野崎まど「小説」は小説を読んで読んで読み続ける我々の救いの小説である(ネタバレを含む)
野崎まど『小説』の読後に残るものは、単なる違和感や苦しさではない。むしろ最終的に提示されるのは、「読むことは救いになりうる」という、静かだが確かな肯定である。
*ここから野崎まど『小説』のネタバレを大いに含みます
物語は、芥川龍之介と一人の女性が並んでいる場面から始まる。そこで語られる言葉や空気はどこか現実離れしており、読者はこの場面を完全には理解できないまま、物語の本流へと進むことになる。この冒頭は説明を拒む断片として置かれ、意味は保留されたまま残される。
やがて物語は、小学校六年生の内海集司と外崎真の出会いへと移る。二人は読書を通して結びつくが、その関係は最初から対称ではない。内海は膨大な量の本を読み、深く理解する力を持ちながら、それを言葉として外に出すことができない。一方の外崎は、読書経験こそ乏しいものの、言葉を物語として立ち上げる才能を持っている。この差は成長とともに広がり、やがて二人の間に埋めがたい溝を作っていく。
学校の近くに著名な小説家が居ると聞き不法侵入の末知り合うことになった髭先生の家は、二人にとっての居場所となる。その地下には、当時「孫」と呼ばれていた無口な少女が存在している。この時点では、その少女は奇妙な存在ではあっても、物語の核心に関わる人物としてはまだ意識されない。読者にとっても、内海や外崎にとっても、ただそこに「いる」存在として描かれる。
中学、高校、そして大人へと成長するにつれ、内海と外崎の差は決定的になる。外崎は小説を書く才能を開花させ、評価を受けていく一方で、内海は読むことしかできない自分に苦しみ続ける。大人になった後、外崎は生活能力を欠き、内海がその生活を支える役割を担うようになる。内海は小説を書くことはできないが、小説が書かれる環境を維持する存在となり、文学のすぐそばにいながら、その中心には立てない人生を送る。
外崎が小説で賞を受賞した際、彼の前に現れる編集者の女性がいる。この女性もまた、どこか現実感に欠けた存在として描かれ、強い印象を残すが、その正体はこの時点では明かされない。
物語後半、外崎の失踪をきっかけに、内海は現実的な探索ではなく、これまで出会ってきた人々の「言葉」を集め直すことで、現実から切り離された世界に踏み込む。
寄合則世は、小学校時代の理科教師であり、後に物理学者となる人物。
「宇宙は拡散して散逸するが、それとは逆に、集合して秩序化する流れも存在する」
という言葉は、世界が意味を失う方向だけでなく、意味を集積する方向も持つことを示している。
息営一は、校外学習で出会った東京国立博物館の学芸員であり、
「生命は内と外を区別する境界を持ち、外界から多くの物質を取り込みながら今日まで続いてきた」
と語る。人間は外部を内側に取り込み、変換・蓄積する存在であることを示唆する。
田所家蔵は、髭先生の顧問弁護士であり、
「人間が一番欲しいのは心の中のものだ」
という言葉を残す。
洞木鏡介は、警部補であり、髭先生の取材相手でもあり、
「嘘は人の内側にあるものだ。内側にしかないものだ」
という言葉を残す。
これら四人の言葉が揃ったあと、内海のドッペルゲンガーから外崎と髭先生の居場所が記された地図とパスポートが内海のもとに届く。
内海は現実から切り離された世界へと足を踏み入れる。そこで初めて、ニアム・シン・オールという存在がはっきりと姿を現す。そしてこの瞬間、物語の中に散りばめられてきた断片が一気に結び直される。
ニアム・シンオールは、物語冒頭で芥川龍之介と共にいた正体不明の女性であり、髭先生の家の地下で「孫」と呼ばれていた少女であり、外崎が賞を受賞したときに現れた編集者の女性でもあった。同一の存在が、時代と姿を変えながら、常に小説と作家のそばに立ち会っていたことがここで明らかになる。
この回収によって、冒頭の芥川龍之介の場面は初めて意味を持つ。芥川龍之介もまた、ニアム・シンオールのいる世界に触れた作家の一人であり、小説という「意味を蓄積する領域」に到達した存在だったのだ。物語の始まりと終わりは、ここで一本の線として繋がる。
さらに、先ほどの4人の言葉に加えて、ニアム・シンオールによってアイルランドの聖地に導かれた外崎誠が言った
「意味とは、外から見えないもの。内包された性質。」
という五つ目のキーワードとニアム・シンオールにより時空が歪んだ世界に居たことを身を持ってわかったことで(ドッペルゲンガーと思われていた内海は8日後の世界から来た内海であることもここで判明する)、髭先生の正体が50年後の外崎真であることが明かされる。戸籍を偽り、嘘を生きながら小説を書き続けてきた外崎の人生は、「意味を増やすための嘘」としての小説そのものを体現している。しかし、この思想は書く者だけの特権として提示されない。
物語の終盤、内海集司は「読むだけではだめなのか」という問いに対する、自分自身の答えに辿り着く。小説は外側の現実のためにあるのではなく、人の内側に意味を増やすために存在する。読むという行為そのものが、確かに意味を生み、蓄積していくのだという理解である。
最後に、髭先生が内海集司の人生を書いた小説が出版される。それは大きな成功を収めることはないが、内海が働く書店では平積みにされる。そして語られる
「読み終えたときには、すでに多くの意味が精神へ運び込まれている」
という言葉は、この『小説』を読んできた読者自身にも重なっていく。
すべてを読み終えて振り返ると、『小説』は、書く才能を持つ者の物語である以上に、読むことによって意味を増やし続ける人間の物語であることが分かる。ニアム・シンオールは常にその傍らに立ち、小説が生まれ、読まれ、意味が蓄積される瞬間に立ち会ってきた存在だった。内海集司が辿り着いた答えは、そのまま読者にも開かれている。読むことで意味が増えたなら、それだけで人は救われている。
野崎まど『小説』は、その肯定を、周到に張り巡らされた構造によって最後に静かに示す作品だと思った。


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