再反論します(前編)
※プリキュアについて「普通の」記事を読みたい方はこちら
長年のプリキュアファン、KLPです。
以前、記事の引用をした方が返信記事を書かれていることに気付いたので、私も再反論しようと思います。
別な記事にも書きましたが、私は誰かを批判する以上、反論されるのは当たり前と思っており、こうして返ってくるのは予想の範囲内です。
「議論したくない」と言いながら陰で勝手に悪者にする人もいる中で、正々堂々としていただいてありがたいです。
なお、私は本来は発信に疎く、Twitterでプリキュアについて語るつもりはありません。
よってこの方にも、Twitter上で反論することはありません。決して陰でこそこそしているつもりはなく、ここに書いたことにいつ気付かれても良いと思っているので、先に連絡しない形になるのはお許し願いたいです。
この記事は一応「スタンスと反論」に入れておきますが、この方個人とのやり取りという面が強く、史上最長の文章になったので、投稿しておいてなんですが、読むことはおすすめしません。
「ぼくプリ第1弾は確定したラストである」
これはただただ読み取り不足です。
あの時点でパドドゥは「プリキュアを利用している」とは示されましたが、彼の正体が何なのか、利用してどうしたいのか、こんな隠し事をする人物がプリキュアに話した世界の危機は本当のことなのか……など、肝心なことを何も明かしていません。ものすごくすっきりしないところで終わっています。
これは、例えば主人公の誕生日が明かされていないとか、そんな些細なことではなく、物語の根幹にかかわる部分です。この時点で「実は悪である」と決めつけるのは無茶です。決めつけられない描写にとどめたから、第2弾以降がスムーズに続いているのです。
逆に言えば、第1弾で終わらなくて本当に良かったです。「確定したラスト」まで見届けたファンは今、本当にそれを実感しています。
「続編を告知していない」というのは、ストーリー上の根拠ではありません。作者側の、単なる「お出しする」都合です。
告知を根拠とするならば、例えば作者の突然死で未完のままとなった作品も「確定したラスト」になってしまいます。
普通、突然死するときに「私は突然死しますが、続きを書くつもりでした」とは告知できません。今後の予定のメモなどを残しておらず、書いていた部分がちょうど意外な展開が始まるところで終わっていても、この方は「ああ、確定したラストだ」と納得するのでしょうか?
未完は未完でしかなく、確定ではありません。
逆に、「続きを作る」と言っておきながらやめてしまう場合もあります。
「やっぱりダメでした」と明言せずフェードアウト、ということも珍しくないのですが、この方は「告知があった」からやめてしまったと見なさず、ずっと待ち続けるのでしょうか。
オトナプリキュアは、あれで完結です。作品テーマに絡めた、「せっかくプリキュアが頑張ってくれたのに、人間はまた過ちを繰り返すかもしれない」という警告としての不穏さであって、ストーリー上にすっきりしないところはありません。
これはむしろ、続編への引っ掛かりだと捉える方が読み取り不足です。いわゆるバッドエンドも、心情的にすっきりしないだけで、ストーリー上はすっきりとまとまっているのです。
もちろんやり方次第では、ここから続編は作れるでしょう。しかしその場合、続けるつもりで作ったものとは違うものが出来上がります。
「お出しする」都合でわざと引っ掛かりを作っておく……という手法は、今どき珍しいものではありません。
「告知がなかった」を根拠に確定したと言い切れるのは、物語というものにあまり慣れていないか、自分の都合でぼくプリが一旦あそこで終わったことにしたいかのどちらかではないでしょうか。
もっと単純に考えましょう。
自分が編集者で、担当作家が、
「終盤、主人公が身内に裏切られていることが分かる。しかし主人公は気付かず、身内の正体も裏切りの理由も分からずじまい」
という物語を書いてきたら、そのままの形でゴーサインを出すでしょうか?
私なら、「すっきりしないので、きちんと終わらせて下さい」と指導するでしょう。
それでゴーサインが出るのは、はじめから続きを予定しているときです。
プリキュアという大好きなコンテンツで、史上類を見ない企画が出た…ということに引きずられすぎていないでしょうか。
もっとシンプルな話です。こねくり回す必要はありません。
ぼくプリは3つで1つです。
「ナッツは悪者ではない」
相手が悪いことに利用していると知らず善意で行動することがキラキラなら、ぼくプリもそう捉えないとおかしいですよね、ということです。
逆にぼくプリを、本人に責任のないところで利用されているから善意は台無しだ、とするなら5のナッツもそうなります。
そこにラストは無関係ですし、ぼくプリ第1弾が「ラスト」ではないのは既述のとおりです。
「ぼくプリは肉弾戦が通じない展開である」
物語を通して、相手にダメージを与える手段としては十分何度も通じています。勝利を決定づけるのがダンスであることを「通じていない」とするなら、女の子のプリキュアも最後は浄化技なので同じ構図なのは既に指摘しました。
また、他の記事と合わせると、ダンスそのものを肉弾戦ではない手段とする記述と、「荒々しいダンス」までは肉弾戦に含める記述とが混在しているように見受けられます。その場の都合で使い分けてはいないでしょうか。
仮に「荒々しいダンス」を肉弾戦に含めるとして、「女の子らしい」ダンスを技として使えるようになったのはキュアカグラ/天弦晃雅だけである、ということにも注意が必要です。5人中4人ができていないことを、本質と言っていいものでしょうか?
「キュアサンシャイン/明堂院いつきの帰結の受け取り方は逆」
女の子らしさに帰結しているのですから逆でも何でもないでしょう。
「男の子化しなくても暴れてよい」とは、つまり「女の子らしい」のは認めていますよね。「女の子らしく帰結することは、女の子プリキュアではありえない」と言い出したのはこの方です。ありえない例に挙げているキュアアイドルの仮定など、まさに「女の子のまま暴れる」ではないですか。
(細かいことを言うと、「巫女舞」と銘打たれたダンスに比べて、柔らかでおとなしい歌が即座に「女の子らしい」に結びつくとは思えません。つまり、例え話としてやや分かりにくいです)
そして、女の子らしくても暴れているから良い、とするなら、カグラの舞も結局は「暴れる」手段に過ぎません。女の子らしかろうと何だろうと、あれは戦いであり攻撃ですから。
性別で決めつけないことが大切だとするなら、巫女だから女の子らしく、もまた決めつけでしょう。
ですので、仮にカグラが荒々しい舞のままであってもプリキュアらしいと言えます。
サンシャインもカグラも、「やらなければ」より「やりたい」を優先できるようになった。性別は関係ない。だからプリキュアらしいのです。
なお、第3弾のカグラ(というより天弦晃雅)は確かに第2弾までと雰囲気が変わりますが、あれを世に言う「女の子らしい」とまで言えるかどうかは疑問です。
変身しない状態の舞が敵に通用したのも、第2弾の一度きりです。
カグラがたった1回見せた舞に比べたら、変身姿も普段の様子もまるごと雰囲気が変わっているサンシャインの帰結の方が重大です。
「プリアラもわんぷりも戦っている」
そうです。戦っています。
だから女の子らしい巫女舞も戦っていることには変わりないですね、ということです。
(そもそも、私は後編記事で「プリアラもわんぷりも暴れている」とは言っています。)
「戦う」と「暴れる」も、イコールになっている記述とそうでない記述が混在しているように見えるので、統一していただきたいです。
イコールであれば、巫女舞は戦っているので、暴れています。
見た目の激しさで「暴れる」を判断するなら、プリアラやわんぷりが他の作品よりおとなしく見える印象は否めません。あるルールが原則「する」なのか「しない」なのかは、大きな違いでしょう。
だからプリキュアらしくない、とは言いませんが、単純な構図は他作品の浄化技が主体の戦う変身ヒロインと変わらないんです。他のヒロインだって接近戦で迫られるくらいはありますので。
わんぷりの兎山悟の心情は本人の感じ方の問題です。ワンダフルたちの戦いぶりと比べたのは戦いに参加できない自分であって、他のプリキュアの戦いぶりではありません。
プリキュアとして戦っているキュアミント/秋元こまちでさえ、守るのが主体の役割に悩みますから、それ自体は「暴れる」の根拠にはならないでしょう。
「ブラックペッパー/品田拓海はプリキュアではない」
まさか返ってくるとは思わなかった答えで、驚きました。
一般人では決してありえない変身をし、プリキュア並みの戦闘力を発揮し、参戦頻度も高いキャラが、ただ「プリキュア」と名前がついていないだけで暴れていないことになるのだそうです。
単純な参戦頻度ならキュアアンフィニよりよほど高いのがブラペなのですが……。
「描写されていることを見る」とは何だったのでしょう。これでは見ているのは「名前」です。
元記事で予想したとおり、表面的な判断でした。「描写そのまま」とは「表面的」という意味だったのでしょうか。
つまり、仮にブラペが、プリキュアの誰よりも前に出て凄まじい殴打や蹴りを繰り出し、単独の浄化技で毎度敵を倒し、ゴーダッツへの敵討ちを直接達成していても、「暴れていない」ことになります。
私はとても納得できません。
過激な男の子批判派は、ブラペも兎組も男の子プリキュアと一緒くたに批判していることも多いですが、ある意味こちらの方が納得できます。
描写を見るならそちらの方が正しいです。
「「頭がよい」は女の子のアイコン」
これもまさか返ってくるとは思わなかった答えです。これに関しては予想すらしませんでした。
女に学問は必要ない、女の子はおバカな方がかわいい、女性は論理的でなく感情的だ、女性は理系に向いていない……頭脳面、知性面でも女性を巡る偏見は多々あります。
後述の全プリキュア展の展示でも、「キュアホワイト/雪城ほのかが理系で頭脳派である」ことへの言及がありました。
ジェンダーについて考えるなら今更言うまでもないほどの出発点なのですが……。
私は賛成しませんが、実際、頭脳面の活躍をウィングや悟が担っていることについて懸念している批判もあるにはあります。
「女の子の方が頭がいい」は、「でも後で伸び悩んで男の子に追い越される」などとセットだったりします。
男性のやらかしをごまかすときにだけ、「男は子どもでバカだから」と言われたりもします。
「女の子のアイコン」は正しくありません。
「ツバサが空を飛ぶ夢をウィングで満足させた描写はない」
キュアウィングになって以降、夕凪ツバサが航空力学から離れていた、とされた第21話が、夢を叶えた描写と考えています。
「プリキュアになって、空を飛べるようになった」というセリフは、「夢が叶った」という意味と捉えていいでしょう。少なくとも、ウィングとして空を飛んだ感動と、勉強がおろそかになったことはつながっています。
夢が変わったのは、前の夢が叶ったからです。
「心構えを含めると「暴れる女の子」は意味を失う」
そのとおりです。なので、見た目の激しさを基準にするならどうすればプリアラとわんぷりを含められるのか、という話につながっています。
この方が「プリアラとわんぷりは他のプリキュアと同じくらい激しい」と見なしているのは、元記事の時点では分からなかったことです。
しかし違いを違いとして見るなら、この2作品どころか、同じチームで担う役割が主に攻撃か守る方かということでも違いが出てきてしまうでしょう。
ところで、私は「この方はこういう意味で言ったのではないか」という推測をしたのであって、「私自身がこういう見方をしている」とは言っていません。
もう少し前後の文との関係を見てから反論していただけると助かります。
「「男の子だっておとなしくいたい」は必然」
「「女の子」の意味付けが男の子と比較してのカウンターになっているから、「男の子」の意味付けもまた女の子と比較してのカウンターでなければならない」というのは考え方の一つでしかありません。
男の子プリキュアの誕生は、初代からの積み重ねの末のものです。公式サイドが初代の頃と違う理屈を採用していてもおかしくありませんし、間違ってもいません。
必然ではないのです。
「キュアアンフィニ/若宮アンリはお姫様」
「お姫様になれる」と言われたとき、アンリは敵の拘束からやっと逃れ、キュアエール/野乃はなに助けられていました。
一方アンフィニになったときは、プリキュアからの応援はあったものの最終的には自力で拘束を解き、変身を成し遂げていますし、スケートの演技も戦力として効果を発揮しています。
私は見た目の激しさで判断しないので、「前線で戦っている」と表現します。
ところで、先ほど解釈は自由だと言ったばかりですが、この方のアンフィニの解釈は、どうにも納得しがたいものがあります。
はぐプリのテーマは「何でもできる、何でもなれる」。ジェンダーをはじめ、勝手な思い込みや決めつけを打ち破るのはまさしくプリキュア側であり、それを「ルール破り」とすり替えて敵組織の思想と言うことはできません。
アンリは自分についてのこだわりが強く、事故によってそのこだわりを崩されたために、人生は上手くいかないと決めつけて絶望してしまいました。
しかしプリキュアからの応援により、その決めつけを見直すのです。
自分がファンの前でどうありたいかを純粋に思い出し、選手は退いても、振付師として華々しく活躍する未来を手に入れるのです。それこそ、夢が変わったのです。
「無限」を名乗る、自分でさえ自分は縛れないと言い切る、振付師としてスケートリンクに立ち続ける……
これのどこが「制約を受け入れた」なんでしょうか?
むしろ、やっと制約から解放されたのではないでしょうか?
「男の子は後方部隊で女の子と変わりない活躍ができる」
そのことは否定していません。
「それぞれが違う役割でそれぞれの活躍をする」でもいいが、「何かをするのに男女は関係ない、性別に関係なく同じことができる」という表現でもいいはずだ、と言ったまでです。
何も全否定して反論しているわけではないので、柔軟に捉えていただきたいです。
なお、元記事では違う役割を与えるのは結局は男女を分けてしまう面もあることを指摘しています。
男の子プリキュアやプリキュアに近い男の子たちが、この方が言うほど「後方部隊」に徹してはいないのも、ここまで述べてきたとおりです。
「女性化しないでもおとなしくいてよい」
それはそうですが、であればカグラは「女性化しないでおとなしくした」とは言えません。
カグラの口調が荒っぽくなくなった(女の子らしくなった)ことはこの方も認めるところですし、どんな舞であろうと戦う手段である時点で「おとなしくしている」とは言い難いです。言わば「女性化しておとなしくなくなって」います。男の子であるカグラが女の子と同じ構図だと、この方的にはアウトのはずです。
私の個人的な主張の肝は言わば、プリティでキュアキュアな女の子が暴れることは、プリティでキュアキュアな男の子が暴れていてもできますよね、です。
私はプリキュアであるからには「プリティでキュアキュアで暴れるもの」であることが全てで、そこに性別は関係ないと考えており、男の子だからといって「プリティでキュアキュアで暴れるもの」ではない意味を付けられている方が違和感があります。
性別としての意味より、プリキュアとしての意味の方が優先と考えます。
ウィングの問題点
・同棲やパジャマパーティはそもそも必須ではないですし、工夫すれば描きようはあるでしょう。
ひろプリの場合、例えば女性陣の着がえにウィングが鉢合わせするなどのおかしなハプニングはなかったので、問題なく機能しているチームと捉えられます。
また、例えばわんぷりで悟が追加戦士だった場合、パジャマパーティが終わった後のタイミングだったはずなので、やはり問題は起きません。
それにしても、「男の子の意味」と大きく銘打って語るのが、同棲やパジャマパーティとは……。
・保育についても実際に問題は起きていませんし、保育といっても、ツバサがキュアマジェスティ/エルちゃんの下の世話などを担っていた描写もありません。
この観点で言えば、はぐプリのハリハム・ハリーの方がよほど問題です。彼はウィングと違って恐らく大人である上、世話をしている赤ちゃんは意中の少女です。ヨヨさんのような監視役がいるわけでもなく、はぐプリチームはひろプリチームのように同棲していないので、ツバサ以上に付きっ切りだったはずです。
・ツバサは女性陣に囲まれていることを「ハーレム最高!」などと喜んだことはありません。
ただ女性陣に囲まれているだけでハーレムと思うのは、先入観なく見ている人ではなく、「男にはハーレム願望がある」という先入観の持ち主です。
いずれにしても、起きてもいない、起きる気配すらないことを問題視していて、ただの邪推の範囲です。「描かれているものをそのまま見る」とは何だったのでしょうか。
また、作中ルールではない「女の子だって暴れたい!」を引き合いに出す一方で、「男の子でもプリキュアになれる」を内輪の話と切り離すのは筋が通らないと思います。
事実、世の中がプリキュアを「女の子に限るもの」とイメージしていたのなら、良い悪いはさておき、男の子がそれを打ち破ったという言い方はできるでしょう。
意味を見いだすのがダメだとは言っていません。意味がないという評価もアリだ、と言っています。
「全プリキュア展の「女の子だって暴れたい!」」
その展示はクリエイティブディレクターの辻愛沙子さんがプロデュースしたコーナーで、初代「ふたりは」への言及に特化しています。
最終的に公式サイドが許可しているにしろ、辻さんの意向が強く出ているはずです。
【Works】
— 辻愛沙子|arca (@ai_1124at_) February 1, 2023
2/1から開始した #全プリキュア展 で、プロデュースの部屋を作らせて頂きました!
20年前、「女の子だって暴れたい!」というコピーから始まったプリキュア。
自分の足で立ち自分の拳で戦う、強くて賢いガールズヒーローに沢山の影響を受けてきました。愛が詰まった展示になっています❤️🔥 pic.twitter.com/eitj1q5ovi
そして当の辻さんは男の子プリキュアを、「お姫様」論ではなく「性別は関係ない」という理由で擁護している節があります。以下をご覧ください。
ただし、キュアアンフィニの頃の話で、今も同じ考えかは分かりませんし、ウィングのような正式メンバーや全員男の子のぼくプリとなれば考えが変わるかもしれません。そこまでは確認できませんでした。
公式サイドからは、例えば以下の記事で、「「女の子だって暴れたい!」が一人歩きしている」という発言がありますね。
その上で「20年もやっていれば、男の子の1人や2人はいる」とも言っているので、暗に「男の子プリキュアを批判するときにこのコンセプトばかり出発点にしないでほしい」という意識があると推測できます。
「女の子だって暴れたい!」でプリキュアを生み出した鷲尾さんは、自ら男の子プリキュアを肯定していますし、やはりこのコンセプトだけをフィーチャーするような口ぶりではないです。
「それも大切だが、それだけではない」が妥当なところではないでしょうか。
思い返せば、このコンセプトをクローズアップするのは取り上げるメディア側であって、公式サイドの方からアピールしている場面は意外となかったのでは、と感じます。
ジェンダーについて語る場に招かれでもすれば、そういう語り方もするでしょうが、それもまた場を用意した側の意向でしょう。
さらに言えば、語られるときは大体「「初代は」このように始まりました」が中心で、あくまで初代の頃の事情という面が強いのではないか、とも思います。
全プリキュア展の件もそうですよね。
「それも大切だが、それだけではない」「20年もやっていれば1人や2人くらい男の子は」というスタンスからは、「男の子もお姫様」が自然に導き出されるとは言い難いでしょう。
むしろ、上記引用の鷲尾さんのインタビューなどがそうであるように、「プリキュアの精神があるなら男の子でも女の子でも関係ない」という主旨の発言をよく聞きます。
男の子に、「お姫様」のような女の子とは違う意味付けをしていたら、こういう言い方にはならないはずです。
まして、はっきり「男の子プリキュアは女の子と違う意味(お姫様)を持たせています」と発言した場面を、私は知りません。はっきりしない以上、それを見いだすのは自分の願望に過ぎないはずです。
はぐプリのセリフは、本当にお姫様になりたい男の子に向けてのメッセージだったと考えるのが自然でしょう。
私は「お姫様」の否定はしていませんし、願望を投影するのは自由です。
それもいいけれどそうでなくてもいい、それだけじゃない、そうとは決まっていない、と言っているのです。
もちろん、公式サイドがこの先「お姫様」論だったと明かすなら、この点に関してはこの方が正しかったと認めます。
その場合、私にはそうしているようには見えなかった、という話にはなりますが。
後編に続きます。



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