「クソ客が増えるだけ」女性を救うはずの「北欧モデル」がかえって窮地を招いた”皮肉な現実”
セックスワーカーは「劣った存在」?
買春処罰法がある国では、性を売る女性は「救済されなければならない対象」で、「普通の人より劣った存在」とされている。そのためスウェーデンでは、「セックスワーカーである」というだけの理由で、社会福祉事務所から、「子育てをするうえで責任能力のない不適切な親」と判断され、親権を得られないことになっている。たとえ子育てに何ら問題がなかったとしてもだ。 ’17年にフランスで制作された映画『ぜんぶ売女よりマシ』は、このような社会通念によって、子どもの親権を元夫に奪われ、子どもを取り戻す闘いの過程で元夫に殺害されたセックスワーカーの事件を描いたドキュメンタリーである。 政府の「国家が救済する」「国家が道徳を教える」という威圧的なパターナリズム(父権的な温情主義)、市民の生活への過剰な干渉と権力の暴走。社会福祉大国スウェーデンの闇を映す、悲しみと怒りのこもった作品であり、買春処罰法の弊害をあぶり出している。 この映画が示しているのは、セックスワーカーを「犠牲者」だったり、「自滅の道を選んだ人間」とする見方は、彼女たちを社会的に排除し、世間から疎外させるということだ。それは加害者たちの暴力を許すことにつながる。作品の中ではそういった負の連鎖によって殺害が起こったのである。 セックスワークに対する「無くすことが最善」「仕事とはいえない」といった視点や、「女性に対する差別や暴力であり、やめさせるべきだ」という救済的なアプローチは、セックスワークの問題を単純化しているだけでない。セックスワーカーへの暴力や理不尽な扱いを後押しし、被害の訴えを困難にする。結果、支援を必要としているセックスワーカーがサポートを受けにくくなるという皮肉な状況を生んでいる。性を売る人々の現実との間に大きな乖離があることが問題なのだ。
日本は「北欧モデル」を取り入れるべきか
北欧モデルは、性売買に対する考え方によって賛否両論がくっきりと分かれる。そんななかで一つの方向性を示しているのが、国際人権団体アムネスティの「北欧モデルを支持しない」という方針だ。 アムネスティは各国の政府に対して、「セックスワーカーの権利を保護し、尊重し、実現すべきだ」と要求している。 日本では、一部の女性団体が北欧モデルの導入を主張。一方で、国内のセックスワーカー支援団体は猛反対している。セックスワーカーの権利運動の立場からは、当事者の生計を脅かす買春者処罰は受け入れられないのだ。 筆者は「日本は北欧モデルを導入しないほうがいい」と感じている。なぜなら「性的サービスを売る女性は全員が救済すべき”被害者”だ」と言い切るのは、無理があるからだ。筆者は27年以上性風俗を取材してきたが、風俗嬢の多くは性的サービスを”仕事”と捉えて真面目に働いていた。ほとんどが”お金を稼ごう”と前向きに頑張っている人だった。 「買う男性がいるから売る女性が現れるのだ。買う男性を撲滅すればいい」という北欧モデルの考え方は、転倒させることができる。「売る女性がいるから買う男性が現れる」とも言えるだろう。 性売買についての偏見も取り除いたほうがいい。売春を単に一方的な権力関係と見なすなら、あたかも”強者である男性”が”弱者である女性”を金の力でねじ伏せているように見えるかもしれない。 だが実際には”満たされない弱者としての男性”が女性にお金を払って性的サービスを恵んでもらっているという側面もある。必ずしもすべてが「買う男性=強者=加害者、売る女性=弱者=被害者」ではないのだ。買わない限り性行為ができない男性(性的弱者という)の存在を忘れてはならない。 北欧モデルの導入がすべての問題解決につながらないことは、これまでの実施国の例が示している。何ごとも感情に任せて勢いで決めてはならない。現実をよく見て時間をかけて考慮し、多くの人が納得できる最善の形に収めるのが大切だろう。 〔参考文献〕 『セックスワーク・スタディーズ』SWASH(編)、日本評論社、2018年 『<性の自己決定>原論』宮台真司、速水由紀子、山本直英、宮淑子、藤井誠二、平野広朗、金住典子、平野裕二、紀伊國屋書店、1998年 『なぜ人を殺してはいけないのか』小浜逸郎、PHP研究所、2014年 この他、多数の書籍、ネット媒体などを参照しました。 取材・文・写真:生駒明
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