「鉄腕アトム」のアニメが米国で放送された際、タイトルが「ASTRO BOY」に変わったのは、米国では「アトム」は「屁」を意味する言葉だったから…という話を子供の頃に聞いて「へ〜」と思ったが、後に米国人の親戚が出来た時にそのことを訊くと
「アトムが屁?そんな隠語は知らないなぁ」
と
夕陽の侵略者
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野球部なんかなかった」
とかデタラメばかり語った。
それは全部、各新聞に載った。
筒井の言ったことが嘘ばかりだったことに怒った新聞各社が抗議すると、筒井は
「なぜ本当のことを言わなければならないのか!」
と逆ギレし
「そもそも新聞は裏取りをしないのか?」
と痛いところを突いたのだった。
昔。筒井康隆の出身高校が甲子園に出ることになった。卒業生の中で有名人は筒井しかいなかったので、筒井のもとに新聞の取材が殺到した。
筒井は高校野球にあまり関心がなく、また、ああいう人だから
「私も元野球部でしたが、あまりにも弱かったのでやめました」
とか
「私がいたころは
怪奇大作戦「24年目の復讐」
水中でも呼吸ができる水棲人間となった生き残り日本兵が、横須賀基地の米兵を殺しまくる、という問題作。(まだ横井さんが発見される前の作品だが、南方のジャングルに潜む残留日本兵の噂は、ずっと囁き続けられていた)
横井さんより小綺麗な木村二等兵(天本英世)は
私は怪獣のことばかり考えている子供だったので、長嶋茂雄のことは名前以外ほとんど何も知らなかった。
「お前、長嶋の背番号も知らんらしいな。バーカ!」
しかし、そいつはゴジラの体重や、バルゴンの弱点を知らなかった。
「何だ、そんなことも知らんのか?バーカ」
と返すと
長嶋が亡くなった翌日に「野球が雨で流れたら雨傘番組として怪獣映画が放送されて嬉しかった」という話を書いたら「お前は人間としてなってない!」と怒られた。
別に私は長嶋茂雄のことを軽蔑しているわけでもバカにしているのでもなく、ただ「このタイミングでそういうことを思い出した」という事実
「鉄腕アトム」のアニメが、米国では「ASTRO BOY 」になった件。「ATOM」は「屁」を表すスラングだから……という説を紹介したが、ある方のご指摘でDCコミックに既に「ATOM」というヒーローがいた……ということがわかった。
これに重複しないように名を変えた……ということに加えて、
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「そんなこと知って何になるんじゃ!バーカ!バーカ!バーカ!」
と大声で怒鳴られた。
これが当時の野球と怪獣の力関係である。
なお、野球中継が雨で流れると穴埋めに「大魔神」や「ガッパ」等の怪獣映画が放送されることが多く、私はそれを期待して雨乞いをしていた。
「妖怪大戦争」はバビロニア遺跡の盗掘が、太古の妖怪を目覚めさせてしまう、という発端だが、この部分が「エクソシスト」の冒頭にそっくり引き継がれている。絵的にもほぼ相似形なのだ。
「妖怪大戦争」はダイモン(デーモン)が大名に取り憑くが、「エクソシスト」は少女に憑く。後は正邪対決
「シン・ゴジラ」はゴジラに対峙するのが国家というメカニズムだったために、劇中人物は全員歯車的存在としてキャラクター性が極端に抑えられていた。(劇中人物が皆早口でメカニカルな言葉を発するのも、その為かなと思ったが、これは官僚言葉のリアリズムだったようだ)
この構造は
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言われた。別のもっと年上の米国人も「知らない」という。これはどういうことか?地域的なスラングなのか?昔はそう言われていたが今は廃れたのか?それとも嘘だったのか?
ほかにも「ポケットモンスター」=「陰茎」もよく言われるが、本当なのだろうか?
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カルピス=「牛の小便」は本当だが、COW-PISSのPISSは本来は「小便」ではなく「ビール」の意味らしい。
ややこしいなぁ。
家内はホラー映画を決して見ようとしない人だが、ドラキュラだけは見る。そして笑っている。
クリストファー・リーが夢路いとし・喜味こいし の 喜味こいし師匠にしか見えないかららしい。
日本のクリストファー・リーは岸田森じゃなくて喜味こいしだ。
怪獣ブームの頃。怪獣のパワーを具体的に示す方法として、現実に存在するものの力を基準にすることが流行っていた。
よく言われる「ジャイアント馬場何人分」がそれだが、馬場はどちらかというと怪獣側の人だから、現実に置き換えるには相応しくなかったかもしれない。
それは
「七人の侍」は、一度見始めたら途中で鑑賞を中止することが困難な映画だが、内容については、これを「日本の再軍備を奨励する映画」とする佐藤忠男らの批判もあった。
佐藤忠男は侍が人格者として描かれているのに対して、百姓を臆病卑屈不潔の役立たずに描いた単純に過ぎる差別構造にも
映画「カジノ・ロワイヤル」以後のダニエル・クレイグの007ジェームズ・ボンドは、それまでの映画シリーズのアンチになっている。
これは、旧シリーズのフォーマットを崩すことで、観客に新しい刺激を与えるため……と解釈されたが、原作を考慮すると、そうとも言い切れない。
原作小説では、
映画007シリーズの第1作「007は殺しの番号(ドクター・ノオ)」は世界的にヒットしたが、我が国では「後半がチャチ」とされ、評論家ウケは良くなかった。オーソドックスなスパイ活劇である前半は(多少誇張が過ぎても)許容できるが、SF的要塞が舞台になる後半は荒唐無稽で大人の観客には恥ずかしい……と
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「泳ぎが得意な人」ぐらいの感じで、水棲人間と呼ぶほどのモンスター性はない(住居も陸上にある)。
つまり「終戦を知らずに戦い続けている日本兵」の存在自体が「怪奇」の対象だったわけだが、4年後、これが「現実」にひっくり返る。
ドラキュラ=クリストファー・リーと対決を繰り返したヴァン・ヘルシング教授役のピーター・カッシングの趣味はフィギュアだった。
特にミリタリー人形の自作を得意とし、膨大なコレクションを所有していた。
彼はこの分野でも大変尊敬されていたのだ。
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向こうに「ATOM」がいたということは「ATOM=屁ではない」ということの証明にもなったのではないか?
「お前ATOMこいただろ?」
「エレベーターの中でATOMしたの誰や?」
といった米国人の会話は、やはりなかったのだ。
ザ・ドリフターズのコントを細切れにして放送する番組が今も時々放送される。それは能・狂言といった伝統芸に近いもので、腹を抱えて笑えるものではない。もう笑いとしてはかなり古びているのだ。
ドリフ全盛期を知る人なら記憶を頼りに笑いを導くことができるが、当時を知らぬ若者は
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着けない。嫌でも一つの人格と向き合わないとゴジラの世界に入れないのだ。
これをもどかしく感じる人がいてもおかしくはない。
俺はゴジラを見に来たのに、人格というフィルターがかかっているのはどうしてか?しかもそのフィルターは、挫折や絶望に澱んでいるじゃないか…
両者のこの差はデカい。
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我々観客も劇中組織のメカニズムと同化することで、否応無しにゴジラ「のみ」に向き合わねばならない、という効果を発揮して作品を成功に導いた。
劇中人物も観客も一人残らずゴジラにのみ視点を集中させるのだから究極の「ゴジラ映画」だったと言えるだろう。
対して
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「ゴジラ−1.0」は、ゴジラに対するのは主人公個人であり、個人故に人格が描かれている。ゴジラは主人公の(心理的な)背後関係として登場し、主人公を通してしかその存在を示せない。
よって観客がスクリーンで対峙するのはまず個人であり、ゴジラではない。
観客は主人公を通過しないとゴジラに辿り
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以降の作品は、原作後半作品の特徴である「病んだボンド」の誇張、と見ることもできるわけだ。
この見方が指摘されないのは、近年は原作小説が読まれてない……読んだとしても、順序正しく並べて読まれないからだろう。
「スターウォーズ」には全くエロがない……ということは、今まで考えもしなかったが、メガヒットして映画史の変換点となった娯楽映画としては非常に不思議な気がする。
そもそも「スターウォーズ」の原点たるパルプ誌のスペースオペラというのは、ヒーローと宇宙船(メカニズム)とBEM(怪物)と
「最後の海底巨獣」も「魔獣大陸」と同様、土曜映画劇場で何度も見た映画。これも大した出来じゃないんだけど、とても好きだ。
今DVDで見直しても、「土曜の夜」独特の解放感が蘇ってきていい気分になる。
落雷でティラノサウルスとプロントサウルスと原始人が復活。孤独な少年が原始人のおじさんと
「魔獣大陸」は雰囲気は良いのだが前半、怪獣世界に行き着くまでのドラマがくだらない。テレビで放送した時は、その異常に退屈な前半部分をバサっとカットしてあったので、子供でも楽しめたのだ。ノーカットで放送してたら、前半で挫折しただろう。
テレビ放送は多分最初が「土曜映画劇場」で、
若い頃は、拙い映画に対する「学芸会」という批判常套句に「学芸会の何処が悪い!」と反発していたが、若くなくなると考え方が変わり、やっぱりお金を払って学芸会を見ることの虚しさに耐えられなくなってきた。
学芸会はやってる本人とその周辺以外誰も楽しくない。若い頃は、その「拙い映画の周辺に
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作品を認めつつも「野武士側の視点がない」ことを指摘して「俺なら野武士側から描く」とこれまた頼もしい意見を吐いている。
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ボンドのキャラクターがシリーズ中盤から変化して、かなり病んだ男になる。
元来、小説のボンドは心身共に健康なたくましい男だったのだが、
5作目の「ロシアから愛をこめて」のラストに、スメルシュのローザ・クレッブに毒を塗ったナイフで刺されてから急に不健康になる(毒の後遺症らしい)。
後の
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間違いない。
第1作公開時。意外にも淀川長治だけが、荒唐無稽とされたSF的後半部分を
「これこそが連続活劇の正しい継承だ」
と高く評価しており、「科学大魔城」の存在意義を説いていた。
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作品でボンドは、精神科医や内科医から精神や肉体の不調を指摘されるようになり、上司のMもボンドが任務を全うできるか不安がる。
ボンドは敵を倒してもいちいち後悔したり、辞表を書いたり、鬱になったりする(途中、愛妻を殺されたことも精神の不調に関係する)。
つまり映画「カジノ・ロワイヤル」