壱之章 野心、猛り疾く
壱
戦灰暦五八一年 葉月の九日
名はない。今はまだ。必要ない。
名という概念など、己にはなかった。いちおう、世間的には狐という生き物らしいが、それは己一個ではなく、己と同じ連中皆を指すらしい。
だが狐と呼んでいるのも人間どもの勝手である。自分は自分、己は己であり、それ以上でも以下でもない。
しかし、季節の巡りが十を数えたとき、狐に変化が生じた。
狐にとっての
その十年の間に、狐は化ける術を身に着けていた。 大地に巡る龍脈の気がそうさせたのか、彼には妖力が熾り、御霊と骨身、血肉に深く根付いた。
人に化けて、彼は麓の村へ降りた。そこで自学した。
寺子屋に忍び込んで、梁の上で人間の子供らが喋っているのを真似して言葉を学び、算術というものをを知った。
道場稽古を見様見真似で学んだ。剣は完全に我流である。強いて言えば、山と川、それから海が己の師匠だった。
どうもこの村は大塚というらしい。己が住んでいる山は、ダイダラボウが食らった魚の塚であるという。その言い伝えから、大きな塚の山の村ということで、このような名前にしたと、村の老人から聞いた。
己が、狐という生き物であることもそのとき知った。ずっと昔は
とにかく。
狐は、人の世の生き方を知った。そして、そこで生きるには名がいるということを学んだ。
己の名を
氏は本来武士が名乗るものだが、実際のところ、村の連中はそこで通用する通り名を持つのが普通であり、これに関して、土地を預かる武士も黙認していた。
そうでもしなければ、同名の誰かを示すときに不便であるからだ。
故に、「芝探しがうまい太郎」であれば、「芝分太郎」とか、「野分太郎」のようになる。
無論、大々的に氏を名乗りあげるのはよほどの粗忽者か、世間知らずであるが――それはさておき。
そういう生活が二年と少し続いて、彼は、次第に功名心と出世欲を持ち始めた。
周囲の
とうに過ぎた先のことばかり考えても仕方ない。
後にどうなるかわからないことを悩んでも仕方ない。
泣き上戸のごとく何百年も前のことを嘆き、百年先のことでくよくよしている連中なんか、この時代、生きていけない。
そんなことは、わかっている。
しかし柚丸は、その「生き方」を、どうしたって、人間のように素朴なものへ丸くすることができなかった。
――俺は、この身一つでどこまでいける。天下を取れるか。
――この
――惰性で生きてきたのか? そのようなこと、たとえ事実であろうとも、到底認められることではない。
ある晩、山で木を炙って木剣を焼きしめているときに、体の、
その強烈に狂い踊るような野心は、すぐに腹の底から全身を巡り、赤々と、血流を沸騰させた。
気づけば滅茶苦茶に木剣を振り回して、咆哮していた。
なぜこんなに、突き上げられる。何がそうさせる。
――ここにいてはならぬ。なにかをせねば。
理屈だろうと屁理屈だろうと、そんなものは、いやでも他人がこじつける。
そうだ。ならいっそ、理由なんてものは必要ない。
せっかく生まれたのだ。せっかく生きているのだ。
先細り、無様に老いさらばえて朽ち果てるくらいならば。
いっそ、好きに、自在に。己の
そう思うと、居ても立っても居られない。
柚丸はその夜には荷物をまとめた。そして、故郷の村と大地に別れを告げると、一番鶏がなく頃、旅立った。
奇しくもそれは、葉月の九日。
己が歳というものを自覚し、出生日と定めた日である。
柚丸、十三歳。
夏が吹き付ける、快晴の夜明け。それが、旅立ちの朝であった。
生国は
故郷の
高潮で宿場が飲まれるという手痛い経験から、やや、内陸側に整備した街道を敷いている。
その街道へ合流する細道は、さながら、河の細流のように網目のごとく、蜘蛛の巣のごとく伸びていた。
女郎蜘蛛の道などとも言われる、美河の道である。
それが美河という土地の物流、すなわち経済と軍事力――輸送力を示していた。
旅には困らない、行軍にも困らない。
敵に押し入られたら、各地の橋を落とし、川を天然の水濠として戦う。
これが、百戦錬磨の戦術の一端である。
踏み固められた程度の道の脇には草花が自在に生え、夏風に揺すぶられて濃いみどりの香りを振りまいている。
菅笠を被った童が、腰に木剣を差し、歩いていた。武者修行の真似事なのか、兵法者を気取っている近場の悪戯小僧か。
いずれにしても、十三かそこらである。通り過ぎる連中は挨拶を投げかけ、童もそれに応じる。
時代がそうさせるのか、それとも男とはそういうものなのか、棒切れを片手にすると、何故かそれを振り回したくなるもの。
そこらの枝切れがなぜか天下の名刀に思えるし、妖刀にも、御神刀にさえ思えるのが不思議だ。
なんなら竹竿は最強の宝槍神槍たりえる。
そういうものだ、これくらいの年頃の、和深男児は。
この男子、――すなわち、今朝旅立ち、この道をゆく柚丸もまた、その手合である。
己の手で作った木剣。ありふれたものだが、これが柚丸にとっては無二の最上大業物であった。
襲いかかってこられれば、柚丸は一顧だにせず叩き伏せるだろう。命を奪うこともためらうまい。
仕合を申し込まれれば喜んで受ける。
だから、まずは木剣を差すのだ。欲を言えば真剣が欲しかったが、そのような伝手も、銭もない。
しかし。
なぜかはわからぬ。
男も女も、手に何かを持っていたい。それは誰かの手を握っていたいというものかもしれないし、鎚を振って鉄をぶっ叩きたいとか、筆を握って字を書きたいというものかもしれない。
いずれも柚丸には理解できる。己も物を作るのが好きだし、字を書くのが好きだ。道中記を書こうと、冊子と、矢立をわざわざ用意したくらいだ。
だがそうじゃない。
やはり、剣だ。刀だ。
堪え性がないだけかもしれない。だが、己が天下一、天下無双だと示したくなる。
古今比類なき男であると、和深に我が一刀ありと、叫びたくなる――。
興奮気味に歩いていると、眼の前を、一匹の狸がのそりと歩いて、横切っていった。
「なんだよ」
柚丸が凄んでも、狸はあくまで己の歩幅でのそのそ歩く。
「気が張ってると、それだけで折れちまうぜ」
柚丸は、目を丸くした。
今、狸がそのように喋った気がしたのだ。
「……! いや、まさか」
狸からは妖気など感じなかった。
――幻聴? いや、そんなもの、あるはずが……。
狸は道を渡ると、草むらにもぞもぞと分け入っていった。
呑気なやつだ。思わず、気が抜けるように、ため息が漏れる。
村には戻らぬつもりである。
腕っぷしと、とりあえずの知恵とでどこまで出世できるかを試したいのだ。
帰る場所があると、甘えてしまう。
ゆえに、流浪の望みだ。
流れ、振るい、闘い、そしてまた流れる。強いやつを一人ひとり打ち落とす。そうして、上へ上へ登って、天下を取る。
それだけを理由に、野心を燃やし、歩いている。てっぺんで燃える、日輪に焼かれながら。
今年は一等暑い。笠で日差しを遮るものの、あふれる汗が、笠の緒を伝って垂れていく。
うんざりするような暑さに閉口しつつ、柚丸は腰の瓢箪から水をぐいと飲むと、再び気合を入れて歩き出した。
歩くこと自体は嫌いではなかった。一歩踏み出し、踏ん張れば、確実に一歩は進む。その、着々と進む事実は、なぜか、妙にやる気を出させてくれる。
昼八つ頃。美河道五十三次の三十五番目の宿、
本当ならもっと早くについて、ここで飯を食って次の三十六番目の
さすがにこの炎天下を歩く気概は、そうそう湧いてくるものではない。無理をすれば倒れる。そのことは、山で暮らしていた柚丸には痛いほどよく分かる。
天下を取るさなか、戦いに敗れ野垂れ死にするくらいはあるだろうが――さすがに、陽にやられたり、餓鬼憑きで死ぬなど御免だ。
柚丸は、込油の町に入る。
人いきれのたえぬ喧騒と活気にあふれる宿場町であった。
妙に女が多いのだが、柚丸は理由を知っていた。
(遊女……飯盛女ってやつか)
将軍(和深における国の主。各国に将軍がおり、特段、和深の土地そのものの支配者ではない)を慮って、遊女ではなく、飯盛女というが、やっていることは同じである。
男を相手に、時には女にも春を売り、接客する連中だ。
柚丸とて男、興味はかなりある。が、そんなことにうつつを抜かす場合ではない。
そもそも旅籠に泊まるつもりもない。そんな銭はないのだ、悲しいが。
旅籠代は、土地にもよるが、だいたい二百文から三百文。
己にも全く銭がないわけではない。銭差し一貫、ひとまずある。旅籠代五泊分。しかし、当然ながら稼ぐ宛がない限り、無駄遣いはできぬ。そう戒めていた。
なにも、旅籠だけが旅の出費ではない。
(そこらの廃屋か、空き家で寝るしかねえ)
柚丸はそのように胸の内で呟く。
人様の家に無断で上がり込むというわけである。このあたりの罪悪感の薄さは、狐的、妖怪的なものだろう。
柚丸は鼻を鳴らす。
問題は、ここまで活気がある町に空き家があったとして、下手に火を炊けば気取られる。
飯はどこかの茶屋で食うとして、ぶらつきながら、適当な空き家を物色するしかあるまい。
ごぼう屋という茶屋に入った。そこで、柚丸は焼き味噌と湯漬け、梅干しを頼んで、それをがーっと掻き込む。
「ここらでみねえ坊主だ。使い走りか? それともどっかに奉公にでてきただか」
飯を食い終え、いっぷく、茶を頼んでいた柚丸に、主人がそうたずねてきた。
「いや。武者修行だ。飯食うには腕っぷしだろ」
「ほう。ほやほうだわな。まぁ、若ェようだが、変ってほどもねぇわ」
こぽこぽと茶を注ぐ。百年も前、尾梁の武将が広めた茶の湯は、今や庶民にも親しまれている。とはいえ、作法や格式まで大切にするというよりは、手軽に薬効を身に入れるという意味合いが強いが。
「餓鬼の武者修行は、変だと。村で聞いたが?」
「生国はここかん? どっから出てきた、坊主」
「すぐそこ、浜辺の大塚村だよ。歩いて半日もかかりゃしねえ」
「ああ。あっこは塩田がおおいわ。うん。刀が錆びるってんで、お侍はあんま寄らんだら」
「そうでもない。野武士だの落ち武者だのが落ちてくる。けど、最近は見ねえって、村の連中は言ってた」
一方で、あの村はそうした連中をあえて匿い、飯を与え、仕事を与えて自衛のための武士団としている。
茶屋の主人はその話を聞いて、「どこもかしこも物騒なことだわ。ったく」とぼやいた。
柚丸は問うた。
「戦さの世だ。だから餓鬼が一人ぶらつくのは危ねえと聞いた」
「大塚ったら、しばらく戦さがねえからしらんら。身売り、盗賊、口減らしってんで、餓鬼捨てる売るだの普通だわ。一人、生きてくやつもちらほらいらぁ」
なるほど。しかし、考えれば当たり前のことだ。
あまり下手を言えば、自分が化生と見破られるだろうか? 少し不安になったが、柚丸はもう少し探りを入れてみることにした。
「小さな村さえ武装する。宿場なんぞ、略奪の恰好の的だろう? ここらの連中は、逃散せなんだか。いくらなんでも、逃げるやつくらいはいそうだ」
「逃げるあてなぞめったにありゃせんわ。南は妖怪の国がどっしり構えとるだわ。しっとるかん」
「
「おおよ。怖くて寄れん。けんど、強いて言やあ、雪国へ北上する連中は度々出るわ。おおかた、関所守にやられちまう」
柚丸は何気ないふりをして、この込油に、空き家があることを確認した。
逃散したやつらがいるならば、当然、空き家ないしは廃れた家屋があるはず。
「勘定を頼む」
「おおよ。四十文な。気ぃつけりん」
「ああ」
用は済んだ。
柚丸は四十文払うと、雑踏へと身を躍らせるのだった。
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