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【書き起こしレポート】『ハイパーボリア人』新谷和輝さん登壇トークイベント

『オオカミの家』監督デュオ《レオン&コシーニャ》の新作『ハイパーボリア人』が短編『名前のノート』とともに全国絶賛公開中!
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去る2/15(土)にシアター・イメージフォーラムにて行った、新谷和輝さん(ラテンアメリカ映画研究)のアフタートークの書き起こしレポートをお届けします。なお当日の実際の雰囲気を生かすため、今回は表記を極力話し言葉のままにしております。


よろしくお願いします。普段はラテンアメリカの映画を研究している新谷といいます。ラテンアメリカと言っても広いんですけど、チリの映画を専門に研究していまして、一昨年から去年にかけて、チリのサンティアゴに留学していました。『オオカミの家』の時もトークをさせていただいたんですけれど、今回もパンフレットに書いたりトークをさせていただけるということでありがとうございます。

皆さん何の映画だったのかよくわからない人、もしくはめちゃくちゃ寝た人、もしくはめちゃくちゃ面白かった人と、すごく分かれる映画だと思います。パンフレットでは映画の内容を主に追っていって、どういうことが読み解けるんだろう、みたいな話をしていますが、今日はそれも踏まえていろんなお話しをできればなと思います。

観客を映画の中に連れ戻したり突き放したり

この『ハイパーボリア人』、物語的にはよくわからないと思いつつ、すごくシンプルな映画という両極さがある、かなり特殊な映画だと思うので混乱すると思います。すごく実験的なのは間違いない。やっていることはすごくシンプルで、『オオカミの家』にも言えることですが、実在の特殊な人物の頭というか思想を借りて、その人の精神、思想に乗っかって、映画を進めるという前提があります。『オオカミの家』だと、パウル・シェーファーというドイツのカルト教団の教祖。今回だとミゲル・セラーノという人の思想に乗って、観客を映画の中に連れ戻したり突き放したりしています。
今回の『ハイパーボリア人』が『オオカミの家』と大きく違うのは、『オオカミの家』は劇場が映画の中の空間の一部みたいになるんですが、『ハイパーボリア人』は序盤から行ったり来たりというか、すごく突き放されるんです。一回映画の中に入ったと思ったら、“これはドキュメンタリーです”みたいな描写が出てきたり、作り物のアニメーションだと思ったら、普通の人物が出てきたりと、入れ替わりが激しい。且つ、登場人物がいっぱい出てきて、色々な声が聞こえてきて、わちゃわちゃしているという点で、前回はすごくシンプルでわかりやすかったけれど、今回はそれがかなり複雑化しています。とは言え、やっていることは一緒です。 

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ミゲル・セラーノはボンボンの芸術一家の出身

監督のレオン&コシーニャというのは、どちらかというと、チリの極右、ナチ、ファシストといった、リベラルの対極にあるような人を映画に扱ってきた人たちです。今回のミゲル・セラーノは、事前に何の知識もなかった人は知らなかった作家だと思いますけれど、チリの作家で外交官なんですね。チリとかラテンアメリカって、外交官をやって作家でもある人がすごく多くて、例えばメキシコのカルロス・フエンテスとかがいます。いろんな人がいろんな国に行きながら作家をするというのが伝統化しています。ミゲル・セラーノもそういう人で、彼の叔父は、日本で一冊だけ本が出ているビセンテ・ウイドブロというアバンギャルドの詩人です。1930、40年くらいまで活躍していた、チリを代表するかなり実験的なアバンギャルド詩人の甥がミゲル・セラーノ、ということで血筋的には芸術一家みたいな感じです。

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アトラクションの映画

ビセンテ・ウイドブロはフランスに行ってシュルレアリスムの人と交流を持って、スペインに行ってブニュエルと会って、ブニュエルと『アンダルシアの犬』とか『黄金時代』とかを観て、もっとこうした方がいいんじゃないか、みたいな手紙のやり取りをした。そういう新しい人間の芸術みたいなものが、1920、30年あたりにはいっぱい出ましたが、その中にいた一人が、ミゲル・セラーノの叔父だったんですね。そしてセラーノもそういうところがあったし、この映画もそういう時代とかなりリンクしていると思います。ちょっと初期映画っぽいというか、ストーリーがあって観客を没入させて気持ちよく見せるというよりは、一発芸を積み重ねていくというか、コントのような、パン!とみせてそれを繰り返していくという形。見世物的な、映画研究の用語で言うと、アトラクションの映画という呼び方があります。つまり映画というのはストーリーで観客に訴えるだけではなくて、例えば遊園地のショーとかサーカスとか、例えば、“爆発する”とか“手品で消えた”とか“空を飛んだ”とか。瞬間的なパフォーマンスで観客をひっぱって驚かせていくという、そういう映画の在り方が昔も今もある。そういうものと『ハイパーボリア人』は近く感じます。初期映画の方に近いのかなと。それはやはり、チリのウイドブロという実験的な詩人とか実験的な芸術家グループの系統にセラーノもいて、セラーノを使ったこの『ハイパーボリア人』もその中にいるということでしょう。

コスモポリタンで世界的なミゲル・セラーノ

かつ、チリというのはそこにいるだけでは芸術ができないので、やはり大勢がフランスに行くんですね。芸術的に何かやりたいという人は、昔からフランスに行って、フランスの最新の芸術を学んで、チリに持ち帰ってやる。ヨーロッパのアートとか理論を輸入して自分の国に統合していくというのが、それが前衛芸術やアバンギャルド芸術の極地的なあり方です。先進国ではないところで前衛とかアバンギャルドをやろうとしたら、先進国から持ってきて、自分のところで解釈して新しくやっていかないといけない。セラーノという人は、外交官としてたくさんアジアも行ったしヨーロッパも行ったし、行った先でも、ガンジーに会ったりとか、ユングに会ったりとか、ヘッセに会ったり、だからこういう経歴を見ていくと、すごくコスモポリタンで世界的な人で、どこか特定の国に囚われるというよりは、色んな思想を吸収して、それをチリの文脈で解釈している。最終的には彼はいろいろなところに行って、いろいろな宗教、ヒンドゥー教の神とか、いろいろなところの宗教とか思想を取り込んで、ヒトラーはチリ人でチリにいて生き延びていて、本当の神の化身としてまだどこかに眠っているんだという、そういう大きなストーリーを立てたんです。

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革新的な手法と陰謀論的なストーリーがうまく組み合わさった作品

さっきお話したフランスの前衛芸術とか、他にも例えばイタリアの未来派とか、そういった前衛、例えば何か新しい凄いことをやろうという人たちが危ないのが、芸術家としてはすごく孤立するんです。今回の『ハイパーボリア人』も普通の映画じゃなくて、飛びぬけている。普通のグループから違うところにいる。そういう飛びぬけたことをしようとすると、形式的にも前衛芸術って抜きん出て行くんですけれども、そうなると、結構政治的にも危ない方に行くんです。だから、イタリアの未来派とかはファシスト、ムッソリーニとかと最終的につながるところが出てきて危うかった。そういうアバンギャルド芸術と、ファシズムとか、ナチズムとか人種主義とか、そういう極端な思想というのは、マッチしやすいところがあるんです。そういう歴史というのが、今回の『ハイパーボリア人』にすごく出ています。『ハイパーボリア人』の形式は、前回の『オオカミの家』以上にドキュメンタリー的なところもあるし、アニメーションもあるし、人形コマ撮りもあるし、いろいろなものがごちゃごちゃになっていて、前衛的な手法と同時にそれが扱っているのは、一種の陰謀論ですよね。ヒトラーが生きていて、ハイパーボリア人というのがいて、ということが映画の終盤に描かれるので、皆さんもまだ整理がつかないとは思いますが、この世界はそういう風に支配されているんだという陰謀論みたいなものが流れている。だから、そういう革新的な手法と陰謀論的なストーリーがうまく組み合わさっているのが『ハイパーボリア人』です。

現代的な映画

僕は『オオカミの家』の時は本当に暗いな、鬱だな、映画館でもう二度と観たくないみたいに思っていたんですが、『ハイパーボリア人』は楽しい、普通に楽しくて面白かったし、最後は結構感動しました。すごく現代的な映画だと思いました。観客がどこに自分を投影、立場を置いていくかということが重要です。この映画はわりと親切な作りをとっていて、アントニア・ギーセンという女性が、「私は精神科医です。これからこういうことを映画でします。」と、いちいち全部言ってくれるガイド役の人がいて、その人のポジションに観客は身を置けばいいから、結構わかりやすい構造を持っています。
彼女は身近な存在だと思います。というのも、親の介護をしていましたよね。お父さんとお母さんが、うぅ…みたいになっていて、世話をしてもお父さんはよくわからないドイツ語みたいなものを話していて、いわゆる介護です。監督たちが何かのインタビューで、新型コロナウイルスの時期に作ったから、人が人をケアするようなところを入れてみた、みたいなことも言っていたと思いますけれども、そういう状況にギーセンは置かれている。
そして、アントニア・ギーセンも“俳優”という職業じゃないですか。上司として監督二人がいて、いろいろ無理難題を言われます。こういう役をやれとか、ギーセンが監督に、この場面は長すぎるんじゃないですかと言ったら、じゃあ次はこういうことをやれとか、よくわからない資料を出されて、ギーセンはどんどん疲弊していく。親の介護で疲れているのに、仕事でも変な上司がいて、めちゃくちゃな資料を出されて……。この映画で「疲れた」ってセリフがかなりあるんですけれども、見ようによってはかなり日本にいる私たちも共感できると思うんですよね。疲弊した人が陰謀論にハマっていくような内容になっている。最初、彼女はセラーノの役をやれと言われて、セラーノの声を、セラーノの人生を、なんか気持ち悪い赤ちゃんみたいな人形を抱えながら「こういうことがあって~」とやっていたら、だんだん自分とセラーノが同化していくわけです。彼の声が入ってきた患者メタルヘッドみたいに一体化していくということで、やはりこれは昨今の状況と似ているように思います。

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疲れた人が陰謀論にハマっていく過程

陰謀論というのは基本的に何か別の世界を求めること、こうなったら世界は上手く説明できるというか、こういう世界なら私は共感できる、というふうにオルタナティブな何かを求める話だと思うのですが、それを感じる人は基本的には富裕層とかではないんですよね。現実の世界に物凄く疲れて、どうしようもない、いやだいやだ、でもこういう風に世界を見られるのだったら楽かも、と思ったらハマりやすい。だからこの映画は基本的に、介護とか仕事に疲れているギーセンが、どんどん、本当は絶対にありえない、セラーノの思想というのは陰謀論の中でもかなりやばいタイプの、ナチスが生きていて宇宙人がアバターで復活を待っているというとんでもない話ですけど、でもだんだん侵されていくように見える。ということで、疲れた人が陰謀論にハマっていく過程というのを、劇画的かつ、リアルに示しているのかなと思いました。

彼らも隣人の一人

この映画は、陰謀論的な突飛な何か、例えばファシズムとか、日本だと例えば朝鮮人差別とか、クルド人の差別とかいろいろありますけれど、あれも一種の陰謀論だと僕は思いますが、そういう排除的で差別的な思想みたいなものを、行儀良くダメだよねとか、そういう人とは付き合いませんと言うよりは、一緒に考えようというタイプの映画だと思うんです。だから、この映画に出てくるメタルヘッドというのはギーセンの患者で、彼もやはり陰謀論にハマっている人の一人。彼と一緒に旅をすると、同時に、セラーノの化身みたいなものがやってきて、アラセリという鹿がゲームの画面に登場しましたけれど、あれはセラーノの化身です。セラーノの小さい頃のアバターが、アラセリみたいな、若干可愛らしい姿で登場する。
この映画は、私たちの代弁者としてのギーセンが、ちょっとやばい考えを持っているメタルヘッドとかセラーノとか、セラーノの化身であるアラセリと一緒に旅をしていくということで、彼らの思想を遠ざけるというよりは、そういう人もいるよね、という感じで、その人たちと一緒に考えよう、彼らも隣人の一人だみたいな感じで旅をしているという姿勢が、僕は新鮮に思いました。

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陰謀論、陰謀論と言ってますけれども、僕もいつハマるかわからないし、何が陰謀論かもわかりません。トランプとか最近の世界情勢を見ているとあり得ないことがどんどん起こるので、この映画と大して変わらないんじゃないかと最近思っているんですけれども、そういう思想とか、思想を持っている人を遠ざけるというよりも、これも『オオカミの家』と一緒ですが、悪いものとか極端なものとか、オエっと思うようなものを、ぺっと吐き出すじゃなくて、取り込むというような映画になっています。『オオカミの家』もそうでしたし、今回の映画でもそれが発展的な形で、ストーリーの中に関わっていると思うんですね。

自分の見ているものに支配されている

同時に、これを観ている観客、私たちも問われているわけですよね。どう彼らと一緒に付き合っていくか。最後の方で、ギーセンが地底に入っていって拘束されますよね。あれは、観客のそのままなんです。映画を見ている私たちは、縛られはしませんが、入場してきた時のそのままの姿勢で、暴れられないじゃないですか、前の人の椅子を蹴ったら怒られるじゃないですか。だから、拘束されて、この映画の光を浴びせられるということで、皆さんギーセンと一緒の立場になっているんですよね。だからギーセンはあそこで私たちと完全にリンクして、映画の観客として繋がるんです。ヒトラーの意識が入ったフィルムを見せられて、もう一人のギーセンが生まれますが、あれは、僕たち観客も覗き見的に映画を観ていますけれど、僕たち観客が意識を植え付けられているということなんです。自分の見ているものにだんだん支配されているということですね。スマホでいろいろなニュース、XとかInstagram、tiktok、何でもいいですけど、そういうのを見ていたら、その意識がどんどんこっちに入ってきていて、僕たちも新しい別の何かにすっかり変わっているみたいなことはありえます。そういう意味で、観客に対する批評性みたいなものがすごく終盤に表れていると思いました。

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沈黙しましょう、静寂にしましょう

だからこそ、結論が僕はすごく好きだった。沈黙しましょう、静寂にしましょう、みたいなラストでしたけれど、一旦皆さん落ち着いて考えてみましょうということです。映画館で全く沈黙する時間というのはあまりないと思うので、そういう意味でも逆アトラクション映画になっていると思います。刺激を直前まで与えられるわけじゃないですか、場面もどんどん変わるし、最後はすごくメロドラマ、多分古典映画の模倣をしているんですけれど。それが最後になってプツっと切られて、全く正反対の沈黙とネタバラシ、楽屋の裏みたいなものが流れている。アトラクションの映画から逆アトラクションの映画になって、じゃあこっち側であなた冷静になって考えてみてください、という時間を与えてくれる。こういう意味でも、現代の陰謀論とかフェイクニュースとか、そういうものを扱った映画はたくさんあるとは思いますけれども、その中でもかなり形式的にも内容的にも、際立って面白いことをやっているんじゃないかと思いました。

補足① メリエス的なイリュージョン

いろいろ補足ですけれど、見世物的な映画とか初期映画に近いと言いましたが、多分この映画が意識しているのは、メリエス的なイリュージョンの方ですね。ドキュメンタリーだと基本的に監督たちは言っていますけれど、リュミエール兄弟はリアルさでいきますけれど、メリエスは全く逆の映画のイリュージョンの方にいったわけで、そっちの方の系譜でしょう。レオンとコシーニャが直接的に結構参照しているというか、映画の表現の仕方で取り組んでいるのが、メリエスと一緒にスペインで活躍していた、これはあまり日本で知られていないですが、セグンド・デ・チョモンという人。この人がメリエスと一緒に映画を撮ったりしていたスペインだと超有名な人ですけれども、初期映画のそれこそいろいろな仕掛け、コマ撮りみたいなことをして、家具が勝手に動くみたいな映像をいっぱい撮って、それをマジック的に見せていた。気になる人はぜひ調べてみてください。『ハイパーボリア人』と似ているので。

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補足② 南極も一種のアバター

南極というのも結構大事で、チリは細長い国で、南米の端っこの方にあるんですけれども、一番南に行くと南極があるわけですね。氷の世界があって、南極というのは、チリ人とかアメリカ人にとって結構大事で、セラーノも『氷の中から誰かが呼んでいる』という本を書いている。この映画の中でも、セラーノは南極に行って、映画の舞台としても、ヒトラーは南極の地底空間に閉じ込められているみたいなことを言いましたけれど、南極というのは特殊な土地ですよね。どこかの国のものではないし、氷しかないので、ある種透明な国、透明な土地なんです。そういう土地だからこそ、南米の人たちはそこをどう使って自分たちを表現するかというところで、南極も一種のアバターなんですね。この映画の大事なポイントは、アバター。入れ物というか、すべての人は入れ物=アバターになるし、ギーセンもメタルヘッドもアバターだし、結局監督たちもアバターになるし、映画のフィルムそのものもアバターになっていく。南極もそういう透明な世界で土とか森とかは何もなくて、そこに何をいれて映していくかというのは、すごくイデオロギーが現れる土地。
例えば、僕がチリ大学に留学した時に教わっていたイグナシオ・アグエロという、『100人の子供たちが列車を待っている』という映画を撮った監督は、『氷の夢』という南極の氷をスペインでやった万博に運ぶというドキュメンタリーと思いきやすごくフィクションになっていくという映画を撮っているんですけれども、そこでも南極という土地がすごく批判的に扱われている。南極を扱うチリ映画や文学はたくさんあります。

短編『名前のノート』について

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『名前のノート』すごく好きです。今まで悪人やヤバい人をずっと描いてきたレオン&コシーニャにしては、直球の被害者に寄り添う映画だと思う。表現の仕方が非常におもしろくて、物質性を重視しているんですね。彼らが被害者や遺族の感情を表したいと考えたときに、『オオカミの家』や『ハイパーボリア人』と一緒でモノらしさ、モノにどうやって感情が宿るかっていうのを非常に重視している。今回の映画ではノート。ノートという物質の上に羅列されるのは、ボールとか彼らが使ってたモノがどんどん流れていく。そういう固有物と共に、被害者の一人一人の名前、固有名がどんどん羅列していって、そこに感情が乗せられる。「証言するオブジェクト/物体」という、マリアンヌ・ハーシュ(Marianne Hirsch)が提唱した理論があって、モノに感情が宿る、モノを引き継ぐことで、記憶とか感情が引き継がれていく。モノをどう扱うかで記憶の仕方が変わっていくんだみたいなことを書いていて、そういった意味でみると、『名前のノート』はものすごく物質感、手触り感というのを意識しながら記憶を扱っているので、非常に面白かったです。

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『ハイパーボリア人』とつなげるならば、『ハイパーボリア人』もフィルムの物質性に着目して、ヒトラーの記憶をフィルムに注入して、それを物理的に注入するみたいなところがある。一方でセラーノの思想は「血の記憶」を重視する、偉大なものへの憧れに基づいた記憶。この映画の最後に言われる「皆さん思い出してください。皆さん失われた映画を思い出してください。この記憶を元に私たちまた映画を作りましょう」と言われるときの記憶っていうのは、そういった「血の記憶」というよりも『名前のノート』でいわれるほうの記憶の在り方に近い気がします。偉大な血の記憶というよりは、ノートの端っこに書かれた名前や、家にそこらへんにあるボールや靴といったものに宿る小さな記憶(それは幼少期のセラーノが愛していた花のようなものかもしれません)を元に、小さな連帯をしていきましょう、ということを最後に『ハイパーボリア人』は伝えているんだと思う。という意味で、あまり繋がらないかもしれませんが、『名前のノート』と『ハイパーボリア人』は新しい連帯、新しい記憶の在り方というのを、新しい形で模索しているのが面白いな、と思いました。

(2025年2月15日 渋谷シアター・イメージフォーラムにて)


© Leon & Cociña Films, Globo Rojo Films

提供:ザジフィルムズ、WOWOWプラス
配給:ザジフィルムズ
字幕協力:ひろしまアニメーションシーズン
字幕翻訳:草刈かおり


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