美河道五十三次、三十四番目の宿である吉多は決して遠くない。一刻半(およそ三時間)もあれば着くだろう。距離にして、およそ二里半(十キロ強)。

 時刻は明六つ。ちょうど、夜明けから間もない頃である。

 旅はなるべく早いほうがいい。旅籠に早くつかねば、飯に食い逸れることもある。

 柚丸は宿場をさっさと抜けていく。


 ところで。

 おおよそ、現代における夕食は、電灯という大変便利な照明器具のお陰で安全に調理できる。

 しかし、この時代、灯りが火に限られていた頃、その心もとない行燈や龕燈の灯りで調理をするのはたいへん困難である。

 そのうえ、火事が出ればとんでもないことだ。

 竜吐水(=江戸に実在した、消防車のご先祖様とも言える原始的なポンプ車)もあるが、こんなもの屁の突っ張りにもならない。小火を消すくらいがせいぜいである。

 ゆえに火と喧嘩をするように、燃え広がる方向にある家屋をぶち壊していく破壊消防が基本となる。まさに、「火事と喧嘩は江戸の花」。火事と殴り合うような様を、そのように言ったのだろう。


 出火は、悪意の有無かかわらず重罪である。だれも、不用意な出火で見せしめに首を撥ねられたくはない。まして、鋸挽きなど――。


 ゆえに、旅籠に入る時間は早くなくては、風呂にも飯にもありつけない。よしんば飯は食えるかもしれないが、冷や麦に冷えた汁をかけた雑炊がせいぜいだ。

 なので、おおよそこういった時代では、明るくなる前に宿を出て、夕方になるか否か、はやければ、午後二時頃には宿に入るというのが一般的である。


 さて――。


(けっ、商家の親子か? 馬に乗ってやがるぜ)

 三宝荒神という乗り方で、馬に乗る親子を見た。

 一人が馬の背に、そして左右に出っ張った木の枠に二人の子供が乗っている。主人は歩いており、嫁御は、ゆうがに馬の背で夏みかんなんぞ剥いている。それを三つに割って、己と、二人の息子にわけている。

 下男が担ぎ棒に、親子の荷を背負っていた。


(旅くらい一人でできるだろ、面倒くせえな、人間ってのは)

 柚丸には親というものがよくわからない。それ故の嫉妬だと認めたくないし、――自覚さえ、していなかった。この感情の出どころを、柚丸はまだ、明確に言語化できない。


 自分にも親がいた事は確かだ。己は狐である。土の中から生えてきたわけではない。

 しかし覚えていなかった。

 生きるため、食うため。狐は夏になる頃にはさっさと巣立たねばならない。遅くとも、秋には必ず。

 柚丸は追い立てられるように、独り立ちさせられた。――それはなんとなく、覚えていた。

 恨んではいない。むしろ、そのおかげで今があると思っている。だから感謝している。


 けれど、寂しい、とも思う。

 三年。人間と接した。ひょっとしたら、不要に接しすぎたのかもしれぬと、そう思うこともある。


 柚丸は込油宿、九町と三十二間ばかりを抜けた。

 昨日の騒動など、まるでなかったかのようであった。みな、双川で起きた反乱の方に関心が向いている。

 無理からぬことか。悪漢が五人打ちのめされたことと、戦さという、確実な死、生活に直結する問題とでは、まるで違う。


(人の命って、ちゃんとがあるんだな)

 柚丸は平然とそのように思って、街道に出る。

(あの親子も、きっと、その値打ち以上には生きられやせんのだろうな)

 ――人の世では、天に与えられた値打ち以上の生を、許されぬ。

 柚丸は、何故かそう思えてしまった。




 戦灰暦五八一年、葉月の十日。

(この暑さはどうにかならんのか)


 柚丸は、今は人間の小僧の出で立ちであるが、妖狐である。つまり狐だ。

 本性はもこもこの毛に覆われている。もちろん今は夏毛だが、だとしても、ときに己の毛皮が鬱陶しいくらいに感じる。それくらい、夏は嫌いだ。


 とまれ――。

 この和深、当然だが科学文明などは、現代日本とは比にならぬほど未発達。電気のなどはない。

 江戸幕末にはすでに電信の基礎技術が幕府にもたらされていたとも言うが、和深には、そのようなものはなく――。

 しかし、雷獣に代表されるように、いかずちを操る妖術はある。

 そもそも、実世界の江戸にはついぞありえぬ妖怪もいる。

 が、とにかくヒートアイランド現象やらなんやらとは無縁の世界であった。


 けれど、それでも暑いのだ。夏は。


(うんざりだ、くそっ)

 愚痴ばかりが胸に湧く。

 街道に出て、一ト切ひとぎり(線香が一本燃え尽きるほどの時間。ここでは、十分から二十分とする)。

 あんまりにも暑いものだから、柚丸はつい、横着にも駕籠舁きに声をかけようとして、

(いかん、何をしている)

 自制した。

 ここまでくると暑さとの戦いというよりは、己との勝負である。


 駕籠舁きの運賃は、どこをゆくかで変わる。

 このように平地の街道ならば、一里四百文が相場である。しかし、大抵は交渉次第、相対賃金である。

 ときに山越えをゆく「ぶっ通し」なんぞ、余裕で一両はかかる。この場合、用いるのは金持ちだけだ。そして、大抵は神酒代に一貫から二貫(=いわゆるチップのこと)は支払われるのが普通だった。

 大工の日当が五百から六百文と考えると、かなりの割高である。


 ゆえに、柚丸はこんなところで大金を失うわけにはいかず、どうにか駕籠舁きの誘惑を断ち切ると、首を振って歩き出した。


「ええい、これも修行だっ」

 柚丸は、頬をばちんと打った。笠の緒をしめ直す。

 追い越していく男が「何だあの餓鬼」とぼやいていたが、柚丸には聞こえていない。


 なるべく、並木の木陰を歩いた。

 直に日に当たるより涼しい。加えて、地面から日差しが反射しないから、足元も涼しい。

 そのような知恵は、狐として生きていた頃に学んでいる。

 皆が思うほど、鳥獣の類は間抜けではない。恐ろしく賢く、そして、生きる術に貪欲である。


 一里と半里ほどは来ただろうか。

 道が、やや、狭まっている。左手には丘がある。右手には突出した岩があった。

 そしてその間に通っている街道の前で、引き返すものがある。


「どうした」

 柚丸が、引き換えしてきた男――さっき、己を追い越した男だ――を捕まえて問うた。

「変な連中れんじゅうが、通行税を取り立ててやがんだ」

「はァ? 上様のご命令ってわけじゃねえんだろ。諾々と従う理由になりゃしねえよ」


 美河国、その領国内では原則として通行税など取らない。一部の関こそあれ、こんなところに関所などないはずだ。立てる理由が、ない。


「ほら、反乱があったろ。その煽りさ」

 そういうことか。得心がいった。

落人おちゅうどが集まっているのだ」男はそう言って、首を振った。

「徳河様は何もしねえのかよ」

「知らんよ。俺はただの彫り師。ほら坊主、離れるぞ。目ぇつけられちゃかなわねえ」

「はァ? おいこの暑い中戻るってのか! 冗談じゃねえよ」

「馬鹿言え、おめえみてえな餓鬼に何ができんだ。その、立派な飾太刀をみすみすくれてやるもんさ。おらっ、戻るぞ」


 柚丸は、意外なほど力が強い、若草色の着流しの男に襟首を掴まれた。

「おいこらっ、離せっ」

「やかましい、人の親切を無碍にするな。いいからっ、殺されちまうぞ」

 結局、抵抗虚しく、少し戻ったところの茶屋まで引きずられることになってしまった。


(くそっ、盗賊が、なんだってんだ)

 柚丸は、不遜にも、

 ――俺のほうが強い。

 そう、思って疑おうともしていなかった。

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