そんな指揮官と江夏のソリが合わなかったのかもしれない。シーズン序盤は抑えとしてセーブを挙げていたが、7月26日にプロ入り初の2軍落ち。その後、1軍から呼ばれることなく、オフに退団する。翌春、江夏は大リーグ挑戦のために海を渡り、ミルウォーキー・ブルワーズに招待選手としてキャンプに参加。しかし、開幕メジャーの夢は叶わず、ユニフォームを脱いだ。
「もし希望球団の1つである近鉄に行っていたら、江夏の野球人生は変わっていたと思います。近鉄の豪放磊落なチームカラーは、江夏に合っていた。1984年から就任した岡本伊三美監督は現役時代、首位打者も獲得した黄金期の南海を支えた名選手で、人心掌握に長けていた鶴岡一人監督を尊敬していた。
後年、野村克也さんが『鶴岡さんは選手をほとんど褒めない』と否定的でしたが、鶴岡監督は選手の特徴を見抜いて使い分けていただけ。そうじゃないと、今も歴代1位の通算1773勝をあげられません。
岡本監督は大沢親分と南海時代のチームメイトですから、そのラインで近鉄に江夏が行くことも考えられました。しかし、根本陸夫管理部長を中心とする西武のフロントと違い、近鉄は江夏の移籍情報を察知できなかった。岡本監督は阪神コーチ時代に2年間、江夏と接しており、彼の性格もある程度把握していた。選手の良さを引き出そうとする監督でしたから、江夏とも上手く行ったかもしれません」
1984年、近鉄の抑えは前年にヤクルトから移籍してきた鈴木康二朗が務めていた。王貞治に756号本塁打を献上したことでも知られる鈴木は、近鉄では3年連続10セーブ以上、ヤクルトでは主に先発で2ケタ勝利3回を挙げた好投手である。1984年、もし江夏が近鉄に移籍していれば、鈴木を先発に回す手も生まれ、チームが浮上したかもしれない。そして数年後、前人未到だった1000登板や近鉄初の日本一に貢献していた可能性もゼロとは言えない。
西武移籍が江夏の選手寿命を縮めたことは否めないかもしれないが、翌年の大リーグ挑戦はファンに夢を与えてくれたこともまた事実である。(文中敬称略)