太平洋戦争末期、米国は広島・長崎に続く3度目の原爆投下計画を進めており、京都市は投下の可能性がある都市の一つだった。もし、日本が無条件降伏を拒み続け、京都市に原爆が投下されていたら、どのような惨禍が起こっていたのか。人類初の核兵器使用から80年にあたり、京都新聞社が広島大の専門家の協力を得て具体的な被害状況を想定したところ、死傷者20万人を超える甚大な被害の可能性が浮上した。さらに京都市民は、戦後も長く健康不安や結婚・就職差別などに苦しみ、現代まで原爆の被害を引きずることになったと考えられる。

※この記事は、京都市への原爆投下を想定したもので、実際の出来事ではありません。自治体名は2025年現在の表記を使用しています

京都にもし原爆が投下された場合の被害をシミュレーションした紙面

■「文化財が多かったから、京都は空襲がなかった」は大きな誤解

 「京都に空襲がなかったのは、文化財が多かったから」と語られることがあるが大きな誤解だ。1945年、米軍は原爆投下の威力を詳しく確かめる目的で、京都市への大規模な空襲を停止していた。

 原爆計画責任者だった米陸軍レスリー・グローブス少将の残した最高機密文書(米国立公文書館所蔵)によると、45年5月の標的委員会で、京都市は市街地の規模や保存状態から、原爆の威力測定や心理的効果の面で最適とされる「AA目標」に選定された。

原爆投下の目標だった梅小路機関車庫(中央付近・現京都鉄道博物館)周辺。東海道線と山陰線がT字に交わり、上空からも視認しやすかったとされる(2023年6月、京都市南区から西北西を望む)=ドローン撮影

 投下目標地点は、鉄道がT字に交わり上空から視認しやすい梅小路機関車庫(下京区、現京都鉄道博物館)だった。AA目標は京都と広島の2市、A目標が横浜と小倉(現北九州市)の2市、B目標が新潟市だった。

 45年7月21日、戦後の占領政策を円滑にするという政治的理由で京都市は除外され、長崎市が追加された。しかし、7月24日に大津市、7月29日に京都府舞鶴市に「京都投下」の訓練とみられる模擬原爆(パンプキン爆弾)の投下があり、完全に目標から外れたのかどうか、真実は今も分からない。

模擬原爆「パンプキン」の実寸大の模型(大津市御陵町・大津市歴史博物館)

 こうした経緯を踏まえ、京都新聞社は京都市に原爆が投下された事態を具体的に想定した。45年の京都市と周辺の人口分布や広島市の被害状況などを基に、人的・建物被害を算出したところ、死傷者20万人を超える甚大な被害の可能性が浮かび上がった。また、戦後に京都の人々が背負う健康被害や差別、心身の苦痛などを被爆者の実体験や資料から考察した。

 具体的な被害の推定手法や医学的な影響などは、原爆被害に詳しい広島大平和センター川野徳幸教授に協力・助言を受けた。

 想定の狙いは、決して原爆の威力を示すことではない。核兵器の極めて高い暴力性や残虐性を「私たちが暮らす街」で表現し、平和や核廃絶、広島・長崎の惨禍を自分事として考えることにある。

■もしも京都に原爆が落ちていたら~以下、シミュレーション記事

 1945年8月下旬、よく晴れた午前中。約86万人が暮らす京都市は、猛暑続きで北北東の弱い風が吹き、地蔵盆の季節を迎えていた。市内各地で、空襲時の延焼を防ぐため建物疎開が進められていた。

 米爆撃機B29が数機、大阪府北部から京都市上空に侵入し、原爆を投下した。原爆は、数十秒後に下京区の梅小路機関車庫(現京都鉄道博物館)上空約600メートルでさく裂した。

 閃光(せんこう)に続いて巨大な火球が出現し、梅小路機関車庫付近の地表温度は3千~4千度となった。強烈な爆風が発生し、爆心地付近で風速440メートル、3キロ付近で京都市の観測史上最大風速(1934年室戸台風の風速28メートル)を上回る風速29メートルに達した。爆心地付近はほぼ全員が即死し、熱線で屋外にいた人の体が炭化した。半径1・5キロ以内はほとんどの物に着火し、屋外にいた人は致命的な熱傷を負った。

京都の原爆被害想定図

 爆風と熱線により、爆心地から約2・5キロ以内は建物が全壊全焼した。レンガ造りの京都駅は倒壊、東寺や東西本願寺は跡形もなくなり、市街地は四条烏丸や西院、東九条、吉祥院付近まで壊滅した。屋外にいた人の皮膚は焼けただれた。木造家屋が密集した京都市街は猛火に包まれ、祇園祭の山鉾は大半が焼失した。火災は2・5キロ以遠でも所々で発生した。

 熱線でやけどを負った人は爆心地から約4キロまで、建物の半壊は約5キロまで及んだ。府庁や市役所、祇園や西陣の街並み、清水寺や京都御所、伏見稲荷大社などが損壊した。山科区は、東山連峰が防壁となり比較的軽微な被害だった。爆風の影響は15キロ程度まで及び、上賀茂神社や修学院離宮、嵐山、宇治市、長岡京市などでも民家の窓ガラスが割れるなどの被害が出た。

 投下から20~30分後、放射性物質を含んだ「黒い雨」が降り始めた。降雨域は、宇治市や八幡市、大阪府の高槻市や枚方市などにも広がり、風に流されて爆心地から数十キロ先で降った地域もあった。貴重な食料だった魚やキノコなどに放射性物質が蓄積された。淀川に黒い雨や灰が流出し、大阪府内の飲料・農業用水が放射能で汚染された。

■死者10万4千人以上、負傷者13万5千人以上

 投下から1年間で、現在の京都市域で10万4230人、向日市域で147人、計10万4377人の住民が死亡(行方不明5777人を含む)した。うち9割程度は投下2週間以内に死亡した。爆心地周辺では、熱線や爆風で負傷しなかった人も急性放射線障害で相次ぎ死亡した。

京都の原爆被害想定図

 広島市に比べて死者数が少ないのは、爆心地が都心から外れており、南西方向に農地が広がっていたためだ。また、軍関係者や、投下後に京都を訪れ被爆した「入市被爆者」を含めると、さらに犠牲者は多い可能性が高い。

 重軽傷者数は、京都市と向日市で計13万5195人に上り、広島市を大きく上回った。当時の推定人口約34万~35万人だった広島市に比べ、京都市と向日市は計約2・5倍の人が住んでおり、爆心地から北に広がる京都市街で負傷者が多くなった。

 救援は、伏見区深草にあった陸軍第16師団をはじめ、大阪府や滋賀県などからも軍や医療関係者が駆けつけた。広島市に比べ周辺人口が多く、救援や親族の安否確認のために京都市を訪れた入市被爆者は、広島市の約8万9千人を上回った可能性がある。

■がんの発症率増加、被爆後80年たっても高いリスク

 原爆の被害は投下直後にとどまらず、長く現在に至るまで続く。

 京都市では、がんの発症率が上昇した。被爆2~3年頃から特に白血病が増え始め、50年代前半にピークとなった。爆心地から1・2~1・3キロ以内にいた人は、50~85年に白血病で死亡するリスクが5倍近くになり、その他のがんを含めても1・5倍ほど高い死亡リスクを抱えて生きることになった。2025年現在も、被爆しなかった人に比べてがんの発症率が高い状態が続く。

 こうした原爆症のほか、熱傷後のケロイドで苦しむ人が続出した。多くの被爆者が、結婚差別や就職差別、貧困、トラウマ(心的外傷)などに直面した。胎内被爆者には、脳や体に障害がある原爆小頭症患者として生まれる人もいた。自身が無事でも、家族を失ったり、孤児になったりした人が多数いた。

 広島市と長崎市は、元の人口水準回復に約10年を要した。55年の京都市は実際は約120万人だったが、原爆投下があった場合は大幅に少なくなった可能性がある。多くの京町家や文化財が失われ、戦後の発展や観光産業にも影響した可能性が高い。

close
Advertisements
kyotonp 京都新聞 2026春割
arrow_forward_ios
もっと読む
00:00
00:15
00:52