【解説】物理学者から観た映画『メッセージ』。未来を知ることによる自由意志の喪失について
未来を知ることと、自由意志を持つこと。この二つは両立できるのだろうか。
もし、あなたが明日出会う人のことを既に知っているとしよう。顔も、声も、その人と一緒に過ごす歳月の長さも、そしていつ別れることになるかも、すべて既に知っているとしよう。あなたはそれでもその人を愛せるだろうか。愛せたとして、それは本当に「愛する」という能動的な選択なのか、それとも単に運命の台本をなぞっているだけなのか。
『メッセージ』という作品は、このやや意地悪な問いにSFという形式で真正面から応答した、稀有な作品である。テッド・チャンの短編「あなたの人生の物語」を原作とし、ドゥニ・ヴィルヌーヴが映画化したこの作品を観て、多くの人が涙したはずだ。ルイーズが娘ハンナの死を知りながらなおハンナを産む決意をしたあの選択の美しさは、鑑賞後しばらくの間、脳裏から離れないだろう。
運命を受け入れた人間の姿が、なぜこれほど美しく映るのか。この問いへの答えを、私は物理学の中に見つけている。
『メッセージ』という作品は、間違ってはいないのだが、言語学SFとして受け取られがちな作品である。ヘプタポッドの異形の文字、サピア=ウォーフ仮説、言語が思考を規定するというテーマ。これらが観客の目を引くのは当然のことだ。だが原作者のテッド・チャンは、作品の覚え書きの中で、この話は”変分原理”という物理学のある一概念から生まれたと告白している。『メッセージ』は、物理学のハードSFとして構想され、その骨格の上に言語学的な意匠が組み上げられた作品なのだ。
物理学の研究者としてこの作品を観ると、言語学的な読みだけでは決して触れられない層が、作品の奥にはっきりと見えてくる。ルイーズの選択の気高さ、ハンナという娘の名の響き、そしてラストシーンの余韻が持つあの奇妙な手触り。これらはすべて、ある一つの物理学的世界観から必然的に導かれる結晶として立ち現れる。本記事でこれから辿ろうとしているのは、その物理学的な骨格である。
なお、本記事では物語と物理学を並走させる都合上、専門的に記述しようとするといささか腰が重くなるような概念については、一般読者にとって読みやすい形に噛み砕いて提示することを優先した。物理学の専門家から見れば、いくつかの箇所では正確さを犠牲にしているように映るかもしれない。そのような箇所には本文中で適宜(※)を付し、記事末尾にまとめて物理学的な補足と弁解を置いてある。ハードSFを愛する読者諸氏は、本文を読み進めたうえで、末尾の注釈にも目を通していただければ幸いだ。
人間は世界を「因果」として見る
朝、机の端に置いたコップが、何かの拍子に落ちて割れる。この一連の出来事を目撃したとき、私たちの脳は何の努力もなしに「机の端に置いた → 触れた → 転倒した → 落下した → 衝撃 → 破損」という因果の鎖として整理する。逆の順序、すなわち「破損 → 衝撃 → 落下 → 転倒 → 触れた → 机の端に置いた」と時間をさかのぼる形で出来事を把握する人間は、おそらくこの世にいない。
これは単なる言語や文化の習慣ではない。人間の脳は(無論人間に限らず、全ての動物も同じことだが)、時間を「前から後ろへ」流れる一方向の矢として知覚するように出来上がっている。赤ん坊ですら、何かが起こった後に何かが起こる、という時間的順序の感覚を早い段階で獲得することが発達心理学の研究から分かっている。この知覚様式は深く、深く私たちに根を下ろしている。
このような時間認識を、数学的に最も明快な形で定式化したのが、17世紀のアイザック・ニュートンである。
ニュートン力学の根幹にあるのは、運動方程式と呼ばれる驚くほど簡潔な規則だ。力が加わると物体は加速する。ただそれだけのことを、数式の形で書いたものである。だが『メッセージ』について語る上で重要なのはこの方程式を「どう使うか」という物理学における運用的な側面である。
物理学者がニュートン力学で未来を予測するには、ある瞬間における物体の位置と、その瞬間の速度と、その瞬間に働いている力、これら3つの情報を方程式に入れることから始まる。するとその次の一瞬の位置と速度が導き出される。次はそのまた一瞬後、さらにその次、と計算を積み重ねていく。こうして現在の情報から未来が少しずつ織り上げられていくのが、ニュートン的な時間予測である。
この計算様式が言わんとしていることは実に単純で、未来は、現在から一瞬ずつ作られていくものだということだ。5分後の状態を予測するには、4分59秒後の状態が既に予測されていなければならず、そのためには4分58秒後が必要で、というふうに遡っていく。未来は現在の延長線上にあり、現在の条件がほんの少しでも異なれば未来も異なったものになる。この世界観を物理学者は「逐次発展的世界観」と呼ぶ。
私たちが朝起きてから夜眠るまで体験している時間は、まさにこの逐次発展的な時間である。原因があって結果があり、過去があって現在があり、現在があって未来が生まれる。この連鎖の中でこそ、私たちは「選択」というものに意味を感じることができる。今コーヒーを飲むという選択をするから、5分後に満たされた気分の自分がいる。もしコーヒーを飲まなければ、5分後の自分は違う状態にある。だから選択には意味がある。そしてこの意味があるという感覚こそが、私たちが自由意志を信じる根拠(※1)である。
さて、このニュートン的な時間の中では、未来を「知る」ことは原理的にほぼ不可能に近い。未来は現在の延長としてこれから生まれるものでしかなく、完全に予測するには現在のあらゆる情報を寸分違わず把握した上で、世界中のあらゆる物理法則を矛盾なく適用し続けなければならない。
天気予報すら一週間先までしか当てにならない私たちに、そのようなことが出来るはずもない。だからこそ私たちは自由意志を信じていられるし、明日をまだ起こっていないものとして楽しみにできるわけだ。
ヘプタポッドは世界を「目的」として見る
18世紀から19世紀にかけて、ニュートン力学とはまったく異なる形式で同じ物理現象を記述する新しい力学体系が誕生した。解析力学と呼ばれるこの分野は、フランスのラグランジュやアイルランドのハミルトンといった数学者たちの手によって築かれた、抽象度の高い世界である。
現代ではニュートン力学が高校物理で習う身近な学問であるのに対し、解析力学は大学の物理学科に進んで初めて出会う、やや専門的な体系として位置づけられている。そのため、大学で物理学を専攻でもしていない限り、聞いたことのない分野のはずである。
この学問が扱っているのは、ニュートン力学が扱っているのとまったく同じ、私たちが生きているこの世界の運動である。野球ボールの軌道も、惑星の公転も、解析力学を使ってきちんと計算できる。違うのは、その計算のやり方であり、より深く言えば、その背後にある世界観そのものである。
野球ボールを斜め上に投げた場合を考えてみよう。ニュートン力学のやり方は、一瞬ごとにボールの位置を追跡していくものだった。解析力学は、まったく異なる発想をとる。
まず、ボールの出発点と到達点を同時に指定する。たとえば、投げた人の手から放たれた瞬間の位置と、捕球する相手のミットに収まった瞬間の位置を、時空の中の二つの点としてあらかじめ決めておく。そしてこう問う。この二点を結ぶ軌道としては、理論上無数の経路があり得る。山なりの大きな弧を描く経路、低く直線的に飛ぶ経路、途中で不自然に上下する経路。では現実に実現する経路は、なぜ「あの放物線」なのだろうか。
解析力学の答えは美しい。現実に実現する経路は、「作用」と呼ばれる数学的な量を最小あるいは最大にするような経路なのだ。この作用とは、厳密に定義しようとすると専門的な数学の用意が必要になる量だが、ここではその名前だけ覚えておけばよい(作用・反作用の作用とは関係がない、一定の物理学の手続で計算できる量である)。とにかく重要なのは、この計算のやり方が、ニュートン力学とは根本的に違う時間観を前提にしているという点である。
ニュートン力学は、各瞬間の状態から次の瞬間を導く。一瞬から次の一瞬へと階段を登るように積み上げていく。だが解析力学は違う。始点と終点を同時に与え、両端の間を貫く経路全体を一度に指定する。時間は一瞬ごとに流れているのではなく、始点から終点までが一つの塊として、最初から同時に決まっている。この世界観のことを、物理学者は目的論的世界観と呼んでいる(※2)。
この目的論的世界観が、単なる言葉遊びではなく、自然界で実際に起きている現象の記述として美しく機能する場面を見ておこう。光の振る舞いである。
17世紀のフランスの数学者ピエール・ド・フェルマーは、光が空気中から水中に入るとき、なぜ屈折するのかという問いに対して、驚くほどシンプルな答えを出した。光は、出発点から到達点までを、最も短い時間で結ぶ経路を選ぶ。これだけである。後世の物理学者がフェルマーの原理と呼ぶことになるこの法則は、小学校の理科で習う光の屈折の法則と完全に一致する内容を、全く異なる角度から述べたものだ。
日常的なイメージに落とし込んでみたい。浜辺でライフガードが、沖で溺れている人を助けに行く場面を想像してほしい。ライフガードは砂浜を走る速度と、海を泳ぐ速度が違う。走る方が泳ぐより速い。このとき、ライフガードが最短時間で溺れている人に到達する経路は、実は浜辺と海を直線で結ぶ経路ではない。
直線経路は距離としては最短だが、時間としては最短ではないのだ。時間を最短にするには、砂浜を長めに走り、海に入るのは遅らせて、水中の区間を短くするように進むべきである。つまり、浜辺と海の境界でわずかに折れ曲がった経路を選ぶ。これが、最も早く目的地に着くための賢い選択である。
そして光もまた、空気と水の境界で折れ曲がる。ちょうどライフガードが砂浜と海の境界で折れ曲がるのと同じように、光は空気中では速く進み、水中では遅く進むので、境界で方向を変えることで空気から水までの所要時間を最短にする。
屈折とは光が境界で進路を変える現象であるが、そこに、始点と終点の間のあらゆる可能な経路のうち所要時間が最小になるものが選ばれている、という原理を見出したのがフェルマーである。そして、このような原理を一般化したものが変分原理であり、変分原理を出発点として組み上げられた力学体系が解析力学である。光はあたかも、出発前から到達地点を知っていて、そこに至る最適な経路を既に計算し終えているかのように振る舞うのだ(※3)。
この振る舞いをニュートン力学的に、つまり因果論的に記述しようとすると、実に奇妙なことになる。光の粒子が境界に到達した瞬間、どうやって「この先の水中ではこの方向に進むと時間が最短になる」と判断できるのだろうか。
粒子が目的地の方向を事前に知っていなければ、境界で折れ曲がる角度を正しく選ぶことはできない。一瞬一瞬の因果の連鎖だけでは、なぜ光があの角度で屈折するのかを説明できないのである。しかし解析力学の枠組みでは、この奇妙さは消える。光は一瞬ごとに判断しているのではなく、始点と終点を含む経路全体を、最初から一つの塊として実現しているに過ぎないからだ。
『メッセージ』のサウンドトラックを手掛けたマックス・リヒターの作品の中に、"On the Nature of Daylight"(昼の光の本質について)という弦楽曲がある。映画の冒頭と終盤で流れ、作品全体の骨格を担う一曲だ。「光の本質について」、このタイトルが誘う思索は、フェルマーが17世紀に提示した問い、すなわち光はなぜ屈折するのかという問いと、地続きになっている。そしてその問いへの答えが変分原理という解析力学の根幹に結びついていることを思えば、曲のタイトルと作品の主題と明確に呼応している。光もまた、ヘプタポッドのように、出発点と到達点を同時に知っているのだ。そのような存在の本質について、という意味が、劇伴のタイトルに忍ばされていたのである。
テッド・チャンの覚え書きによれば、『あなたの人生の物語』という作品を書く発端となったのは、もしこの解析力学的な世界観を、数式の上ではなく、生まれながらの感覚として持っている生物がいたら、彼らは世界をどう見るだろうか、という思考実験だった。私たち人間は、ニュートン力学的な世界、つまり因果の世界を自然な知覚として持っている。解析力学の世界観を理解するのに数年の大学教育が必要な理由は、単純に、私たちの脳がそれを不自然と感じるからに他ならない。
しかしヘプタポッドにとって、解析力学の世界観は不自然ではない。彼らにとっては、むしろ私たちの因果的な世界観の方が奇妙で難解なものに映るだろう。彼らは最初から、出来事を始点と終点の両方を含んだ全体として知覚する。過去と未来は別々の領域ではなく、一つの経路の両端にある。ある瞬間は過去の結果であると同時に、未来の始点でもある。時間は流れるのではなく、既に展開されて目の前に広がっている。
『メッセージ』でヘプタポッドの文字が円環状に描かれ、時間的な方向性を持たないのはこのためである。彼らの書記体系は、彼らの世界認識を忠実に反映している。始まりも終わりもなく、文の全体が一度に目に飛び込んでくる文字。それは目的論的世界観を持つ存在にとっての、最も自然な表記法なのだ。
原作小説ではもう一歩踏み込んだ記述がある。ヘプタポッドの数学体系そのものが、人間の数学体系とあべこべだという話だ。
私たちが小学校で最初に習う数学は、四則演算である。1たす1は2、3かける4は12。これらの演算は私たちにとってほとんど自明であり、物を数えるという日常的な行為の延長として、何の抵抗もなく受け入れることができる。一方で、先ほどから触れている変分原理や解析力学の体系は、大学の物理学科で専門的な訓練を受けた人間でなければ、なかなかその内実にまで踏み込めない。変分法という数学の一分野を経由しなければ、作用の概念すら厳密には理解できない。つまり人間の数学体系において、四則演算は自明な土台であり、変分原理は高度な応用である。
ヘプタポッドはその階層が逆転している。彼らにとって自明な土台は変分原理の側にあり、四則演算の方が難解な応用として映る。1たす1が2になるという私たちの目には透き通るほど単純な事実が、彼らの数学体系では人間の目からすれば滑稽なほど入り組んだ式で記述されるらしい。逆に、私たちが大学生になってようやく辿り着く変分原理の体系は、彼らにとっては小学一年生の教科書に載っている程度の、ほとんど自明な初歩として受け取られる。
この設定は一見突飛に感じられるが、数学の歴史を振り返るとそれほど荒唐無稽でもない。私たち人間の数学においても、何が自明で何が難解かは時代と共に入れ替わってきた。古代ギリシャ人にとって、ゼロという数の概念は不可解な謎だった。負の数は17世紀になるまで多くの数学者に受け入れられなかった。
つまり、ある概念が自明に見えるか難解に見えるかは、その概念を使う主体の認知構造と深く結びついているのだ。ヘプタポッドは変分原理を自明として持つ脳を持っているが、その代償として、私たちにとっては自明に映る四則演算を手放しているわけだ。
そして数学体系の違いとは、単なる計算手続きの違いではない。それは世界そのものの見え方の違いなのだ。ヘプタポッドは変分原理が自明な世界の住人であり、目的論的世界観を獲得した知的生命体である。私たちは四則演算が自明な世界の住人であり、そこからニュートン力学的な逐次発展的世界観を自然に導き出す。どちらが優れているという話ではない。異なる認知体系を持った二つの知性が、同じ宇宙を眺めているというだけの話である。そして、ルイーズがヘプタポッド言語を学ぶということは、このもう一つの認知体系を脳に書き込むということになる、というのが『メッセージ』の大枠である(※4)。
言語が思考を書き換えるとき
1930年代、アメリカの言語学者エドワード・サピアと、その弟子ベンジャミン・ウォーフが提唱した仮説がある。「使用する言語の構造が、話者の世界認識を規定する」というものだ。強い形では「ある言語にない概念は、その言語の話者には思考できない」とまで主張される。弱い形では「言語は思考を強く方向づける」という程度に留まる。
この仮説は長らく論争の的であり続けてきた。強い形のサピア=ウォーフ仮説は、現代の言語学ではほぼ否定されている。ある言語に特定の概念を表す語彙が欠けていても、その概念自体は話者が理解できることが、さまざまな認知実験で示されてきたからだ。とはいえ、弱い形の仮説、つまり言語が世界の見え方に一定の影響を与えるという主張は、今なお有力な研究領域として生き続けている。
たとえば色彩語の研究がある。ロシア語には英語の blue に相当する色がない。かわりに明るい青(голубой, ガルボイ)と濃い青(синий, シーニー)の二つが別の語として区別されている。この事実に対応するように、ロシア語話者は英語話者よりも青色の濃淡の違いをわずかに速く識別できることが、反応時間の測定実験で確認されている。語彙の構造が知覚の速度にまで影響を与えていたのである。
チャンがメッセージで採用したのは、このサピア=ウォーフ仮説の、言語学の実証研究が扱うスケールを遥かに超えた、極限形である。
ヘプタポッドの言語を習得すれば、ヘプタポッドの世界認識そのものが獲得される。すなわち、目的論的な時間認識が身につく。ルイーズは当初、言語学者として純粋に学問的関心から、ヘプタポッド言語の構造を分析していた。だが分析が進むにつれ、彼女の脳内で世界の見え方そのものが変質していく。円環状の時間、始点と終点を同時に把握する認識様式、過去と未来の区別の溶解が起こるのだ。
これはもちろん、現実の言語学研究の範疇を遥かに超えた設定である。地球上のどの言語を学んでも、時間を非線形に知覚できるようにはならない。チャンはこの点を承知の上で、サピア=ウォーフ仮説を物理学の変分原理と強引に接続した。言語は単に思考の道具ではない、とチャンは主張する。その言語が立脚する物理学体系、つまりその言語を話す生物が世界を記述するときに使う数学の構造そのものが、言語を通して学習者の脳に流れ込んでくる。地球外生命体の言語を学ぶことは、地球外生命体の物理学を脳に書き込むことと等しい。そう主張したのである。
この発想は、言語学の側から見れば飛躍であるし、認知科学の側から見ても検証不可能な仮説だ。だが物理学の側から見ると、突飛な設定であることは無論否定できないが、身体感覚として納得がいくものでもあるのだ。物理学者にとって、自然現象を記述する数学体系は単なる計算ツールではない。それは世界そのものの構造を映す鏡である。もし別の数学体系で同じ現象が同等に記述できるならば、その数学体系もまた、世界の別の見え方を私たちに提供している。変分原理と運動方程式は、同じ自然現象を違う角度から照らす二つの光源である。ルイーズがヘプタポッド言語を通して獲得したのは、まさにこの別の光源なのだ。
そしてこの別の光源の下では、「未来」という概念の意味が根本から変わってしまうのだ。
運命を知って、なお生きるということ
未来を知ることと、自由意志を持つこと。この二つは両立できるのか。冒頭で提示した問いに、ここでようやく戻ってくることができる。
ニュートン的世界、すなわち因果論的世界観の中では、未来を知ることは原理的にほぼ不可能である。未来は現在の延長線上にあり、未だ「生まれていない」。だから私たちは自由意志を信じていられるし、実際、信じている必要がある。今の選択が5分後の自分を作るのだと、疑いもなく信じていなければ、朝起き上がる理由すら消えてしまう。
だが解析力学的世界、目的論的世界観の中では、話が変わる。時間は流れているのではなく、始点から終点までの経路として既に存在している。過去も未来も、経路の両端に配置された点として、対等に実在する。この世界観の中で「未来を知る」とは、既に存在している経路の、まだ見ぬ部分を覗き込むという、極めて自然な操作になる。時間を未来方向に歩くことも、過去方向に歩くことも、経路の任意の一点に佇むことも、どれも同じくらい自然な行為である。
そしてこのとき、ある論理的問題が生じる。
もしあなたが自分の未来を完全に知ったとして、あなたはその未来を変えられるだろうか。たとえば「5年後のあなたは、来週Aさんに告白して、結婚し、10年後に別れる」とあらかじめ知らされたとしよう。そしてその別れを回避したくなったあなたは、告白しないという選択をする。しかしその場合、5年後の未来を知った結果、告白しなかったという新しい現実が成立するだけで、元々知らされた告白して結婚して別れるという未来は、いったい何だったのかという話になる。
つまり、未来を完全に知ることと、その未来を変えることは、論理的に両立しない。知っていたはずの未来が変えられるのなら、それは最初から知られていたわけではないことになってしまうからだ。
この論理矛盾は、ファーストコンタクトSFや時間改変SFが繰り返し突き当たってきた古典的な難問である。未来を知る能力を登場人物に与えた瞬間、物語は「未来を変えようとする努力と、変えられない未来との衝突」という形に収斂しがちだ。結末として用意されるのはたいてい二つのうちどちらかで、一つは悲劇として回避の努力が無駄に終わる展開、もう一つは未来を知ったこと自体をなかったことにする展開である。どちらも、未来を知ることと自由意志を両立させようとした帰結として、物語が矛盾に押し潰される様を描いてしまうことが多い。
チャンの手つきはここで決定的に違う。彼はこの矛盾を、もう一段深いところで回避してみせた。
鍵は、未来を知った人間の内面に何が起きるか、という点にある。チャンの描くルイーズは、未来を知った結果、その未来を変えたいとも思わない。むしろ逆で、知った未来を実現することそのものが、彼女の行動原理に書き換えられていく。これを義務感と呼んでいいのかもしれないが、義務感という言葉にはまだ因果論的な響きがある。より正確には、未来を知るという経験それ自体が、その未来を演じるという姿勢を生成してしまう、という構造だ。
シェイクスピアの戯曲の台詞を既に暗記している俳優が、舞台の上でその台詞を「変えたい」と思うだろうか。その瞬間の舞台で、その台詞を心を込めて発することこそが、俳優の仕事の全てであるはずだ。台詞を変えるという発想自体が、演技の外側に属する考え方なのである。
チャンが思考実験として提示したのは、未来を知るという経験が、自動的にこうした演者の姿勢を引き起こすという構造である。変分原理が支配する目的論的世界観の中では、未来を知ることは経路の全体像を知ることであり、経路の全体像を知った者は、その経路を変えたいとは思わなくなる。
なぜなら、経路の全体像こそが「自分」という存在の輪郭を描いているのであり、経路を変えることは、その自分を別人に書き換えることに等しいからだ。ルイーズが娘の死を知った上でなお娘を産む決意をするとき、彼女は「娘を失う母としての自分」を丸ごと引き受けている。その自分を変えたくないからこそ、未来を変えようとしない。
この構造が用意されることで、未来を知ることと自由意志の矛盾が、奇妙ではあるが実に綺麗な形で解消される。矛盾は論理的に解消されるわけではない。ルイーズが古典的な意味での自由意志を持っているかと問われれば、持っていないと答えるのが物理学的には正しい。
だが彼女は、自分で選んでその経路を歩いているという実感を、少しも失っていない。知った未来を、自分の意志として引き受けるという形式で、彼女は自由意志を再定義しているのだ。これは運命への屈服でも、運命との戦いでもない。運命を自分の選択として抱きしめるという、第三の道である。
未来を知ってもなお、その未来を変えないこと。変えないどころか、未来を知っているからこそ、その未来を実現するように振る舞うこと。
テッド・チャンが『あなたの人生の物語』で描いたのは、まさにこの構造である。ルイーズはヘプタポッド言語を習得することで、自分の未来を知る。夫となる男性と出会い、愛し合い、娘を授かり、その娘が10代で難病に侵されて亡くなるということを、すべて知る。だが彼女はその未来を変えようとしない。むしろ、知っているからこそ、その未来を実現するために、男性を愛し、娘を産み、そして彼女を失うことを積極的に選ぶ。
これは運命への諦めではない。解析力学的世界観における生きるという行為の、最も純粋な形態である。始点と終点の間の経路を、その経路だと知りながら、一歩一歩、丁寧に歩いていく。映画の終盤、ルイーズが「人生のすべての瞬間を大切にする」と語るとき、彼女が語っているのはまさにこの生き方である。
興味深いのは、このような生き方が決して悲壮ではないという点だ。未来の別れを知りながら愛することは、知らずに愛することと比べて、少しも劣らない。むしろしばしば、それ以上に深い。末期癌の患者が家族と過ごす最後の数ヶ月が、健康だった頃の日常よりも濃密になることを、私たちは経験的に知っている。終わりが見えているとき、人は今この瞬間にすべての重さを乗せる。終わりを知っているからこそ、始まりがかけがえのないものに見えてくる。
解析力学的世界観における人生は、映画の台本を知った俳優が舞台に立つようなものと言っていいだろう。結末を知っているからといって、演技に込める情熱が薄まるわけではない。知っているからこそ、各場面の重みが分かる。この台詞の後にこの展開が待っていると分かっているからこそ、この台詞にどう重みを込めるべきかが見えてくる。そして舞台を降りるとき、悲しい物語だったとは思わない。美しい物語だったと思う。それが完成された経路の、完成された歩み方である。
ルイーズがイアンとの結婚と離婚、ハンナの誕生と死を変えないと決めたとき、彼女は因果論的世界観から目的論的世界観へと、越境していた。それはヘプタポッド言語を学んだ結果、脳内の物理学が書き換わったからである。そして書き換わった物理学の中では、彼女の選択は運命への屈服ではなく、経路そのものを愛する行為だったのだ。
「これはあなたの物語の始まりの場所」
物語の終盤、ルイーズとイアンはお互いに惹かれ合いながら、まだ恋人同士ですらない時点にいる。その場面でイアンはルイーズに問いかける。
もし未来が全部見えていて、それがどう終わるかも分かっていたら、あなたは何を変える。
このイアンの問いは、因果論的世界観に立つ人間の素朴な問いかけである。未来を知れば、より良い選択ができるはずだろうと、彼は前提している。だが問われているルイーズは、既に別の世界観に立っている。彼女の答えは映画内では明示されないが、作品全体を通してその答えは示されている。
彼女は、何も変えない。
変えないどころか、未来に待ち構えているすべてを受け入れる。イアンと恋に落ち、娘ハンナを産み、ハンナの闘病と死を見届け、やがてイアンとも別れる。これらすべてが「既に決まっている」と知りながら、一つ一つの出来事を、初めて経験するかのように迎え入れる。いや、もっと正確に言えば、既に経験したことを懐かしく再訪するように迎える。
ルイーズは物語の最後、娘ハンナに向かって語りかける。
「ハンナ…これがあなたの物語の始まりの場所。出発の日。人生の旅がどうなるか、どこに行き着くかが分かっていても、私は喜んで受け入れる。人生のすべての瞬間を大切にする」
この言葉を、映画の文脈を何も知らずに聞けば、生まれたばかりの娘に語りかける母親のごく自然な囁きとして、静かに通り過ぎていくだろう。
だが、私たちはもう知っている。ルイーズが何を見た上でこの言葉を選んでいるのかを、知っている。
始まりの場所。そう言うとき、ルイーズには、その場所から伸びていく一本の道の全体が見えている。数年後、ハンナが砂浜ではしゃぐ日も、病院の白い天井を見つめる日も、もう戻ってこない日も、すべてが一つの経路として彼女の視界に収まっている。その全景を抱えたまま、彼女は生まれたばかりの娘に向かって、ここが始まりだと告げる。同じ「始まり」という言葉が、未来を知らない母の口から出るときと、未来を見渡した母の口から出るときとで、いったいどれほど違う重さを持つのだろうか。
ヴィルヌーヴが映画化した『メッセージ』は、原作小説から物理学的な議論の多くを削ぎ落としている。残されたのは、言語学と感情の物語である。映画を観た観客の多くが、美しかったと言い、哲学的だったと言い、ルイーズの選択に感動したと言う。 だが、その美しさの奥底には、物理学が数百年かけて到達した一つの世界観が、方程式をひとつも黒板に書かないまま、静かに流れ続けているということを今回語ったわけだ。
私がこの映画を観ていて最も深く胸を衝かれたのは、ルイーズがハンナを産むと決める、あの一瞬である。若くして死ぬと知っていて、それでも産む。因果論的世界観の住人である私たちの感覚からすると、愚かで残酷な決断とうつるかもしれない。だがルイーズは、微笑んで、それを選ぶ。
この場面が観客の胸を打ち続けるのは、私たち自身もまた、心のどこかでこのように生きたいと願っているからではないだろうか。人生のすべての瞬間がいつか終わりに向かっていることを、私たちは頭の片隅では知っている。愛する人はいつか老いて亡くなるし、子どもはいつか巣立っていくし、自分自身もいつか死ぬ。この事実から目を逸らしながら日常を営むことが、因果論的世界観の中で生きるということのほとんど必然の副作用である。
だがルイーズは目を逸らさない。目を逸らさずに、なお、全力で愛する。その姿勢を、私たちは自分の中に取り戻したいと、観ているあいだじゅう、心のどこかで願い続けている。
自分が今日ここまで歩いてきた道のりを、少し振り返ってみてほしい。朝起きてからのすべての瞬間が、未来の矢印の先端のように前へ前へと伸びていくものではなく、既に一つの完成された経路として存在していたのだとしたら。
未来を知ることと、その未来を愛することが両立しうるのだと、ルイーズは私たちに示してみせた。それは私たちには到達できない境地かもしれない。私たちは明日を知らず、来年を知らず、自分がいつ誰と別れるかも知らないまま、日々を歩き続けている。だが、この作品を観てしまった後の世界は、観る前の世界と同じではない。ルイーズの微笑みと、ハンナに語りかける声の震えは、もう私たちの中から消えてはくれない。
それは映画が終わっても続く記憶として、ふとした瞬間に私たちの日常に顔を出すだろう。愛する人の顔を見たとき、誰かと別れた夜、あるいは何気ない朝の光の中で。この作品を観た者は、少しだけ違う仕方で、その瞬間を抱きしめることができるようになることだろう。
※ハードSFオタクのための注釈
(※1) ただし、逐次発展的世界観をどこまでも突き詰めていくと、実は自由意志の存在そのものを危うくする話に行き着く。19世紀初頭、フランスの数学者ラプラスが提示した有名な思考実験がある。もし、現在の宇宙に存在するすべての粒子の位置と速度を完全に知っている知性体がいたとしよう。ニュートンの運動方程式を寸分の狂いもなく適用できるのなら、その知性体には過去も未来もすべての出来事が計算可能である、と彼は述べた。後にラプラスの悪魔と呼ばれることになるこの知性体の存在を認めるならば、この宇宙で起こる一切の出来事は、宇宙誕生の瞬間から原理的には既に決定されていることになる。あなたが今コーヒーを飲もうとしているのも、あなたの脳内のニューロンがほんの少し前にそういう信号を発したからであり、そのニューロンがそう発したのは、さらに前の神経活動の結果であり、そのまた前の、さらに前の、と遡れば、最終的にはビッグバン直後の素粒子配置に行き着く。選択しているように見えて、実は選択させられている。この立場を決定論と呼ぶ。逐次発展的世界観は、掘り下げると選択の自由を保証するどころか、むしろ剥奪する方向に傾く側面があることは、頭の片隅に置いておきたい。だが、ここではそのような”悪魔”は考えないことにしたい。
(※2)厳密には三点、専門的な留保を加えておく必要がある。まず第一に、作用の条件は「最小あるいは最大」ではなく「停留値をとる」と述べるのが正確である。実際、鞍点型の停留作用が実現経路となる場合も存在し、ハミルトンの原理が「最小作用の原理」という通称で呼ばれるのは歴史的な慣習に過ぎない。第二に、解析力学は一枚岩ではなく、ラグランジュ形式とハミルトン形式を擁する体系である。このうち変分原理を直接体現するのは前者であり、後者の正準方程式は一階の常微分方程式系として初期条件から逐次的に解かれる構造を持つ。つまり解析力学の全てが目的論的に機能しているわけではなく、その中でも変分原理という特定の定式化のみが、本記事で論じている目的論的世界観を支えている。第三に、変分原理とニュートン力学的な運動方程式は、オイラー=ラグランジュ方程式という橋を介して数学的に等価である。両者は世界を記述する異なる入口であり、物理現象の予測について両者が異なる結論を出すことはない。本記事が対比しているのは、あくまで同じ現象を眺める際の世界観の違いであって、物理学上の異なる理論体系ではないことを強調しておきたい。
(※3) 光が目的地を「知っている」かのように振る舞う、という本文の表現は、一般読者に向けた比喩的な記述である。現代物理学の正しい描像は、この場合経路積分によって与えられる。量子電磁気学では、光は始点から終点に至るあらゆる可能な経路に対して、それぞれの作用に対応する位相を担った確率振幅を持ち、全経路についての重ね合わせが最終的な伝播振幅を与える。このとき、停留作用を満たす経路の近傍では位相がほぼ一定となり、振幅が強め合って生き残る。一方、停留条件から外れた経路では位相が激しく振動するため、互いに相殺されて観測に寄与しない。結果として、古典極限においては変分原理を満たす経路だけが実現しているように観測される、というのが正確な理解である。この理解においてあえて比喩を与えるのであれば、光は「知っている」のではなく、あらゆる経路を並行して辿った末に、干渉によって特定の経路が浮き上がる、と言うのが正しいだろう。本記事ではこの点に踏み込むと話が発散するため省略したが、興味を持たれた読者は例えば、ファインマンの『光と物質のふしぎな理論』を手に取ってみてほしい。
(※4) 念のため断っておくと、変分原理を「目的論的」と解釈する立場は、古くから論争の対象であり続けてきた。19世紀の物理学者エルンスト・マッハは、最小作用の原理を神学的・目的論的に解釈することを厳しく批判し、それは自然法則の便利な記述形式に過ぎず、自然そのものが目的を持っているわけではないと主張した。同様の批判はヤコビにも見られ、彼は変分原理を物理学の基礎に据えることには慎重な姿勢を示した。現代の物理学者の多くも、変分原理を数学的な定式化の一つの便宜として扱い、その物理的実在性を主張することには抑制的である。つまり、変分原理から目的論的世界観を導き出すという本記事の議論は、物理学の定説ではなく、テッド・チャンが小説の思考実験として採用し、本記事がそれを批評的に敷衍した哲学的解釈である。物理学を文学に接続する際に生じる、健全な越境の一種として受け取っていただければ幸いだ。ただし、経路積分の描像のように、現代物理学の枠組みの中にも変分原理を実在的に解釈する余地は残されており、この問題は今なお完全には決着していないと言ってよい。私自身は”世界観”のようなものは物理学の範疇で議論することができないものであると思っているので、物理学がこのような問題に対して答えを与えることはないと思っている(少なくとも科学の仕事ではないだろう)。
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物理学者が映画について本気で考える、ちょっと変わった記事を書いています。「面白かった」と思っていただけたら、それだけで十分ですが、チップをいただけたらコーヒー片手にもう1本書きます。



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