リアル西遊記(5)〜ルルドの誓い編〜
こちらの記事の続編です。
体調を崩して身動きが取れず、呻き続けていた。飯も食えない。顔も洗えない。髭も剃れない。痛みが消えず、この苦しみに何の意味があるのかと神に問うた。何もできない。何も聞こえない。神がいるなら答えてくれ。縋りつくようにレスポンスを求めた。だが、違った。神は、ずっと応えていた。この痛みが、この苦しみが、この孤独が、神の歌であった。歌い出すのは私ではなく、私は奏でられていた。私は楽器で、人生は歌だった。
試練の先に神がいるのではなく、試練の中に神がいる。弱さを超えた先に神がいるのではなく、弱さの中に神がいる。昔から、闇と言う漢字の中になぜ『音』が入っているのか不思議だった。漢字の成り立ちを紐解くと、闇と言う漢字には「神は夜に来る」と言う意味があることを知った。愛とは見捨てないこと。人生が愉快で明るいものならば、愛は要らない。人生が辛く苦しいものだからこそ、人生を捨てずに、これを生きようとするものが人生への愛になる。許すことと見限ることは違う。人間が強くて大きいものならば、愛は要らない。弱くて小さいからこそ、人間を捨てずに、これを生きようとするものが人間への愛になる。
欧州各地の聖堂を巡った。建造物は立派だが、私は「死んでいる」と思った。死んでいる場所に、生きている人々が飲み込まれていく。聖地と呼ばれる場所に行ったが、すごいと言えばすごいし、たいしたことないと言えばたいしたことない。宗教は死んでいる。建物は死んでいる。死んでいる場所に、生きている人々が飲み込まれていく。神を見て人間を見ない宗教より、人間の中に神を見たい。キリストは人生を肯定する。キリスト教は人生を肯定しない。キリストは好きだが、キリスト教は好きではない。野菜の瑞々しさ、人々の微笑み、吹き抜ける風の清々しさは、生きている。
十四歳の頃、生まれてはじめてライブを見た。大好きなバンドを生で見れることが嬉しくて、ワクワクしながら会場に向かった。時間が来て、会場が暗くなり、目の前に本物のメンバーが現れた。空間は盛り上がり、演奏が流れた。全員がぴょんぴょん飛び跳ねながら熱狂している中、私は「あれ」と思った。想像していたより楽しくない。大好きなバンドなのに、まったく乗れない。盛り上がっている人たちが気持ち悪く見える。ステージの上を見ながら「なぜ俺はステージの下にいるんだ」と思った。大好きなロックバンドのメンバーに向かって「どけ」と思った。そこにいるべきなのはお前じゃない。俺だ。「かわれ」と思った。
今もなお「どけ」「かわれ」と思う自分がいる。普段は大人しく礼儀正しくしている自分の中に、生意気で、荒くれ者で、あらゆるものにたいして「つまらないんだよ」と中指を立てている自分がいる。なぜ作るのか。つまらないから。死ぬまで生きる。生きられるだけ生きる。何歳まで健康に生きたいとかではない。健康のために生きている訳ではない。百まで生きようが、二百まで生きようが、死ぬ時は死ぬ。死ぬまで生きる。死ぬまでやる。死んでいるものは死んでいく。生きているものは生きていく。小さな死を携えて、生ある道を行け。三蔵法師と三匹の猿は、ルルドに来た。
ら、奇跡が起きた。
(つづけ・・・)
坂爪さん
こんばんは、夜分にごめんなさい。
私、初めて坂爪さんに会った時、あなたと刺し違える未来が浮かびました。たぶんそれは半分当たりで、半分外れなのだと思います。坂爪さんと刺し違えるかもしれないし、世界と刺し違えるかもしれないです。私は坂爪さんに出会った生を全身で受け取ります。坂爪さんにはかなわないけど楽しみます。
好きです。もう日本で会えないなら、会いに行きます。生きていて下さいますように。
それでは、また。
連絡先
keigosakatsume@gmail.com
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


ヨーロッパとお似合いすぎます✌️
記事の前半部分を読ませていただいた時、遠藤周作さんの描くキリスト教を想いました。