キミプリ+ぼくプリで思ったこと・前編(スタンスと反論)
はじめに
長年のプリキュアファン、KLPです。
この記事はキミプリ+ぼくプリのコラボについて考えたことを書きますが、「スタンスと反論」に入るものとなります。
またグダグダと書くことになるので、「普通の」記事を読みたい方は以下よりお願いします。
また、コラボについての「普通の」感想は視聴後に投稿する予定です。
キミプリには男の子のメンバーがいませんし、ぼくプリは正式なプリキュアとはいえ別な作品からの1話きりのゲストなので、批判派の再燃ぶりには正直驚きました。
男の子プリキュア全体ではなくぼくプリだけが苦手、という人たちもいるのは知っていますが、これほどとは……と思いました。
とはいえ、批判派の言うこと自体に大きな変化があったわけではなく、それに対する私の考えも以前書いたものから変わっていないので、それらをまた書こうとは思いません。
「舞台サイドが強引に進めたコラボだ」などの陰謀論めいた言説が見られますが、相変わらずのことなので、取り上げるほどでもないでしょう。
今回はあることについて、これを機会にちょっと深く考えてみたのでまとめました。
それは、初代「ふたりはプリキュア」のコンセプト「女の子だって暴れたい!」についてです。
「暴れる」とは?
「女の子だって暴れたい!」のプリキュアが変わってしまった…男の子の活躍があるたびに批判派からこう声が上がります。
私はそのたび、このコンセプトが安易にふりかざされているように感じます。もう少しこの言葉を深掘りできないでしょうか。
例えば、このような記事がありました。
上記引用の他にも男の子プリキュアやぼくプリについての記事がいくつかありますが(以下、それら複数の記事を読んだ上での記述になります)、ただ過激なだけの反対意見ではない考察が書き連ねられており、興味深く読み始めました。
しかし、こねくり回して深掘りした結果、一周回って表面的な結論に至ってばかりで、非常に惜しく感じます。
例を挙げるとぼくプリ第1弾について、「妖精は悪、よってプリキュアも悪。プリキュアのキラキラした面を否定したのが男の子でやった意味」という主旨でまとめています。
「プリキュアで求めていた展開ではなく、ショックを受けた」という感情的な話なら理解できますが、続編へとあえて残した「引っ掛かり」をあたかも確定したバッドエンドのように語り、さらに男の子プリキュアの意義までつなげるのはあまりにも論理が飛躍しすぎています。
(なお、第1弾では妖精パドドゥについて詳しくは分からず、悪者とは断定できません。ましてや人々を絶望から救うプリキュアの善意は、裏事情とは無関係に存在するものです。この方の理屈では、善意から故郷の崩壊を招いた5のナッツも悪者になってしまいます。キュアドリームは何と言っていたでしょうか?
第2弾ではパドドゥに追加情報がありましたが、謎も増えました。さて第3弾ではどうなるでしょうか)
また、ぼくプリが(キャラによっては女性的な)ダンスで決着をつけることを挙げ、「『女の子だって暴れたい!』で女の子の戦いを描いたことの逆になっているので、男の子でやる意味があった」とも書いています。
しかしきちんと見ると、ぼくプリはダンスで浄化する前に激しく肉弾戦をしています。戦闘の一部にダンスを使うのはハピプリに前例がありますし、今のキミプリがライブで浄化するのとも構図が似ているので、男の子特有の戦い方とは言えません。
《2025年11月20日(木) 追記
なお、記事には「女性らしいふるまいに変わることは男の子だからよしとされた。女の子のプリキュアではありえない」旨が書かれていますが、女の子のプリキュアで「男性らしくふるまっていたのが、女性らしいプリキュアになり、最後は普段のふるまいまで女性らしく変わる」というキャラはいました。この方が全てのシリーズを見ているのなら、知っているはずです。》
私はもう何度もぼくプリを鑑賞していますが、この物語のどこに「戦うこと」「プリキュアのキラキラ」の否定があるのかさっぱり分かりません。何度見ても、戦いに胸が熱くなり、キラキラに心が照らされます。
引用記事は、パドドゥへのショックからいろいろ見落としているか、あまりにもこねくり回しすぎたかのどちらかに見えます。
ところで、よく論点に上がる初代のコンセプト「女の子だって暴れたい!」ですが、「暴れる」とは何でしょうか?
引用記事の方は、肉弾戦、ひいては積極的に戦うことを主に指しているようです。従来女性らしくないとされてきたそれを、女の子にさせたことがプリキュアの特徴である。よって男の子プリキュアは「男性らしさ」を打ち破るべきであり、女の子と同じでは意味がない。という理屈のようです。
ですがこれだと、肉弾戦を「しない」が基本だったプリアラやわんぷりは、暴れていないことになってしまうんですね。
逆に、男の子であるデパプリのブラックペッパー/品田拓海や、わんぷりの兎組の変身後は戦っているはずなのですが、ブラペは特に言及されず、兎組はよしとされています。(わんぷりは前述のとおり暴れていないとも取れますが、どのみち兎組は女の子たちと違う戦い方をしているわけではありません。)
名前がプリキュアでないからでしょうか。やはり表面的です。
また、賢者に落ち着いたひろプリのキュアウィング/夕凪ツバサや、頭脳の担当が多かった兎山悟を擁護するのは矛盾です。
なぜなら、「頭がいい」「人に指示を出して導く」ということもまた、従来は「男性らしさ」だったからです。「男性らしさ」を打ち破ることに重きを置くなら、ウィングも悟も上手くできていません。
(なお、「賢者」をポイントにするのもよく分かりません。世界を守るために戦うことや、お姫様の騎士になることと、賢者は同時にできないものという前提なのでしょうか?
また、「プリキュアでは夢は叶わない」というのも、プリキュアで夢を叶えたキャラの方が少ないですし、ウィングはむしろ「空を飛ぶ」という夢をプリキュアで満足させてしまった側です)
あるいは、敵に立ち向かう心構えまで含めた上での「暴れる」という解釈もできるでしょう。
これだとプリアラやわんぷりも含めることができますが…今度は男の子もプリキュアの味方となり敵に立ち向かった時点で「暴れる」になり、ますます悟のような立場を擁護できません。ぼくプリも、ダンスだから暴れていない、は通用しなくなります。
つまりこの方の言う「暴れない男の子」は、はじめから無理なのです。
コンセプトの意味は?
それと批判派は、「女の子だって~」とあるから男の子を出すのはおかしい、と言いますが、これも違うと思います。
「女の子だって暴れたい!」とは、文字のとおりそのままの意味です。
この言葉自体には、男の子はどうすべきかという視点はありません。「ライスあります」が「パンはありません」という意味ではないのと同じです。
プリキュアどうこうではなく、言葉の読み方の問題ですね。
引用記事の方の「男の子だっておとなしくしていたい」「守られたい」「戦いたくない」「お姫様になれる」…なども、同様の拡大解釈と言えます。いわばこの方の、そうあってほしいという願望ではないでしょうか。
(「お姫様になれる」ははぐプリのセリフですが、この言葉をかけられた若宮アンリはお姫様にならないどころか、後に男の子で初めてプリキュアを名乗り一戦力となっています)
ここで批判派からは、「男の子が既に暴れている中、女の子が暴れることを示したのがプリキュアである。だから男の子は、今さらプリキュアとして暴れる必要はない」と反論されそうです。
ここからは公式サイドが明言したことではなく、私の考えです。
初代のコンセプトが女性らしさを打ち破る意義を持っていることは大変素晴らしいと思います。
では、打ち破って何を表現したかったのかというと、女の子も男の子と変わりない活躍ができる、ということでしょう。
そこで女の子だけで活躍するのもいいですが、男の子と一緒に戦うこともまた、その表現の一つではないでしょうか。
男の子に女の子と逆の意義を与えるというのは、結局は性別によって違う役割をさせてしまうことでもあります。
もちろん、男の子にも男性らしさを打ち破る機会があってほしいですし、役割をあえて逆にしてみることも必要ではあるでしょう。
あとは公式サイドがどういうスタンスで作品を作りたいかということでしかなく、そこで「男女が共に活躍する」という方法を取ったとして、間違いでも何でもありません。
自分の願望としてこうあってほしかった、という気持ちの話なら理解できます。
しかし、客観的に正しいか間違っているかという話に持っていくのは、それこそ間違いです。何を正しいとして作るかは公式サイドだけが決められることであり、視聴者サイドが語れるのは好きか嫌いかだけです。
また、手足を出して戦っているかという、表面的な判断で男性らしさを語るべきではないとも思います。
キュアウィングが戦うのは、大切な人や世界を守りたいからです。それは性別に関係のない人間的な善意であり、「女には任せていられない」「僕は男だから戦う」と考えることとは全く違います。
頭を使うことも同じです。ウィングも悟も、男だから頭を使わなければならないというような態度は取っていません。自分ができることを精一杯頑張った、というだけなのです。
女の子のプリキュアにもいろいろなタイプのキャラがいます。「女性らしさ」とされるような性質を持っていたり(話が進むにつれて女性らしくなったり)、戦うにしても防御やサポートに徹していたり…。
それらを「女性らしさに囚われているわけではなく、そのキャラにできる戦い方をしている」と捉えるのであれば、男の子もまた同じことです。
戦わない男の子も結構ですが、戦っているから男性らしさから逃れられていない、戦いを否定すれば男性らしさから逃れられている、という捉え方は短絡的です。
多くの擁護派がウィングについて「「男の子」を強調しておらず、自然に溶け込んでいてよかった」と言っているのは、こういうことなのではないかと思います。
男の子だからと一人違う行動をするわけではなく、かといって女の子以上に暴れるわけでもない。そのバランスを男の子プリキュアとしての「成功」と感じるのでしょう。
性別にこだわり、「男の子に必然性を」と言う批判派とは、噛み合うわけもありません。
後編に続きます。



コメント