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人間に成ろうとしたのです +α

もう金曜日か……

最近、仕事の中でA地点からB地点、B地点からC地点に電車移動する時間が爆増していまして、その影響で一気に日が進むのが速くなった感じがします。
なぜそう感じるかというと、視界に映ってきた情報の種類が圧倒的に増えたからです。一応説明しておきましょう。

この1週間でも10か所くらい、しかも東京のあちこちの街に降り立ち続けているので、ザッと頭の中で思い返すだけでもすごい量の情報が脳に詰まっている。
あの街は駅の構造がこうなってて、エスカレーターが全然なくて昇降がまあまあ大変で、出口そばにすき家があって、で別の街はトイレがこうで信号の音色がこうで……。
もちろんリアタイではそんなこといちいち意識しないが、でも思い返したら全部思い出せるということは、脳のストレージに景色の画像が全部ちゃんと入っているということ。
ということは、脳に入っている短期記憶のボリュームが増えているということ。
ということは、通常であれば2-3週間かけて蓄積するはずの記憶量を1週間で溜めているということ。
ということは、実際には1週間しか経ってないのに記憶量は2-3週間あるので「日が進むのが速い」と感じるということ。
お分かりいただけましたでしょうか。

さて、電車というのは実に厄介な場所です。

極めて公共性が高く、一定の規則に従って行動する必要がある。無軌道に動いて良い場所では基本ない。動いて良いタイミングと動かない方が望ましいタイミングがあったり、細かくいろんなコードがある。
しかし、各々の目的地は異なるので、それぞれ異なる規則に従って行動する。降りたい人は降りるときの規則に従って降りようとするし、降りない人は当然降りようとしない人(乗り続ける人)としての規則に従う。規則はあるけど複数の規則があって、規則間を調整する機能がどこかにあるわけではないので各々の意志でコントロールしなければならない。
だが最早、電車というのはあまりにも日常的で取るに足らない時間です。たとえば免許更新センターとかみたいに、公共性が高いが慣れ親しんでいるわけではない場所では、一応みんな規則に即した行動を取る「意識」を大なり小なり持ち合わせている。でも電車は毎日毎日乗るものなので、そういう意識をいちいち持たない。
しかも匿名性が高いというか、構成員同士に共通項がほとんどない。たとえばライブ会場みたいに、みんなが一定の目的・方向を共有している集団ではない。市役所みたいに同じ手続きをしたい人同士の集まりとかでもない。ただただ、各々の場所へ移動したい人同士が無理やり同居しているだけ。赤の他人の中でもさらに真っ赤っかの他人。周りの人に何一つ興味が湧くわけもないので、調整にいそしむインセンティブがほとんどない。

公共性が高く、規則に従って行動しなければならない。しかし規則が複数あるため規則同士がぶつかりやすく、かつ規則の存在をわざわざ意識する必要性に乏しいのでより一層ぶつかるリスクが上がる。そしてそもそも、何の共通項もない真っ赤っかの他人同士が信じられないくらい近い距離感で同居し続けている。
こんなに、こんなにも厄介な場所があるでしょうか。

そういうわけで私は電車空間をかなり厄介なものと認識しています。
厄介なものであるということは、それなりに神経を研ぎ澄ませておかないと誰かに「ぶつかられる」可能性があるということです。
ぶつかられるというのは物理的な衝突も含みますが、よくあるのはちょっとした心理的衝突です。心理的衝突といっても真っ赤っかの他人なので別に言い合いとかになるわけでも当然ない(まずない)んですが、でもなんかあるじゃないですか。今この人イラっとしたな、みたいな景色が。無数に。
誰かの「不快」スイッチを自分のちょっとした行動で押すことになって、その結果誰かの「不快」という念がぶつかってきたらイヤだな、と思う。
こういうのを極力回避するために神経を遣うのは、私にとっては全然払えるコストです。ぶつかられるより神経を遣う方がはるかに楽だから。

この前は、私が電車に乗って立った場所の真ん前に、手すりにぶら下がったビニール傘がありました。
ビニール傘のそばの席には誰も座っていません。
つまりこれは忘れ物です。

まず説明が面倒くさいんですが、なんで席が空いているのに座らないかというと、これも心理的衝突回避の工夫のひとつだからです。
私がその電車に乗り込むタイミングで、後ろに並んでいた人がちょっと前のめりにせかせか歩いてきて、前の人を抜かすか抜かさないか絶妙なスピードと距離感でグッと電車に乗り込んできました。
この人は、前の人を多少押しのけてでも先に電車に乗りたい、おそらく席を確保したいという人です。規則を軽めに破ってでも席を確保したいという人がいて、もし自分が席に座るモーションをした時にその人もその席を狙ってきたら、相手はさらに一段階ギアを上げてグッッと私を押しのけてでも座りにかかるでしょう。その瞬間において、刹那、ピーーーンと張りつめた空気、どっちが席に座るんだという駆け引きが始まってしまうでしょう。おそらく相手は譲りたくないので、私に敵意の種みたいな念をぶつけてくるでしょう。
たかが席に座るかどうかでそんな負の感情をぶつけられたら全く割に合いません。なので私は、その人の動きを目撃した瞬間に、「最初から座席に座ろうとしない」人を演じます。ぬっと歩いて、ぬっと邪魔にならないところに立つ。手すりに摑まる。手すりを摑むということは、座る意志がないという表明。先に白旗を上げておいてあげるということです。
いや実際はわからないんですが、でもなんかそういう衝突リスクを感じるわけです。

で結局その人はお目当ての席に座って、なんだかんだ人が出たり入ったりするうちに結局席が空いたりするわけです。
でも一度「最初から座席に座ろうとしない人」を演じ切ってしまった以上、理屈的にも気持ち的にもいまさら「じゃあやっぱ座ろうかな」という別演技を演じ直すのはあまりにも面倒。
だからそういう場合はそのまま立っちゃう。座れる状況でも立っちゃう。最初に決めた方のキャラで演じ切った方がラクだから。座るよりも演じ続ける方がラク。
席空いてるのに立ってる人っているじゃないですか。あれはそういうことです。少なくとも私に関してはそういうこと。

そして、そこで気づきます。私の目の前に傘がある。そのすぐそばに座っている人がいない。
周りの人からすれば、これは私の傘に見えることでしょう。だってその傘に一番近いのは私で、わざわざ自分から遠い場所に傘をぶら下げておく人なんかいないんだから。
でもこれは私の傘ではありません。誰かが忘れたものです。

私がこのまま電車に乗り続けて、目的駅に着いて降りる時が来たら、当然、傘は放置するはずです。だって私のじゃないんだから。
でも周りからすればどうでしょうか。明らかに、私が傘をぶら下げていたのをコロッと忘れて降りていく人に見えるでしょう。
もしそれを目撃して、かつほんの少しの善意を持ち合わせている人がいたらどうなるでしょうか。私に声を掛けるでしょう。「傘、忘れてますよ」と。でも、繰り返しますがそれは私の傘ではない。「あ、すみません。私のじゃないです」って、言わなきゃいけないでしょう。善意を、踏みにじったわけではないんだが、でも相手からすれば「は?」ってなるような微妙な一瞬の隙間があって、かといって私にしてみればわざわざ立ち止まるほどのことでもないので、流れでそのままドアから外に出るでしょう。
善意の人は傘を持って電車に取り残され、無情にもドアは閉まっていくでしょう。

この一連が起きうる状況が非常にイヤだったので、私は時間をかけてゆっくりゆっくりと傘から離れていきました。
傘からほんの少しずつ確実に離れていくことで、傘と無関係である人間に成ろうとしたのです。


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