量子コンピュータへの期待と現実
量子コンピュータは長期的には重要な技術となる可能性を秘めています。しかし現時点での期待は、実態を大きく上回っているのが実情です。基礎研究と人材育成への継続的な投資こそが、真の競争力の源泉です。
はじめに
本稿では、量子コンピュータをめぐる社会的期待と、研究者の実感との間に存在するギャップについて整理を試みます。対象として主に念頭に置いているのは、政策立案に携わる行政および立法関係者や、投資判断を行う企業経営者や投資家ですが、一般の皆さんにもぜひご覧いただきたいと思います。技術の詳細の解説よりも、意思決定に必要な「見通しの精度」を高めることを目的として、文章を構成しました。
近年、各国政府および企業による量子コンピュータへの投資が急速に拡大しています。その背景には、「今投資しなければ将来の競争において不利になるのではないか」という焦りに似た認識があるように見受けられます。しかし、研究の現場で共有されている冷静な見通しと、一般のメディアを中心として社会に発信されている楽観的なメッセージとの間には、かなりの隔たりが存在します。
この隔たりは、意図的な誇張というよりも、立場の違いから生まれる「情報の非対称性」として理解する方が適切です。企業は製品や研究成果を社会にアピールして売り上げを伸ばし投資を引き寄せる必要があり、政策立案者は予算獲得の根拠を示す必要があります。研究者もまた、研究資金調達のために見通しや成果を前向きに強調せざるを得ない場面があるのが現実です。こうした構造的な誘因が重なった結果、実態よりも楽観的な情報が社会に流通しやすくなっています。
1. 「次世代スパコン」という誤解
量子コンピュータは、例えば「この技術を実装すると、瞬時に計算が出来るようになり、業務効率向上に大きく貢献する。」などのように、従来のスーパーコンピュータの延長線上にある「極めて高速な計算機」として語られる機会を見かけることがあります。しかし、これは本質を捉えているとは言えません。
量子計算における高速化は、任意の計算を一様に加速するものではなく、問題の構造とアルゴリズムに強く依存します。量子力学特有の「重ね合わせ」や「干渉」といった性質は、特定の数学的構造を持つ問題に対してのみ有効に機能します。
量子コンピュータは「汎用的に高速な計算機」というよりは、特定のタスクに対して有効な「特殊な計算装置」と理解する方が実態に近いでしょう。一般的な事務処理や大規模なデータの解析など、現在のコンピュータが担っている多くの用途において、量子コンピュータが古典コンピュータ(現在広く使われてるコンピュータ)を上回るという見通しは、少なくとも現時点では立っていません。
2. 「汎用性」と「実用性」の間にある距離
現在多くのベンダーが開発を競っているゲート方式の量子コンピュータは「汎用」と呼ばれます。これは「理論的には任意の計算を実行可能である」という意味においては正しい理解です。しかし、「任意の計算を高速に実行できる」ことを意味するものではありません。
実際に高速化が理論的に保証されている問題は、暗号解読に使われる素因数分解や、特定の量子多体系(多数の粒子が量子力学的に絡み合った系)のシミュレーションなど、比較的限られた領域に属します。これらの問題においてさえ、実用的な優位性を得るためには、現状を極めて大きく上回る大規模な「量子誤り訂正」の実現が不可欠です。
量子誤り訂正とは、量子コンピュータ特有のノイズや誤りを検知して訂正する技術であり、理論は整備されているものの、実装には膨大な数の量子ビットと極めて高い精度が要求されます。実用的なスケールへの到達までには、腰を据えた相当長期的な研究開発が必要だというのが、大多数の現場の研究者の見方です。
3. 学術的成果と社会実装の区別
正確を期すために補足すれば、量子コンピュータが古典コンピュータを用いた手法に対して優位性を示した事例が存在しないわけではありません。
特定のタイプの乱数生成や、比較的小規模な物理モデルのシミュレーションなど、学術的に明確に定義されたいくつかの問題においては、量子デバイスが古典コンピュータより有効に機能することが実証されている例が存在します。これらは基礎科学として重要な成果であり、量子情報科学の発展に寄与しています。
一方で、実社会における複雑な課題に対して量子コンピュータが明確な実用的優位性を示した例は、現時点では確認されていません。実際の問題では、データの膨大さやノイズによる計算の阻害など、複数の要因が実性能を大きく制約するためです。
学術的成果と社会実装の間には、依然として大きな隔たりがあります。
4. NISQデバイスと量子アニーリングの現状
2019年ごろから、いわゆるNISQデバイス(Noisy Intermediate-Scale Quantum: ノイズあり中規模量子デバイス、現時点で存在する量子コンピュータ)への期待が急速に高まりました。特に、Googleによる「量子超越性」の発表は大きな関心を集めました。
しかしその後、これらのデバイスを用いた応用研究が進む中で、実用的な優位性を示すことの難しさも明らかになってきました。その結果、NISQデバイスの実課題への応用に関する議論のトーンは、当初の期待と比べて全体的に慎重な方向へと変化しています。
量子アニーリング(量子力学的効果を利用した最適化計算の方式)は筆者のグループが理論提案したこともあり、責任上、正直に書いておくと、実社会で有用とされる問題に対して従来のコンピュータを上回ることが理論的にきちんと保証されている例は、現在のところ残念ながら存在しません。
実際には、量子アニーリングがすでに実運用され、その意味で役に立っている例も存在します。しかし、私の知る限り、いずれも古典コンピュータとの組み合わせによるハイブリッド方式を採用しており、計算全体の中で量子がどれだけ本質的な役割を果たしているかは明確ではありません。
5. では、何が必要か
量子コンピュータは、長期的には、産業上重要な技術となる可能性を秘めています。しかしその発展には、基礎理論・デバイス技術・アルゴリズム・ユーザーインターフェースなどの各側面における地道な研究開発に基づく継続した着実な進歩が必要であり、短期的な成果を期待すべきではありません。
筆者自身、量子アニーリングの提唱に関わって以来、この分野の発展を30年近くにわたって現場の人間として見てきました。この経験から、技術の成熟には、ブームや失望のサイクルに惑わされない地道な基礎研究の積み重ねと、それを支える人材育成が不可欠であることを、あらためて強調したいと思います。
政策立案者や経営者、投資家、さらには広く社会一般に求めたいのは、以下の三点です。
1. 短期成果への偏重を避けること
「乗り遅れることへの懸念」に基づく過度な競争は、即効性に過剰な期待が注がれている一部のテーマや研究グループへの資源集中を招き、基礎研究の健全な発展、ひいては真の成果の達成という目標を損ないかねません。量子コンピュータの価値は、数十年単位の視点でしか測れません。
2. 基礎研究と人材育成への継続的な投資を優先すること
目先の実用化よりも、原理を深く理解した人材の育成(大学教育)と、長期的な基礎研究への投資こそが、将来の競争力の源泉となります。米国や中国には、この点で見習うべき歴史が存在します。米国の国家プロジェクトへの参加で受けた衝撃などの経験から、これが彼らの強さの主な要因だと理解するに至っています。彼らが強いのは単に資金が多いからではなく、それを成果に結びつける人材が多重の層をなして存在しているためです。
3. 情報源を批判的に評価すること
量子コンピュータに関する情報は、発信者の立場や利害関係によって大きく色づけされている可能性があります。科学的な評価に基づく冷静な情報を見定め、誇張された期待に左右されないことが重要です。
量子コンピュータに関する議論は、過度な期待や失望に左右されることなく、数十年以上の長期的視点に立って進められるべきであることを強調したいと思います。
先年私が慶応義塾長在任中、今日の同大学工学部が始めて藤原工業大学として創立せられ、私は一時その学長を兼任したことがある。時の学部長は工学博士谷村豊太郎氏であったが、識見ある同氏は、よく世間の実業家方面から申し出される、すぐ役に立つ人間を造ってもらいたいという註文に対し、すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ、と応酬して、同大学において基本的理論をしっかり教え込む方針を確立した。(漢字表記等原文のまま)


西森先生のご指摘に深く共感いたします。私はシステムエンジニアの立場から、量子実機での定量的検証を行いました。ベンチマークとしてFeMoCo分子に対し、最新156量子ビット機で48/80/108量子ビット規模の計算を実施した結果、量子ビット数の増加に伴い信号が指数的に減衰し、108量子ビットでは有意味…