与野七福神・弁財天(旧) 二度栗山 | 埼玉いいじゃん。

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与野七福神の弁財天は、平成25年に二度栗山にあった弘法尊院から与野公園北側の御嶽神社に変わりました。
「二度栗山」は、「山」というより、6mほどの丘という風情です。「二度栗山」は小字として地名になっていた時期もあり、北東には「二度栗山」交差点があります。

「二度栗山」には、5つのポイントがあります。

1.縄文時代の遺跡
2.弘法大師(あるいは弟子)の伝承
3.温泉があった
4.五百羅漢
5.四国八十八箇所霊場巡り

1.二度栗山遺跡 さいたま市遺跡調査会報告書第11集にまとめられています。縄文時代の土器が出土しています。

2.弘法大師の伝承
『与野市史』によると
天長年間(824~833)の秋、身に墨染めの衣をまとい、杖をたよりに、与野郷の地へたどり着いた一人の僧侶があった。路傍の石に腰をおろし、ふと前を見ると、一人の童が木によじのぼり、しきりに栗の実を落としている。そこでくだんの僧は「愚僧に一つもらえまいか」と声をかけた。わらべは無言で木から降りてきて、落とした栗を拾い集め、両手にいっぱいの栗を僧侶の前に差し出した。「袋があればもっといれてやるよ」と言いながら、再び木にのぼった。僧侶は喜んで「感謝のしるしに栗の実を毎年二度ずつなるようにお祈りしよう」とつぶやいて、経文を一心不乱に唱え、「わたしは人々の難儀を救うために諸国を行脚している空海というものです。わたしが去ったあと、この石にお祈りし、遍照金剛の御袖におすがりして、御利益を受けなさい」と言い残し立ち去った。それで、この石を唯一の記念として弘法大師の徳を慕った。それから、栗は一年に二度ずつ実を結び、大師が杖を立てた跡からは霊泉が湧き出た。この霊水を「御加持水」といい、どんな難病も治癒すると広まった。
という、二度栗山の由来です。

明治36(1903)年に「北足立八十八箇所弘法大師霊場」の三番として創建された、というのが、弘法尊院の説明なのですが、天長年間からの伝承があるのに明治になってからの創建というのも千年以上過ぎていて不自然だと感じていたら、それ以前から弘法大師を祀る御堂は建っていたそうです。

その明治からの弘法尊院は平成18年に老朽化のため解体され、再建のために墓地の分譲をしたようですが、再建を断念、廃寺となりました。

3.二度栗山温泉



「御加持水」とは、ラジウム温泉だったようで、開業年月日は不明なものの、二度栗山温泉として昭和30年11月17日付埼玉新聞には「にぎわる与野の『百円温泉』という記事が残されています。平成15年くらいまで営業していたという話も聞いたのですが、写真等は見つかりませんでした。

4.五百羅漢


平成3年9月にさいたま市の文化財に指定されているもので、さいたま市の文化財紹介によると、
大正10年から昭和34年にかけて、近隣の信徒から奉納されたもので、大正10年に地元の井原のぶ発願によって木像漆箔仕上げの立像・坐像335躯が、昭和31年には、川口市の石田善兵衛によって再発願され、素木造りの立像136躯が安置されました。寺側でも32躯の像をを納め503躯の羅漢像が完成をみたと伝えられています。現在は513躯の羅漢像が納められており、各像には寄進者の名とともに意趣を記した木札が付されています。

これは、川口市の善光寺に移されました。

5.四国八十八箇所霊場巡り

二度栗山

この塔の石仏や石碑は、以前、二度栗山の周りにおかれていたもので、その道筋を辿り巡ると、四国霊場を巡拝したのと同じ功徳があると言われていました。その後、地域開発や石仏の風化や紛失で山裾に置いておけなくなり、一ヶ所にまとめられ巡礼塔となりました。

現在の巡り方は、巡礼塔の周りを「南無大師遍照金剛」と唱えながら、一周ごとに手前にある鐘をついて4周します。

1周目は阿波の国(徳島)1~23番札所
2週目は土佐の国(高知)24~39番札所
3週目は伊予の国(愛媛)40~65番札所
4周目は讃岐の国(香川)66~88番札所


脈々と歴史があり、興味深いところなのに、お寺が廃され、七福神からもはずれてしまうとはなんとも残念です。 御嶽神社には、すでに弁天様の石像がありましたから、この弁天様は一体どうなるのでしょう。

二度栗山

二度栗山

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二度栗山・弘法尊院
さいたま市中央区新中里3-5-29

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