「短絡的になっている世界に対する、異議申し立ての本でもあります」ゲンロン創業者の東浩紀氏が『平和と愚かさ』で問いかける考えないことの危うさと必要性
世の中における「平和」とは何か。また「平和ボケ」している状態は、本当に愚かなのか。哲学者・作家でゲンロン創業者の東浩紀氏は、昨年12月に出版された著書『平和と愚かさ』で、500ページにわたって綴っている。「ABEMA Prime」の対談企画「ふたりぼっちのアベプラ」では、テレビ朝日・平石直之アナウンサーが、東氏が著書に込めた思いや、そもそも平和について、また一人ひとりが考えることについて話を聞いた。 【映像】東浩紀氏と平石直之アナの対談(フル) 平石直之アナウンサー(以下、平石氏) 「平和と愚かさ」という、500ページにわたる大作を数年かけて書かれました。まさに、この平和そのものが遠のいていく状況で、どんなことを考えていらっしゃいましたか。 東浩紀氏(以下、東氏) この本の前に「観光客の哲学」という本を書き、観光客という立場こそが、いろいろな世界を見られると主張をしました。今回はそれを実践したような本で、様々な国に行って、博物館や歴史の遺跡を見ながら思考を巡らせましたが、途中からどんどん観光がしにくくなりました。一般市民が、世界中を行き来できる環境は素晴らしくて、それが壊れていくのを見るのは、悲しいことでした。 平石氏 平和をテーマに書かれましたが、こういう世界になっていくことを感じながら書き始めたのか、それともたまたまこうなったのか。そのあたりの感触やテーマ設定も含めていかがですか。 東氏 明確な予測があったわけではないです。ただ、市民が一観光客としていろいろな国に行けるようになったのは、実は冷戦崩壊後です。その後、アジア諸国やアフリカ、グローバルサウスも含めて世界中が豊かになっていく中で、昔のように探検気分でなくても、外国に行けるようになりました。そういう環境が作られたのは、すごくいいことだというベースが僕の中にあります。予測したか、予測してないかで言ったら、予測はしてない。こんなに露骨に帝国主義化というか、世界がブロック化するとは思っていなかったですね。 平石氏 ウクライナには、もう7回も行かれているそうですね。2019年にそのことについても書かれているところからすると、開戦前からですか? 東氏 にウクライナに僕が最初に行ったのは2012年で、マイダン革命の前です。革命前はロシアとの関係はまったく異なったものでした。革命後ウクライナがEUに近づき、親EU政権ができ、それによってロシアがクリミア半島と東部ウクライナに対して、軍事的な介入を始めるわけです。だから何度も現地に行く中で、キーウの緊迫感が上がっていると思っていました。完全に予測してなかったというわけではないですが、ただ、ああいう全面侵攻はとても考えられなかった。 この本は、これから平和が失われるから平和をテーマにしようと思って書いたわけではないです。第1部は2023年に書いていますが、後ろの方は2019年から書いていたものを集めているので、当時はまだウクライナ戦争前です。ただ、私たちが戦争や災害について伝える時に、大事なことはなにかとは考え続けてきました。人はしばしば、誰かわかりやすい加害者を設定し、悪に設定し、その悪を取り除けば、私たちは大丈夫なんだと議論を立てます。ただ、現実に起きていることはそんなに簡単なことではなく、加害者と被害者も入り交じっているし、悪はそう簡単に特定できないんじゃないかと思います。 ある種の混乱状態というか、分からない状態を記憶するにはどうしたらいいのか。そういうテーマで始めた本なんです。2023年にまとめる際、以前から考えていた「悪の愚かさ」というテーマ、つまり加害か被害かよくわからない、何が悪かわからないといった問題と、「平和」というテーマは表裏一体なのではないかと思って書いたのが第1部です。 だから、本を読まれると分かると思いますが、これは必ずしも「平和万歳」という本ではないです。平和というのは、同時に加害の温床だということも書いてあります。平和というのは「考えないこと」が許される状況のことだから、考えないことというのは、実は何かやらかしている可能性があるわけです。ただ人間は、考えない時間を作らないと生きていけないし、考えないことこそがまさに平和です。幸せを感じるとか、安らかになることと密接に結びついているわけです。 自分は加害者なのではないか、自分は悪いことをしているのではないか。例えば、物を買うにしても、これはエシカルに正しいのか。そういうことをずっと考えなければいけない世界は、すごくピリピリしています。そして、その状態こそが、実は逆に戦争とかを起こしたりします。 だから、考えないことは大事。そして、考えない時間のためにみんな働いている。それを確保するために働いているけれど、考えない時間を作った瞬間に、僕たちはもしかしたら隠れた悪をやっているかもしれない。そういうパラドックスの中にいるんだよ、という主張です。だから、「では、どうすればいいの?」というものに回答があるわけではなく、我々はその条件について、まさに考えていかなければいけないというタイプの本です。 平石氏 ですから、タイトルが「平和と愚かさ」なんですね。考えないこと、忘れること、その意味の大切さはなんでしょうか。 東氏 どっちも大切だけど、大切なことをしたら次の悪が出てくるんです。人間が生きるってそういう逆説のなかにいること。それを考えてもらいたいという本です。だから、この本を読んでみんなも一緒に考えてほしい。今はAIの時代なので、この本を要約させて「結論はこう」みたいに取り出すのは簡単でしょうが、それをしてもあまり意味はないです。本を読んで一緒に考えてもらうことが大切で、この本から取り出して、何か結論を持って、それを応用するタイプの本ではない。平和について考えるというのは、たぶんそういうことだろうと僕は思うようになりました。 平石氏 500ページあるからこそ、意味があると読みながら思いました。1行だけ切り取るとツッコミどころがあるけれど、それは前後があって初めて意味を持つというか。そして、世界を巡ったからこそ見えてくる。加害と被害が表裏一体であると。 東氏 博物館をいくつか巡ると、相互に違うことを言っていたりします。同じ国の中でも、ある民族とこちらの民族で見え方が違う。そういうのがいっぱいある。もちろん正しい事実はあるけれど、ある種、正しい歴史なんて言ってもしょうがないと思うようになりました。 事実の積み重ねはあるし、それは大事です。事実として1個1個はこれが正しい・正しくないは言えるけれど、トータルで言う歴史というものは、事実の上に解釈とか、様々なものが折り重なって作られるものなので、それについて正しい・正しくないというのは不毛だなとは思うようになりました。 でも、おそらくこれも、ここの部分だけ切り取ると、「東は歴史修正主義者だ」となるんだと思うんですね。そういう意味で、すごく短絡的になってしまっている世界に対する、異議申し立ての本でもあります。 平石氏 具体的な話もしますと、ウクライナ侵攻が始まり、ロシアが開戦して攻撃をしました。その後は、日本とロシアについては、かつての交流すらも否定されるというか、あれすら愚かな行為だったかのように言われています。ロシアを肯定すると、戦争を肯定するのかと言われかねない。その意味では、考えないことや忘れることがないと、交流も楽しめないですよね。 東氏 当たり前ですけど、全ては政治なんですよ。他方で、いちいち全部に政治を見出していたら、僕たちは何も楽しめなくなるし、文化の部分はすごくやせ細るわけです。それはもう、常にバランスでしかない。今は政治の領域が拡大しすぎだと思いますね。あらゆることに人は政治的な意味を見始めている。僕は認知戦という言葉はあまり好きではないですが、認知戦とか言い出したら、スポーツ選手が来るのも芸能人が来るのも、全てが認知戦になってしまいます。ならば、どうするのか。もう国際交流はやらないのか、文化交流はやらないのかという話になってしまう。ある意味、極端な人だとそういうことも言い出しかねない。でも、それでは日本という国は、やせ細るだけだと思います。 平石氏 常に有事、とでもいうような。 東氏 当たり前だけど、観光客の中にはスパイがいるかもしれないし、留学生の中には工作員がいるかもしれません。では、どうするのか?ということです。これも当たり前ですが、最低限の安全保障への配慮はしながらも、基本的にはオープンであるというのが好ましいと思います。いちいち人を見てスパイだと思う社会になるのは良くない。 だから政治的にものを考える領域と、そうでなくてもいい領域をしっかり分け、政治的に考えなくていい領域を守るような発想になっていかないといけません。今は「これも認知戦なんだ」「スパイ対策はしているのか」というような人たちによって、そういう発想がどんどんと劣勢になってきています。だから、この考えない領域を守ることは、実は非常に政治的に大事なことで、少しパラドキシカルに聞こえますが、政治的でない領域を守ることは極めて政治的なんです。そして、考えない領域を守るためにこそ、考える必要があるわけです。 平石氏 平和というのは平和について考えないでいい状態こそが平和だということですね。平和について一生懸命考えている状態は、もはや平和ではないと? 東氏 そう思います。「平和ボケ」という言葉を、人は悪口として使いすぎていると思っています。あれは本質を掴んでいて、平和なら人はボケるし、むしろボケていてもいい状態が、平和な状態なんです。みんなが『戦争反対、戦争反対』と、毎週デモしなければいけない世界は、もう半分、戦争に足を突っ込んでいるわけです。 僕は、武器で人が人を殺し合うこととは別に、日本はどんどん広義の戦争状態に入っていっていると思います。ただ、それは決して日米安保が、とか、高市政権が、とか、トランプが、というだけではなくて、私たちの社会にすごく余裕がなくなっていて、すぐ誰か敵を見つけ、それを倒せばいい時代が来る、みたいな社会になっている。そういう短絡的な物語がすごく強くなっている。近くに住んでいる外国人のあいつらを追い出せば、俺たちが平和になるんだとか、そういうタイプの言葉が横行するようになってしまった。そういう僕たちの社会の問題もあると思います。だから、もっとみんなが平和ボケできるような社会を作るべきだなと思います。 平石氏 「#ママ戦争を止めてくるわ」というハッシュタグが、衆議院選挙で広まりました。あのような動きをどう捉えていますか。 東氏 戦争に対して反対するのはいいですが、戦争を止めることを単純化しすぎています。実際ハッシュタグはすごく限定した効果しかもたなかったし、戦争を止めるってすごく難しいことだと思います。 日本とロシアの交流、日本と中国の交流、それは戦争が起こったとしても、市民間の交流がないと、戦争が終わった後、どうやって関係を立て直すかもできないわけですよね。そういう政治とは無関係な部分の、市民間の交流をどう厚くしていくかということこそが、僕は大事だと思っています。それでは戦争は止まらないかもしれないけど、戦争が終わった後にどうやって平和な世界を作るかという上では大事なことだし、また戦争の効果を限定的にする意味でも大事なことなんです。僕としては、そういう戦争反対もあると思うんですよ。 戦争反対というデモをするのもいいと思うし、ハッシュタグをやるのもいいと思います。けれど、”デモに来ないやつは戦争肯定”となるのか?というと、それは違うと思います。戦争に対する抵抗の仕方も多様で、その中では戦争なんかないフリをするという抵抗もあるんですね。 例えば、谷崎潤一郎の代表作に「細雪(ささめゆき)」という小説があります。これは戦時下の中央公論で連載されて、途中で連載中止になるんです。読むとわかりますが、もう戦争の「せ」の字もない、単なる美人3姉妹が結婚するのか、しないのか、という話です。僕も昔は分からなかったのですが、2〜3年前に読み返して「これは反戦文学だ」と思いました。 みんなの目が戦争に向かっている時に、お金持ちの家の3姉妹の結婚をめぐるゴタゴタの話をずっと書いている。これは結構、タフなことだと思うんです。反戦にはいろんな形があると思っていて、必ずしもデモに行くことだけが反戦ではない。戦争はみんな嫌なんです。そして、戦争に巻き込まれたくないと多くの人が思っている。その時にはいろいろな表現の仕方があるわけです。だから僕は僕なりの、社会が戦争に巻き込まれていく、そういう現状に対する抵抗として、『平和と愚かさ』を書いています。 平石氏 「ゲンロン」を16年やってこられた。長い生配信もずっと重ねています。そして本も分厚い。それでも前後のコミュニケーション、文脈を理解してもらわないと、すぐ揚げ足を取られて、ガッカリされてこられたんだろうと思いますが、今の思いはどうですか。 東氏 今日のこの対談でも、いろいろなところから攻撃が来るんじゃないかな。ツッコミどころろが3〜4カ所はあるかなと思いますが、もうやっちゃってくださいという感じです。それを恐れても、社会が豊かにならないです。 あと、僕の場合はゲンロンという自分の場所を持っている。誰かに言いつけると言っても、言いつける先もないですからね。差別や暴力に対して、抵抗するのは大事ですが、それは、その人が本当に差別的な意図を持っていたかとか、暴力的な意図を持っていたかを、判断した上で、抗議をしなければ意味がないわけです。単に切り取りだけ見て、誰かのインプレッション稼ぎに乗っかって「反対だ」とか「こいつクズだな」とか言っているのは、それこそ思考停止です。 だからこの本で「考えないことが大事だ」と言っているけど、正確には「考えないことのために考えることが大事」なんですよね。この本を読んで、考えないことの意味について考えてほしいと言っています。 あと、この本の最後に「客的ー裏方的二重性について」という、すごく変な文章が1個だけ挟まっています。全ての人間はお客さんになることもあれば、裏方になる時もあるということです。お客さんになる時は、考えない空間を欲している。でも、考えない空間を作るためには必ず裏方がいます。その例として、リゾートのプールの話をしています。今、僕がプールにプカプカ浮いているとして、そこにはプールをメンテナンスしている人がいっぱいいる。でも、ここで誰かが「メンテナンスの人たちを搾取して、自分だけがプールに浮いているのか」と僕に言ったとしても、僕だって裏方になる時もある。そのスタッフもまた、お客さんになる時もある。 人は、客と裏方というのを、お互い交換し合っている。その時に、みんなが常に裏方のことを意識しろと言ったら、商売は成立しなくなる。ホテルの客に向かって、「あんたたちは普通にプールを使って、酒を飲んでいるけど、誰が用意していると思っているんだ」と、説教しても、これには意味がない。 そうではなくて、自分たちの領域の中で考えない空間をどうやって作るかをやった方がいいというのが僕の考えです。それが僕の哲学の基本にあるんですが、それを最後に書いてあります。 平石氏 次は日本論について書こうという言葉もあります、3部作のイメージもお持ちだとか? 東氏 「平和・日本・哲学」の3つでやろうと思っています。僕の中に貯めているアイデアがあるんですが、日本という国で書いている人間として、日本とはなんだろうという問題について、どこかで自分の意見を言わないと、哲学者として不十分だと思うようになりました。 僕はもともと、ヨーロッパ系の教育を受けています。フランスの哲学者について研究し、ルソーについては本も書いたことがあるので、かなり知っています。ただ、同時期にいた本居宣長については、本のタイトルは分かるけど、それがどんな内容で、宣長をどう位置付けたらいいか、わからないんです。ここ1年で勉強して、ようやく分かるようになってきたぐらいで、前はさっぱり分からなかった。 けれども、本居宣長は国学の父の一人です。その宣長に影響を受けて、平田篤胤はエキセントリックな日本神話解釈をして、ある種の体系みたいなものを作った。それをさらに真に受けて、過激になった平田学派の人たちが、国家神道になだれ込んでいきました。その流れから考えても、宣長は思想家として大切なんです。 でもここで宣長や篤胤の話をすると「東さん、ネトウヨになっちゃったの?」という感じになると思います。そのぐらい日本の思想業界はすごくヨーロッパナイズされていて、明治以前の人たちについて関心を持つと「急に日本に目覚めちゃったのね」ぐらいな感じなわけです。でも、僕たちは日本に住んでいるし、日本の伝統みたいなものは随所に生きている。だけど、それが議論できなくなっている。 僕はそれを正常化しなければいけないという気持ちが、ある時期からすごく湧いてきました。日本の知識人は、1920年〜30年代生まれぐらいの、団塊世代より上まではナチュラルに日本文化を教育されています。古文や漢文がある環境で、普通に日本の思想を知っている。 ところが、団塊世代あたりから戦前に対する反省もあって、そういうタイプの教養が、共有されなくなりました。僕は、さらにその子どもの世代。古事記や日本書記を読むことや、江戸期の思想家のものを読むことが必要だなんていうのは、日本史とか国文学の一部の人たちがやることであって、こっち側はジョン・ロックやルソー、トクヴィルらから「自由とは何か」「社会とは何か」を考えていた。それが僕たちインテリなんだという感じになってしまっていたわけです。 これは歪んでいるので、再統合というか橋をかけて、哲学とは何かとか、人文知とは何かとかについて、もう少しバランスを良くしなければいけない。そういう使命感が、最近は湧いてきて、だから次は『日本』について書こうと思います。 (ABEMA『ふたりぼっちのアベプラ』より)
ABEMA TIMES編集部