清川八郎と広瀬旭荘

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 広瀬旭荘の日記『日間瑣事備忘』巻五十二、文久三年四月二十六日に言う。 

 

浪士 党を結び、将に不軌(謀反)を謀らんとす。(とう)(かい)の清川八郎 之を止む。浪士三人、竊かに八郎を殺さんとし、事(さと)られ、故に官は之を捕う。宗助曰く、「清川八郎は何人ぞ」と。余曰く、「客年、(それがし)は郷(豊後の日田)に在り。東来の一客 話して曰く、「某の識る所の出羽(山形)の書生清川八郎は、武技を善くす。客年(文久元年、一八六一、五月二十日)、人を殺し、(かさみ)春斎の家に匿れ、而して(のが)る。春斎は下獄に坐し、(まま)(「痩」か?)死す。捕手は八郎を()い、屡ば之に()う。然れども其の勇を憚り、敢て近づく者莫し。八郎は終に京師に奔り、浪士の社に入ると云う。後に肥後の士人の上書を観るに、「浪士清川八郎來りて勤王を勸む」の語有り。盖し浪士中の錚佼(そうこう)なり。(原漢文)

 

  右の記事の前には、村上俊五郎・石坂周蔵ら二十八人の浪士が六

月十五日に逮捕された事を言うが、いずれも八郎の一党である。旭荘の筆記は、

大まかに八郎の消息を伝えているが、実は彼はこの文久三年四月十三日には、

江戸の芝一の橋で速水又四郎・佐々木只三郎に暗殺されていたのである。

そのように若干の事実誤認はあるけれども、詩人旭荘が勤王の志士の代表格とも

言える八郎の消息をこの時点で曲がりなりにも把握していた事を示す記事として意義深

いものがある。

 

 また、末尾の「錚佼」は、多くの者の中で特に優れて、抜きんで

ている様子を指す言葉(『後漢書』十一、「劉盆子伝」)だが、旭荘

がなかなか八郎の人物を認めていた事を窺わせるもの、と言えよう。

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