再反論します 2(前編)
※プリキュアについて「普通の」記事を読みたい方はこちら
長年のプリキュアファン、KLPです。
再反論した記事のお相手からまた返事が来たので、またもや再反論していこうと思います。
はじめに
まず、唐突に「2年前に~」と書かれていることについての説明をお願いしたいです。
また、疑問や反論に対してなぜ動機を求めるのか、そちらの方が不思議です。
様々なことを発信していれば、賛成でも反対でも、何らかの反応が来るのは予想できたことではないでしょうか。
反論する理由は、「反論したいから」でじゅうぶんでしょう。
加えて、既に書いたとおり、私は元の記事では広く批判派の動向について述べており、この方の記事はその流れで一例として引用しただけです。
それに対して、ブログで記事をまるまる一つ使って反論が返ってきたのですから、こちらも「それは違う」「どうしてここはこうなのか」と感じたことは当たり前に返します。
反論をどこでしようと、本質的には変わらないでしょう。直接のやり取りにならなくても、公開の場ですから、無駄に「空に向かって」言っていることにはなりません。
私の記事も誰がどこで引用したり反論しているか分かりません。「私に分かる形でないと反論は許さない」とは強制できないので、気付いたときに何らかのアクションをするしかないと思います。
はじめに公開の場での主張で始まっているので、今からDMも違うと感じます。
そして「何か言いたくなるから読まない」は、どのみち一部でも再反論する(何か言う)のであればいただけないです。冒頭と末尾に絞ったために、途中に答えが書いてある部分にまで反論してしまっています。
長くて読むのが疲れるなら申し訳ありませんが、あれは元記事であまり根幹にかかわらない部分や、この方に言ったわけではない部分にまでそれなりに反論されたので、その全てに対応した結果でもあることをご理解下さい。(特に元記事の後編は、ほとんどがこの方に対しての主張ではありません。)
いつまでやり取りが続くか分からず不安だ、ということなら、もうすぐ終わります。もう次には終わりそうです。(ただし、読まない部分があるまま反論すると、同じことをもう一度書くことになり無駄なやり取りが生まれる可能性があります。)
今の時点で終わりが見えていますし、このブログで特定の人ばかり取り上げるのは、私の本意ではありません。
反論も適切にすべきとは思います。
一段落ののち、記事の削除も検討します。元記事も修正を加えるかもしれません。
この方だから提案するわけではなく、以前にも似たようなことはしています。
以下は再反論2です。
良くも悪くも、返信されたポイントが限られているので、前回よりは短い記事になりました。
「定義なんてそんなもの」
「女の子だって暴れたい!」は狭くはないでしょう。
言葉からして具体性のない言い回しですし、「暴れたい!」と言って肉弾戦を持ち味に始まったプリキュアが、今や肉弾戦なしでも通用するのですから。
なお、全プリキュア展の公式サイトを確かめたところ、例の展示コーナーについて「「ふたりはプリキュア」のコンセプトでもある「女の子だって暴れたい!」をテーマに」と書かれていました。
つまり「シリーズを通じたコンセプト」とは書いていません。私なら大して気にしませんが、「受け入れる」の微妙な意味を考えるほど言葉にこだわる方なら、ここを無視はできないはずです。
それと、元記事でも再反論1でも、「「女の子だって暴れたい!」が一人歩きしている」「20年もやっていれば、男の子の1人や2人はいる」という公式サイドの発言を載せているので、スルーしてほしくないですね。
恣意的な取捨選択を感じるといいますか、「お姫様」論を唱えるためにスルーしたのかと疑ってしまいます。(再反論1は目を通していないだけかもしれませんが。)
鷲尾天さんに言わせれば、プリキュアの精神とは「自分の足で凜々しく立つこと」「意志を持って立ち向かおうとする、何かと向き合おうという意志を持つこと」だそうです。男の子がプリキュアになろうと、それは変わっていない、と語っています。
プリキュアは「女の子だけに拘らない」という考えで、男の子プリキュアは「対等に物事を考えてくれる人」であればよいとのことです。
(以下の鷲尾さんの記事も引用は初めてではありません。)
さらに加えると、ぼくプリ関連のインタビューではっきり出てくる言葉は「男の子だってプリキュアになりたい」なんですよね。
つまり、男の子がプリキュアになること自体で何らかのメッセージになる、と考えているのが公式サイドのスタンスなわけです。
おかしくはありません。世間が「プリキュアは女の子のもの」とイメージしがちならそれもありでしょう。
さて、ここから「プリキュアは違う性別へのカウンターの意味づけをすべきで、女の子と男の子ではプリキュアになる意味が違う」を導きだせるでしょうか。
公式サイドはただ「女の子に拘らない」だけであり、男の子も女の子と同じく「凜々しく立つ」「意志を持って立ち向かう」ができていればよいとしている、と考えるのが“自然”ではないでしょうか。
「男の子の凜々しさや立ち向かう意志の表現が「お姫様」でも良い」という話にはなるかもしれませんが、少なくともそれに限定する根拠はありません。
男の子が「暴れたい」と考えることに、「男の子だから」という理由が付けられていなければ、それでいいのではないでしょうか。
例えばぼくプリ第2弾で、キュアカグラ/天弦晃雅が「女の子らしい」舞で解決したというのは、確かに一つのメッセージです。
しかし根幹で大事なのは、カグラが「やりたい」を優先したことです。
父の天弦総一郎は「巫女なら女の子らしく舞え」とは言いませんでしたし、家業として強制したことはむしろ悔いていました。
もし「巫女なら女の子らしく舞え」と押し付けられての舞だったら、敵に通用しなかったでしょう。
そしてカグラが「やりたい」のが荒々しい巫女舞なら、そちらが通用したのではないでしょうか。
「お姫様」論だと、それではプリキュアらしくないことになってしまいますが、「性別は関係ない」であれば、例え男の子が荒々しいままでもプリキュアらしさに含めることができます。
ちなみに、私が男の子プリキュアに求めるのは女の子と同じ位置で手を貸してくれることだけで、普段の様子も暴れ方も男の子らしくて構わないです。「男なら〇〇だ」のような、明らかに偏見に満ちた描かれ方さえしなければよいと思います。
もちろん「お姫様」でもよいです。
よく「女児向けで男児へのメッセージを送る必要はない」と言う批判派がいますが、ある意味そのとおり。男の子は、まずはチーム内の多様性の一つであれば良いのです。
「「男の子」に意味を持たせなかったから良い」とはつまり、そういうことです。
それに、視聴者目線では、女の子たちになじむようなプリティな衣装で戦っているというだけでも、じゅうぶんジェンダー的なメッセージになる面もあるでしょう。
「「歓迎された」と言えば良い」
公式サイドの発言をもう一度載せましょう。
「男の子が入ってファン層が広がった。否定的な意見もあったが子どもたちはすんなり受け入れていた。『多様性』は既成概念のある大人の発想であり、子どもには全てが初めて。だから選択肢を当たり前にすることが大事」
既述のとおり(読んでいないらしいので、まず再反論1を読んでほしいのですが)、「受け入れる」は元々ポジティブ寄りの言葉で、その上でこの文脈ですから、ポジティブに読むのが“自然”です。
ポジティブな意味の可能性もある、というレベルではなく、ネガティブな可能性を取る方が難しいのです。
「それはもう大歓迎でした、売れに売れて大きく引き離しての1番人気でした」ではないにしろ、それなりに手ごたえがあったと読むのが正しいです。
ここでネガティブなニュアンスに懸けることの方こそ、ずいぶん頑張って食い下がるなあと思います。
ポジティブな意味だとそれほど困るのだろうか、と疑ってしまいます。
可能性だけで言えば、公式サイドが見栄を張っている可能性はありますが、それを言いだすと自分に都合の悪い情報は全て「嘘」と解釈すればよいことになってしまうので、不毛です。
「普段の次回や映画の予想と同じ」
そうでしょうか。
例えば、変身シーンがアニメでどう描かれるのか、という予想なら分かります。舞台では舞台ならではの表現になっていますから、アニメとして描いたときにおもしろみのないものになったらどうしよう、と心配した人はいたでしょう。
しかし、晃雅や月宮爽々奈の抱えている事情については考えすぎでしょう。キャラの深いところにかかわり、ストーリー上も重要な部分で、特に爽々奈は第2弾では晃雅ほど明らかな決着を見せていません。続編という名の本編がこれからあるのに、他の作品に呼ばれた数分で展開を見せるなんて、まずありえないことです。
前提にネガティブな意識がなければ、心配したりしないと思います。
「説明できる論が見つかっただけ」
まず、その説明できる論が無茶である、というのがあります。
そして、それ以降は論に当てはめてこじつける見方をしているのではないか、がさらにあります。
私の考えを整理すると、
「「女の子だって暴れたい!」は、肉弾戦を特長とする初代と結びついているが、それを固く捉えすぎると、肉弾戦をしないプリアラやわんぷり、守りに徹する形で戦うプリキュアが「暴れる」に含まれなくなる。「暴れたい」はもっと柔軟に捉えるべき」
です。
だからこの方が「戦っていない、暴れていない」とするキュアアンフィニのスケートやキュアカグラの巫女舞も、プリキュアの精神を込めて戦う手段である時点で「戦っている、暴れている」、という主張です。
それに対して、この方は「プリアラやわんぷりはそもそも激しく戦っているので、スケートや巫女舞とは区別できる」と言うわけです。戦っていない、暴れていない手段を取るのは男の子プリキュア特有だ、との主張です。
一度、この方の言うとおりに区別してみましょう。
暴れている……肉弾戦をしないプリアラ、わんぷり
おとなしくしている……アンフィニのスケート、カグラの(特に変身前の)巫女舞
こうだとして……なぜ兎組やキュアコネクト、そしてキュアウィングまでも後者に入れたがるのでしょうか?
兎組は、バリアを張る能力はプリキュアたちと変わりませんし、アニメ終盤では彼らこそが突破口を開いています。わんぷりは肉弾戦をしませんから、バリアを張るだけで「暴れる」と見なしていいはずです。
特に兎山悟は、その頭脳でもとから戦闘への貢献度が高かったので、能力の上乗せとも取れます。
変身前の「見てることしかできない」も、見ているだけではなく参戦する流れにつながっています。
コネクトはダークランダーに蹴りを食らわせ、ジョギを一発で浄化します。一瞬の奇跡とはいえ、かなり強い戦闘力です。
しかしこの方のレビューでは、「一撃入れて押しやっただけ」……「一撃」を認めておきながら「だけ」と過小評価しているんですね。
その一撃こそが大きいのに、です。
一応後で「強者に見える」とも書かれていますが、「戦ってはいないライン」と判断しているわけです。
そして浄化についても「「くらえこの拳!」ぐらいの「河原で殴り合って和解」的なこと」を「やっていない」としていますが、悪に染まった相手が即座に正気に戻る技は、メタファー的には拳で殴るのと同じではないでしょうか。(むしろ、普通の人間が拳で殴るよりも難しいはずです。)
ファンが素体なのも、プリキュアは素体が誰でも攻撃するのが常なので(わんぷりなどは例外です)、今さら注目するところではありません。コネクトが素体を知らないならなおさらで、「公式サイドは神だからどうとでもなる」という理屈はますます無茶です。
ジョギの「守られているだけ」というセリフも、その後変身していますから、「守られるのではなく自ら解決する」の予兆になっています。
なのにこの方はセリフだけ「お姫様」論で解釈し、その後の展開は無視しています。
(悟の「見ていることしかできない」についても同じです。変身につながるセリフなのに、切り離して「お姫様」論の根拠にしてしまっています。)
結論としては、兎組もコネクトも一時的とはいえ、女の子たちと同じように暴れているわけです。
これらをプリアラやわんぷりの戦いぶりより、美しいスケートの演技や優しげな巫女舞の方に入れたがるのには、私は違和感を抱いてしまいます。
ましてこれがウィングの戦いぶりとなると、スケートや巫女舞とは比べるまでもなく激しく、兎組やコネクトと違って正式メンバーなので、ずっと戦い続けているわけです。
「プリキュアで夢が叶わなかった」も的外れですし、ナイトはまさにお姫様を守る役。これで「おとなしい」「暴れていない」「お姫様」と言われて納得する人がどれくらいいるでしょうか。
夢が叶っていないことにしたり、賢者がナイトと同時にできない前提だったり、後方部隊扱いしたり、「お姫様」論のために無茶をしていないでしょうか。
(それと、元記事にも書いたのですが、プリキュアで夢を叶えたキャラの方が少ないのではないでしょうか。仮にウィングが夢を叶えていないとして、なぜウィングに限ってそこに注目するのか疑問です。)
まとめると私には、ウィングも兎組もコネクトも、「お姫様」論を成り立たせたいがために戦力を低く評価しているように見えます。
結論のために解釈してしまっているのです。
逆に、カグラの変身前の巫女舞は過大評価です。
再反論1でも指摘したとおり、他の4人はできていないことですし、変身前で通じたのが一度だけな上に、そこで決着がついたわけでもありません。
印象の強いシーンではありますが、それをぼくプリの戦い方そのものだと言うのはかなりの無茶でしょう。
ところでこの方も、わんぷり第12話のレビューでは、当時攻撃的だったキュアニャミーについて「激しさがとても映える」と言っているんですよね。「「あ、プリキュアだ」と納得がいく」「実家に帰ってきたかのような安心感」とまで感じたようです。
当時のTwitterも確認したところ、ニャミーを「激しい」、キュアワンダフルたちを「抑制」と表現し、「対立軸で描写」としていました。
つまり、わんぷりの戦い方は他のプリキュアよりおとなしく、それが特長である、と思っていたはずなんです。
それなのに今や、他と変わらない激しさで暴れていたと語るわけです。
考えは変わって良いものですが、いつ、なぜ変わったのか気になります。
その後に変身した兎組を「お姫様」論につなげるためでしょうか。
後編に続きます。



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