ハンマーを用いた今回の事件について、加害者を擁護する意見が一定数見られることは、社会的に見て注意すべき傾向だと考えます。その理由を整理してご説明いたします。
まず、日本は法治国家であり、「暴力」の行使は厳格に制限されています。
そもそも暴力を制限するという考え方自体が、文明社会の基盤となるものです。世界を見渡しても、個人が自由に暴力を行使できる国家は存在しません。(一方で、国家は一定の範囲で強制力や武力を管理・行使する主体でもあります)
ここで誤解していただきたくないのは、日本には「暴力を自由に使ってよい主体」は存在しないという点です。
存在するのは、法律に基づき、厳格な条件のもとでのみ強制力を行使できる公的機関に限られます。
この前提に立つと、今回の事件に対する一部の擁護論には、明確な問題があると言えます。
「迷惑を受けた」「警察の対応が不十分である」といった不満については、理解できる部分もあります。
しかし、それを理由にハンマーや刃物を用いた行為を正当化することはできません。
ここで重要なのは、論点を切り分けることです。
「相手に非があること」と「暴力が許されること」は、全く別の問題です。
仮に迷惑行為があったとしても、それに対して個人が制裁を加える行為は、適切な対処ではなく「私刑」にあたります。
私刑が容認される社会では、「どこまでが許されるのか」という基準が失われ、個々人の感情がそのまま暴力の根拠となってしまいます。
その結果、
・迷惑だから殴る
・気に入らないから傷つける
・先に手を出した者が優位に立つ
といった報復の連鎖が生じかねません。
これは法治ではなく、無秩序な状態と言わざるを得ません。
警察の対応に課題がある場合には、制度としての改善を求めることが本来の筋です。
しかし、それを理由に個人が暴力を代行してよいという結論には至りません。
国家が管理すべき強制力を個人が担い始めたとき、その社会は法治の前提を失います。
したがって、感情として理解できる側面があったとしても、今回のような行為を擁護することは、社会の基盤そのものを揺るがす行為であり、認めるべきではないと考えます。
極端に言えば、この考え方を許容してしまうと、誰かが「うるさい」と感じただけで暴力が正当化される社会になりかねません。
公園や幼稚園で遊ぶ子どもに対して苦情を持つ人が、同様の手段に出た場合でも、それを擁護できるでしょうか。
登場人物が異なるだけで、構造は同じ問題です。
この点を冷静に捉えることが重要だと思います。