小説の表紙は作品ではない ― コミティアの出した生成AI関連の新規約が見落としている「小説サークルの現実」と同人誌業界のビジュアル偏重傾向
コミティアの生成AI規約の改訂が話題になっている。
ただ、今回の議論を見ていて強く感じたのは、AIの是非以前に「小説サークルの現実」がほとんど理解されないまま話が進んでいるのではないか、ということだった。
漫画と小説では、そもそも表紙の持つ役割、意味が違う。
そして同人誌即売会という場ではその違いがかなり大きな差異になる。
小説と漫画では「表紙の意味」が違う
そもそも、小説の表紙は作品ではない。
漫画やイラストの同人誌では表紙も作品の一部である。
表紙の絵も本文も同じ作者による作品であり、読者にとっても地続きの表現だ。
しかし小説は違う。
小説にとって、作品の本体は本文の文章であり、表紙はあくまでパッケージ、音源のジャケットの役割を持つ。
当たり前だが、著述した作家本人の作品ではない。
この違いが、AI表紙の議論ではかなり混同されているように見える。
また、小説の装画はキャラクターイラストとでは求められてるものが根本的に違うということが軽視されている。
小説は読者が頭の中で人物像を作るメディアだから顔がはっきり描かれている必要はなく、必要なのは「登場人物のイメージを固定してしまう絵」じゃなく物語の雰囲気や象徴を伝えるビジュアルだ。
だから、キャラクターが描きたくて絵を請け負う人には小説の装画は向かない。
だから巷に溢れる「マンガっぽい絵」のイラストレーターには頼まないというのもあるんじゃないだろうか。
(作家自身がイメージ高めるために自ら描く、それを扉絵などに流用するのはまた動機が違うと思う)
ブックデザインや装丁に限らず、具象化しすぎるのはあまり美しくない。
受け手が想像する余地を奪ってしまうのではなく、受け手の中で意味やイメージが広がる「余白」を作るものでなければいけない。
「表紙はケーキのいちご」という認識のズレ
絵描きの人らがよく言うのは「表紙は絵師に依頼すべきだ」という意見だ。
しかしこれは「表紙は作品の一部」と捉えているから出てくる発想だと思う。
ケーキで例えるなら「表紙はケーキの上のいちご」という認識なのだろう。
だが小説サークルから見ると、表紙はいちごではない。ケーキを収める外箱だ。
ケーキの本体はあくまでもスポンジやスポンジ生地にナッペされたクリームであり、デコレーションのクリームと同様、載っかっているいちごも具材というよりは装飾なのである。
箱の設計なりデザインをしているのは、当然だが中の商品を作った人とは別だ。
AI生成の表紙に強く反発する人は、装飾の一部に過ぎないその絵を見て「本物から型取りしたゼリーで作った偽物のいちごだ!」と感じているのかもしれない。
故にそこから「偽物のいちごなら、きっとケーキ自体も偽物だ!」という発想が出てくる。
しかしこれはかなり短絡的であり、飛躍しすぎである。
同人誌即売会の現実
小説本の同人誌は、本来小説の表紙に絵がなくても成立する。
実際、書店で売られている本には文字だけの装丁も少なからずある。
しかし漫画やイラストが中心の同人誌即売会では事情が違う。
漫画やイラストを求める客層の多い場では、即時性が重要になり、内容がわからないように見える文字だけの表紙はどうしても訴求力が低くなる。
手に取られないどころかスルーされる。
もし表紙に絵をつけて陳列して運良く手に取られても「漫画じゃないじゃん」と言われて戻される。
ひどいときには確認せず衝動的に買われ、あとから「漫画じゃないならいらない」と返品されることすらある。
これが小説サークルの経験している現実だと思う。
小説の本は表紙だけで判断されない
だから小説サークルは、本文とは別に表紙や装丁で「まず立ち止まってもらう」努力をしてきた。
ただし、小説の本は表紙一枚で判断されるものではない。多くの読者は
・裏表紙(表4)のキャプション
・帯のコピー
・冒頭の数ページ
などを見て判断する。
文章の雰囲気や世界観は、実際に少し読まなければわからないからだ。
つまり、小説は表紙だけで成立しているメディアではない。
小説イベントでは設営の考え方も違う
小説中心のイベントでは事情はさらに違う。
例えば文学フリマの小説ジャンルの島では、表紙に絵がなくても普通に本は売れる。
重要なのは、遠目で内容がわかる設営だ。
・サークル名
・スペース番号
・新刊のタイトル、サムネ、価格
+簡単な内容紹介、キャッチコピー
こうした情報を色彩やフォントで視認性を高めてまとめたポスターを掲示しておくと、それだけで立ち止まってくれる人が増える。
小説の即売会では、絵よりも「どんなジャンルでどういう話を書いてるのか」が一目でわかることの方が重要になる。
「お金を払って依頼しろ」という傲慢
AI表紙の話になると「絵師に依頼すればいい」という意見もよく見かける。勿論それ自体は一つの選択肢だ。
しかし中には
「絵を依頼するお金が用意できないなら本を出すな」
「同人誌を出すカネがあるなら払えるはずだ」
「本気だったらそのくらい出せ」とまで言う声もあった。
だが、同人誌文化は、本来そういうものではなかったはずだ。
資金の多寡に関わらず、誰でも作品を出せる。
その寛容さが同人文化の根本だったはずだ。
更に言えば、「文章を書いている人=絵が描けない、デザインもできない」と決めつけて営業をかけてくる絵師もいた。
しかし小説サークルが表紙に工夫をするのは絵が描けないからではない。
「漫画やイラストが多い同人誌即売会」という環境で本を手に取ってもらうためだ。
目的と手段をゴッチャにされては困る。
同人活動は趣味でやっていることだ。
趣味=楽しみとして愛好する事なのに何故ああしろこうしろ強要されなきゃいけないのか。
結局はそれを生業にしている人間が趣味の活動の場で市場の原理を押し付けているだけではないのか。
気軽な「描きますよ」が怖い理由
実際に創作コミュニティの中で装画やゲスト原稿を依頼した経験がある人なら分かると思うが、挿絵やゲストの依頼をすることは単純な話ではない。
わたしは過去に「友達だから」という理由で助け合いした結果、さまざまなトラブルを経験してきた。
イベントのたびに呼び出されて漫画の仕上げを手伝わされる、パソコンを買うから買い取ってほしいとワープロを高額で押し付けられる、コミュニティ内の人間関係を壊される、毎日のように深夜に何時間も電話につき合わされる、アルバイトを投げ出し押し付けられる。
更には、イベント参加申し込みをしていないのに一般参加で来て突然スペースで委託を頼まれたり、さして仲がいいわけでもないのに家までついて来られたりしたこともある。
こうした経験をすると、「友人だから」「知り合いだから」という理由で制作を依頼することの危うさを強く感じるようになる。
タダほど怖いものはない。
仮に好意で「描きますよ」と言われたとしても、作品理解やイメージの共有がうまくいかなければ、結局こちらが断ることになる。
しかしその断り方一つで人間関係が壊れる可能性もある。
小説の場合、キャラクターや世界観は文章の中で展開されるため、それを絵として再現するにはかなりの読解力とイメージ力が必要になる。
その能力がどの程度あるのか分からない相手に装画を任せることは、正直かなり怖い。
だからこそ、小説サークルが自分で装丁を作ったり、AIなどのツールを使ったりすることは、単なるコスト削減ではなく、人間関係のリスクを避けるという意味もある。
わたし個人の背景
ちなみに私はもともと漫画を描いていた人間だ。
しかも美術系の学校を出たあと印刷会社でレイアウターや写植機オペレーターとして働いていた。
(ちょうど現場にDTPが普及し始めたあたり)
その傍ら、漫画を描いて賞をもらったり、美術コンペに出したり、百貨店から仕事をもらったりしていた。
つまり漫画制作、グラフィックデザイン、印刷工程のどれも実際に経験している。
だからこそ今回のAIを巡る議論を見ていると、制作の実態とかなりズレた雑な話が多いと感じてしまう。
AI利用の線引きの曖昧さ
今回のコミティアの規約改訂においては、AI生成についての記述が問題視されている。
小説本の表紙に生成AIを用いることについてはピンポイントで取り上げているのに対し、漫画やイラストの制作の工程でプロット整理・ネーム整理・構図の検討などにAIを使うことについては特に触れられていない。
創作の核心部分には使って良いのに、小説はパッケージである外側の表紙だけ強く規制するという支離滅裂、本末転倒な内容になっているのだ。
制作ツールにはすでにAIが組み込まれている
そもそも、現在の漫画やイラストの制作環境では多くのツールに既にAIは組み込まれている。
例えばCLIP STUDIOにもAI技術を利用した機能は存在する。
Adobeのアプリケーションやcanva/affinityといった画像編集ソフト、スマートフォン、カメラにもAIが組み込まれている。
つまり「AIを使わない制作環境」そのものが、すでにほとんど存在しない。
今回の規約にはこれについて何も言及がない。
これはフェアではないと思う。
「学習=盗用」という単純化
またAIを巡る議論では「学習元がクリーンではない」「著作権侵害だ」という主張もよく見かける。
しかしこの問題も、かなり単純化されて語られているように見える。
生成AIは画像を保存して再配布する仕組みではなく、膨大なデータの特徴を統計的に学習する仕組みだ。
もちろんデータセットの問題や法的整理は必要だが、「学習=盗用」と単純に言い切れるものでもない。
そもそも創作という行為自体が、既存作品から学ぶことの積み重ねでもある。
美術教育でも模写は基本的な訓練として行われるし、漫画やイラストの世界でも既存作品の研究や影響は当たり前に存在する。
それにもかかわらず、AIだけに「完全にクリーンな学習データ」を求める議論は、絵を描く側が恣意的に問題を単純化しているように見える。
そもそも現在のインターネット環境では、検索エンジンやSNSのアルゴリズムも機械学習によって動いている。
作品をオンラインに公開するという行為自体が、すでに機械による解析や学習の対象になっている。
にもかかわらず、SNSを使い、オンラインでさしたる対策もせず公開しているのを多数見かける。
生成AIの学習を防ぐために、作品に透かしやノイズを入れるべきだという意見も見かける。
しかし画像解析の技術は、透かしやノイズのような情報を分離し、元の画像の特徴を抽出すること自体を目的とする分野でもある。
実際、画像処理ではノイズ除去や特徴抽出は基本的な技術であり、透かしを入れたからといって学習が完全に防げるわけではない。
つまり問題は「防げるかどうか」という単純な話ではなく、AIと創作の関係をどのように整理するのかという、より根本的な議論になるはずだ。
著作権についての整理
まず前提として、現在の日本の著作権法では、AIの学習行為そのものは原則として違法とはされていない。
日本の著作権法には「情報解析」(第30条の4)という規定があり、著作物に表現された思想や感情を享受する目的ではなく、データ解析のために利用する場合には、一定の条件のもとで著作物の利用が認められている。
もちろん個別のケースによっては議論の余地がある部分もあるが、少なくとも「AIが学習すること自体が直ちに著作権侵害である」という理解は、現行法の整理とは必ずしも一致していない。
また著作権法では、作品の「アイデア」や「画風」そのものは保護の対象ではなく、保護されるのは具体的な表現である。
そのため、既存の作品に意図的に依拠して具体的な表現を再現した場合には問題になり得るが、単に雰囲気や画風が似ているというだけで直ちに著作権侵害になるわけではない。
この点も、現在のAI議論では十分整理されないまま語られている場面が多いように見える。
AI生成は思ったほど簡単ではない
そもそも生成AIで絵を作ること自体、決して簡単なことではない。
言葉を尽くして説明しても平均的な像になりやすく、キャラクターの背景や関係性から生まれる雰囲気を作ることはあまり得意ではない。
キャラクターの目線が不自然になったり、影やシワだけが過剰に演出されることも多い。
また、下書きのような捨て線や不自然なノイズが残るなどして筆致が再現されない。
キャラクターの背景を汲んだ雰囲気などは再現されない。
AIは一般的に見てのきれいな絵に近づけることはできても、特定の作家の作風や制作過程そのものを再現しているわけではない。
また、スタイライズされた表現や象徴的なビジュアルの方が出しやすい。
そういった特性について言及がないのは、やはり検証もせず印象で語っているからではないのか。
AI議論の解像度
AIについて語るのであれば、少なくとも一度は触ってみるべきではないだろうか。
「絵は絵師に描かせてAIに文字入れさせればいい」といった意見も見かけたが、表紙の文字組みはグラフィックデザインの作業であり、AI画像生成が得意とする領域ではない。
実際に使ってみれば、日本語の文字は簡単に破綻することがわかる。
こうした制作の実態を踏まえないまま議論が進んでいる場面も多く、AIというものに対する解像度の低さを感じることも少なくない。
そもそも生成AIは魔法の装置ではない。
あくまで道具の一つであり、使い手の意図や理解がなければ望んだ結果を得ることはできない。これは絵筆やカメラ、DTPソフトなどと同じで、道具そのものが作品を作るわけではない。どんな道具であっても、最終的に作品の質を決めるのは使う人間の側である。
技術の歴史を知らないAI論
生成AIをめぐる議論を見ていると、制作技術の歴史をほとんど踏まえていない意見が少なくないと感じる。
創作や制作の技術は、これまで何度も大きく更新されてきた。
印刷の世界でも、かつては写植や版下制作といった専門技術があり、それを扱う職人の技能によって紙面が作られていた。写植機や電算写植、版下制作といった工程は高度な専門技術であり、それを扱う人間の経験と技能によって印刷物は成立していた。
しかしDTPの普及によって制作工程は大きく変化し、従来の技術や職種は急速に姿を消していった。
当時も「素人がレイアウトをする時代になった」「職人の仕事が奪われる」といった批判は少なからず存在した。しかし結果として制作環境は拡張され、より多くの人が表現に関わることができるようになった。
わたし自身は1990年代に写植や版下制作の現場に関わっていた。手動写植や電算写植、版下制作など、現在ではほとんど使われなくなる過程と描画ソフトウェアならびにグラフィックアプリケーションの変遷を実際に経験している。
その後DTPの普及によって制作環境は急速に変化し、写植や版下といった技術は急速に衰退していった。しかしその変化によって制作が不可能になったわけではない。むしろ制作手段は大きく拡張された。
生成AIもまた、こうした技術更新の延長線上にあるツールの一つにすぎない。
新しい技術が登場するたびに、それまでの技術を守ろうとする反発が起きるのは珍しいことではない。しかし、技術の更新そのものを否定することが創作環境を守ることになるわけではない。
問題になるのは技術そのものではなく、それをどう使うかという人間側の問題である。
技術の問題ではなく議論の質の問題
AIの是非を議論すること自体は必要だと思う。
しかし今回のコミティア規約の議論を見ていると、AI技術そのものよりも、むしろ議論する以前に解像度の低いことの方が問題なのではないかと感じる。
検証を踏まえないまま「AIだからダメ」という線引きだけが先に来てしまうと、議論そのものが空回りしてしまう。
AIの問題は単純な賛否で整理できるものではない。だからこそ、もう少し解像度の高い議論が必要なのではないだろうか。
大事なのは、創作者が自分の中にあるものをどうアウトプットするかだ。
その表現の手段やあり方を、普段小説同人誌に目を向けていない絵師やイベント主催がジャッジするべきではない。
場を選ぶ、場を作る
漫画やイラスト中心のイベントでは絵がなければ軽んじられる。
ZINEイベントや詩歌やエッセイの島には、アートブックのような本が並ぶ。
それ自体が悪いわけではない。
そういう文化なのだと思う。
ただ、その中で小説という形式はどうしても浮いてしまう。
だったら、小説は小説のイベントをやればいい。
物語を読むこと、書くことを中心に据えたイベントがあってもいいはずだ。
企画している「ものがたりマルシェ」は、そういう場として考えている。
そしてその場では、作品の形式によって参加者を排除するつもりはない。
一次創作であっても、二次創作であっても、ナマモノであっても構わない。
表紙が文字だけでも、写真でも、AI生成画像でも構わない。
大事なのは、その作品にどんな物語が込められているかだ。
創作者が自分の中にあるものをどうアウトプットするのか。
その自由を尊重する場でありたいと思っている。



私もAI活用に関する議論は基盤が未成熟であり、疑問が多いと考えています。 使用の是非ではなく、それで何を表現したのか。 どれほど楽に早く作ったかではなく、どれほど苦労して作ったかでもなく、なぜそれを作らなければならなかったか。 自らの価値と意味に向き合い、創作としての本質に向き合わ…
同感です。 何故それ(生成物)が必要なのか、それで作品の何を表現或いは象徴したいのかが重要であって、今の段階では議論のスタートにすら立てないといった感覚があります。
コメントする人間全員捨て垢なの何w 言いたいことがあるなら真面目にやってください