エルバート達が宿泊している宿を飛び出したテオは、とにかく宿から離れるように走った。
雑踏を抜けて、少しでも人の少ない方へ走る。走る。
顔をグチャグチャに歪めて走る子どもを、ほんの一瞬気に留める大人もいたが、すぐに興味を失ったように歩きだす。この街はいつだって、テオを覚えてはくれない。
惨めだ。寂しい。悲しい。悔しい──そんな気持ちに負けて、嘘をついた自分を殴りたい。
「テオ!」
雑踏の中、テオを呼ぶ声が響く。アレンだ。
テオは足を止めた。こちらに駆け寄ってくる茶髪の長身。見慣れた幼馴染。いつもならホッとするのに、今は罪悪感で頭がどうにかなりそうだった。
「本屋にいないから焦ったよ。どこに行ってたの?」
「……ごめん」
そうだった。自分は先に本屋に行っている、と言ってアレンのそばを離れたのだ。
アレンとマリーナから逃げて。エルバートとベリルから逃げて──今日は逃げてばかりの日だ。
これ以上自分を嫌いになりたくはない。だから、アレンに正直に打ち明けよう、とテオは腹を括る。
「僕、英雄のエルバート様に会ったんだ。怪我をしたら、治してもらって」
「……という夢を見たんだな。それで、どこで昼寝してたの?」
テオは、アレンの顎に拳を叩き込みたい衝動を必死で堪えた。
「真面目に聞いてくれ! エルバート様は、ダンカン父さんと知り合いだったんだ! ダンカン父さんは恩人だって。だから、その息子のアレンを従騎士にしたいって考えてる!」
「……え?」
アレンはテオの言葉を飲み込むのに、少し時間がかかったらしい。
アレンは珍しく眉根をギュゥッと寄せて、何やら考え込んでいるようだった。そうして熟考の末、大真面目な顔で言う。
「じゃあ、テオがアレンを名乗るってことで。頑張れ、アレン」
「こらっ、軽率に自分の名前を譲るんじゃない!」
「だって、あれだけ騎士になりたがってたじゃない。しかもレイエル聖区の聖騎士なんて、誰にでもなれるものじゃない。このチャンスを逃す手はないでしょ」
「でも……!」
続く言葉が喉に引っかかる。
テオはパクパクと口を動かし、それからゆっくりと絞り出すように呟いた。
「僕は、ダンカン・ローレンスの息子じゃない……」
テオはローレンス姓を名乗っていないし、ローレンス家の養子になる手続きもしていない。
アレンもオリビアも、それこそ生前のダンカンも、養子の手続きを何度も勧めてくれたが、テオは頑として首を縦に振らなかった。
この辺りでは姓がない者は珍しくないし、それで困ることもない。養子になるとテオの本当の家族が見つかった時に手続きが煩雑になるから、ということで、彼らは一応納得してくれた。
だけど、テオがローレンス家の養子にならなかったのには、もっと別の理由があるのだ。それをテオは、アレンに言いたくなかった。
唇を噛んで俯き、どれだけ経っただろう。
不意に、目の前で何かがカサリと音を立てて揺れた。アレンが突きつけた紙包みだ。
「マリーナが、テオと一緒に食べろって。そこで食べよう」
「……うん」
昨日の礼にと、マリーナがアレンに贈った焼き菓子──マリーナは影の薄いテオのことなんて、忘れていると思ってた。
テオはジワリと目尻に浮かんだ涙を服の袖で擦る。
二人は適当な壁にもたれて、マリーナに貰った菓子を食べた。シナモン風味のビスケットは、しっかり甘いのでコーヒーが欲しくなる。
「それにしても、父さんが英雄エルバートの恩人なんて初耳だな……潰し焼きのパンでも奢ったのかな」
「アレンじゃないんだからさ。ダンカン父さんの足の怪我は、エルバート様を庇った時のものだって言ってた。だからエルバート様は、ダンカン父さんに恩を感じてるんだよ」
アレンはボリボリとビスケットを咀嚼し、しっかり味わい飲み込んでから言った。
「父は父、俺は俺でしょ。父さんへの恩を、俺に返してほしいとは思わないよ」
実にアレンらしい考えだ。
彼は自分の父が元聖騎士であることも、あまり特別に思っていない。というより、父が理由で特別視されたり、期待されたりするのが苦手なのだ。
「僕はエルバート様の気持ちが分かるよ。ダンカン父さんってそういう恩を受け取ってくれないからさ。それならせめて、その家族にって思うじゃないか」
ビスケットを齧りながら、亡きダンカンのことを思い出す。
ダンカンはアレンの父とは思えないぐらいカラリとした性格だった。陽気で豪快で、テオが遠慮すると「こまかいことは気にすんな」と言って、頭をグリグリ撫でてくれたものだ。
褒めて育てる性格で、剣の訓練をする時は、こちらが恥ずかしくなるぐらい褒めちぎる。「お前ら天才! 未来の英雄! ウォルグの双翼を名乗れ!」なんて調子の良いことを言ったりして。
アレンの容姿と性格は母親似だが、剣の腕と腕白な食欲は間違いなく父親似だ。
(……懐かしいな)
マイペースなアレンと話していたら、少しずついつもの調子が出てきた。
「帰ろう、アレン。喉が乾いたよ」
「そうだね。ビスケットを食べたら、お腹が減ってきた」
「いや、なんでだよ」
朝からずっと食べ続けている男は、何もおかしなことはないと言わんばかりの態度で言う。
「甘い物を食べると、しょっぱい物が欲しくなるでしょ」
「さっき、潰し焼きのパンを食べたばかりだろ!」
二人は同時に壁から背を離して、歩きだす。
「甘い物としょっぱい物を交互に食べることで、俺という永久機関が完成するんだよ」
「なんでそんなにポンポン迷言が飛び出すんだ。あと、外部からエネルギー供給を受けている時点で、永久機関じゃないからな。アレンはただのエターナル食いしんぼうだ」
「エターナル食いしんぼうも結構な迷言じゃない?」
いつもの距離で、いつもの歩幅で、いつもの道を行く──それがどれだけ幸せなことかを、テオは知っていた。
時刻は昼前だ。オリビアはもう昼食の用意を始めているだろうか。
二人が「ただいま」と声を揃えて言うと、中からオリビアとは違う声がした。
「やぁ、おかえり」
「よっ」
ダイニングのテーブルの前に腰掛けているのは、エルバートとベリルだった。