は族滅などしていないのである。
佐久間氏はその後織田信長の重心として活躍するも後に追放されて没落、また江戸時代には大名が2家出るものの両家とも断絶、しかしそれでも分家が旗本として江戸時代を通じて存続している。
幕末から維新にかけても、佐久間氏の子孫が活躍している記録が見受けられている。
三浦氏
和田氏の本家筋で、三浦党とも言われているが、宝治合戦において三浦泰村と三浦光村が滅ぼされ、合戦中多数の討ち死に、自害者を出すものの、戦後処理では死刑になったものはいない。
泰村の子にも逃亡したものがおり、そのまま沼田氏を興すと承久の乱では子孫が幕府方として活躍、戦国時代には沼田顕泰が沼田城を築城し、その後は後北条氏や上杉氏に押されて没落するもしぶとく生き残る。
しかし最終的には真田昌幸に忙殺されて滅亡した。
その他生き残った三浦一族からは、若狭氏、石井氏を興したものもいる他、三浦泰村の弟家村の子孫も堂々と三浦を名乗りつつ存続、江戸時代の子孫三浦正重は土井家と婚姻し、息子正次が土井利勝の甥となった所縁で大名に取り立てられている。その後は明治維新後も子爵に列せられている。
三浦氏の名跡も、三浦泰村の再従兄弟佐原盛時が三浦盛時となり再興、相模三浦氏として再出発する。
相模三浦氏は三浦水軍を率いた大名家であったが、最終的には戦国時代前期に、北条早雲こと伊勢宗瑞に滅ぼされることになる。
が、この相模三浦氏の更に支流として正木氏が興隆、紀州徳川家の家老として活躍している。
また三浦盛時の兄弟はそれぞれ新宮氏、蘆名氏を興しており、相模蘆名氏(後に石田氏に改名、子孫に石田三成がいる)と会津蘆名氏が興り、特に会津蘆名氏は戦国時代に隆盛を極めるものの、最終的には伊達政宗に敗れ、関ケ原の戦いで更に没落、最終的には江戸時代初期に無嗣断絶してしまうものの、傍系の針生氏が生き残っており、こちらは伊達氏の重臣として江戸時代を通じて活躍している。
このように、三浦氏は族滅などしておらず、それどころか後世でも分家・子孫が各地で活躍し、中には明治維新まで大名にまでなっている家系もあるのである。
北条氏
鎌倉幕府滅亡時に族滅させられたと語られることも多い北条氏であるが、鎌倉幕府最後の得宗であった北条高時の次男時行が生き残る。時行は中先代の乱を起こし、北条氏残党として各地で反乱を起こす。
中先代の乱では鎌倉を奪還するなどしたものの、徐々に劣勢となっていき、最終的には幕府滅亡から20年後に足利方に捕らえられ処刑された。しかし20年生きているのだから族滅したというわけではないだろう。
ちなみに、時行の孫北条時任は現在の愛知県西部に土着すると、更にその孫(時行の玄孫)に至って横井氏を名乗り赤目城を築城。
子孫は織田氏から、後に小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方した縁で尾張徳川家に仕えている。横井小楠はその子孫であり、現在も子孫が赤目城趾付近に居住している。
その他、横井氏の分家として平野氏があり、賤ヶ岳七本槍の一人平野長泰を出している。
総括
以上のように、ネットミームで「族滅させられた」と称する一族には、全て生き残りがいることが分かる。中には現代にも子孫が現存する一族もおり、こうした鎌倉幕府族滅ネタは、今も生き残っている子孫に対して非常に失礼である。
唯一比企氏がそれに近いようにも見えるが、これは比企能員の変で一族のほぼ全員が反旗を翻したからであって、殆ど偶然に近い上、当主の息子であっても反乱に加わらなかった(加われなかったという方が正しいが)ものは助命されている。
後に没落したとは言え生き残りも存在しているのだから「族滅」とは言えないし、現代にも比企という名字は北関東を中心に残っており、末裔を称している人々がいるのである。
そもそも監視カメラも写真もなく、身元の特定手段や交通手段も未発達な時代で一族郎党をことごとく皆殺しにするのは物理的に不可能である。
武士 侍 騎兵 戦闘民族 ヒャッハー! モヒカン 名乗り 蛮族
清楚系鎌倉武士...グラスワンダー(ウマ娘)のあだ名の一つ。
薩摩隼人...鎌倉武士の精神を継いだ戦士である……とされているが、こちらの薩摩ネタも歴史考証的な誤りを指摘されている。