1945年、もし京都市に原爆が投下されていたら 広島とともに一時「AA目標」、具体的な被害をシミュレーション
■もしも京都に原爆が落ちていたら…その死傷者数は
1945年8月下旬、よく晴れた午前中。約86万人が暮らす京都市は、猛暑続きで北北東の弱い風が吹き、地蔵盆の季節を迎えていた。市内各地で、空襲時の延焼を防ぐため建物疎開が進められていた。 米爆撃機B29が数機、大阪府北部から京都市上空に侵入し、原爆を投下した。原爆は、数十秒後に下京区の梅小路機関車庫(現京都鉄道博物館)上空約600メートルでさく裂した。 閃光(せんこう)に続いて巨大な火球が出現し、梅小路機関車庫付近の地表温度は3千~4千度となった。強烈な爆風が発生し、爆心地付近で風速440メートル、3キロ付近で京都市の観測史上最大風速(1934年室戸台風の風速28メートル)を上回る風速29メートルに達した。爆心地付近はほぼ全員が即死し、熱線で屋外にいた人の体が炭化した。半径1・5キロ以内はほとんどの物に着火し、屋外にいた人は致命的な熱傷を負った。 爆風と熱線により、爆心地から約2・5キロ以内は建物が全壊全焼した。レンガ造りの京都駅は倒壊、東寺や東西本願寺は跡形もなくなり、市街地は四条烏丸や西院、東九条、吉祥院付近まで壊滅した。屋外にいた人の皮膚は焼けただれた。木造家屋が密集した京都市街は猛火に包まれ、祇園祭の山鉾は大半が焼失した。火災は2・5キロ以遠でも所々で発生した。 熱線でやけどを負った人は爆心地から約4キロまで、建物の半壊は約5キロまで及んだ。府庁や市役所、祇園や西陣の街並み、清水寺や京都御所、伏見稲荷大社などが損壊した。山科区は、東山連峰が防壁となり比較的軽微な被害だった。爆風の影響は15キロ程度まで及び、上賀茂神社や修学院離宮、嵐山、宇治市、長岡京市などでも民家の窓ガラスが割れるなどの被害が出た。 投下から20~30分後、放射性物質を含んだ「黒い雨」が降り始めた。降雨域は、宇治市や八幡市、大阪府の高槻市や枚方市などにも広がり、風に流されて爆心地から数十キロ先で降った地域もあった。貴重な食料だった魚やキノコなどに放射性物質が蓄積された。淀川に黒い雨や灰が流出し、大阪府内の飲料・農業用水が放射能で汚染された。