カラスのように賢い
我々はたとえる。
機嫌が悪くて、イライラしている人がいる。何かが気に食わないのかもしれない。いつもと違いあたりが強く、見るからに荒れているのがわかる。それを遠目に見ながら、「冬の日本海のように荒れているね」と言ったりする。そう、たとえるのだ。
丸太の周りを走る回る子供がいるとする。「バターになるよ」と言ってしまう。たとえだ。「メリーゴーランドみたい」や「回転木馬みたい」でもいいかもしれない。メリーゴーランドも回転木馬も一緒なわだけれど、たとえるわけだ。バターのたとえは、さらに一歩踏み込んだたとえだ。
もっと長いたとえもある。
おでんを食べて熱さに悶える様子を、「ケチャナイダー草原のハラペラス家が代々受け継ぐトリニティリアを太陽にかざした時に浮かび上がるトゥルイヤー模様のタンテとハンテのパパッライムがグリーゴンファインした時かよ」とたとえてもいい。一つも意味はわからないけれど、長いたとえもあるということだ。つまり、我々はたとえる、という話だ。
動物にたとえることも多い気がする。
大きなものを見た時に「ゾウのように大きい」とたとえたり、かわいいものを見た時に「ネコのようにかわいい」とたとえたりする。他にも「ヘビのような目」と言ったり、「犬のように従順」と言ったりもする。
知人と話をしていた。
「千代田線から東京駅に行くなら二重橋前から歩けばいいよ」と私が言った。すると知人が「カラスのように賢い」と返した。たとえだ。私の賢さをカラスにたとえたのだ。
ちょっと待てよ、と思う。
確かにカラスは賢い。そこに異論はない。全く異論はないのだ。たとえようがないほど異論はないのだ。問題は私はおそらくカラスより賢いことなのだ。普通の状態でカラスよりはおそらく賢いのだ。
普段の私がカラスより賢くなければ、「カラスのように賢い」でいいはずだ。でも、私はカラスより賢いのだ。クルミを割る時に車道に置いて車に轢いてもらい割る、ということをしない。私は賢いので、金槌を使うし、なんなら最初から割ってあるクルミを買う。なぜなら賢いからだ。
ブタは清潔と聞く。
でも清潔感のある人に「ブタのようだね」と言うと、おそらく悪口に取られる。ブタはなにも悪くない。私はブタが好きだし、子供の頃ブタを飼いたいと思ったこともあるけれど、「ブタのようだね」は悪口に聞こえる。なぜかはわからないけれど、そう捉えることができてしまう。
動物にたとえるのは難しいのだ。
カラスが脳裏から離れず、その後の知人との会話はあまり覚えていない。そして、カラスを見る度に「俺と一緒か」と思うようになった。そのうち、私は飛べるかもしれない、そうカラスのように。



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