天秤とトランス〜西成の茶店にて〜
当事者の中にも、表に出て大丈夫な人大丈夫じゃない人がいる。
その現実は変わらないんだから、そのどちらも生き良い世の中になるのが良い。
私も元々表に出ない立場だったから、あまり当事者的な人がバンバン活躍されたり活動されると、トランスの環境の変化で自分の身に危険がとか思ったこともある。
だけど、その裏で表に出ない選択肢を取ることすらできずにいる人もいる。その人のために活動する人がいる。
先日西成の下町を散策していて、喫茶店のママと界隈の所謂オカマバーについて話した際ふと頭によぎった。
ニューハーフをしていた15年前で、当時で6.70歳くらいだったろうか。年季の入った私たちの如何にもって出立ちの大先輩に、すれ違いざまに必ず挨拶をするというのが、上下関係の厳しいしきたりだった。
あの方々は、今どうしているのか。
顔は、はっきりとは思い出せないが、よく自宅のあった恵美須町駅あたりで挨拶した方の後ろ姿が頭をよぎった。
「私は、あんまり興味ないから行かないけど、たまに歩いてるのは見かけるわね。」
ママの声にハッと我に返った。
昨年の夏、私が現役だった頃、京橋のグランシャトーのcmでおなじみのリリアンさんが亡くなった。
それだけ、時が流れたという事だ。
どれだけ、活のよい魚もいずれは朽ち果てる。
オカマだのニューハーフだの言われて、夜の蝶として羽ばたいていたとしても、どんな最期を迎えるのかは容易に想像がつく。
親の理解、社会の理解、そんなものも望めず、オカマはオカマとしてしか生きられない時代だったのだから。
形だけとはいえ、今ではそうでは無くなった今。当時と何が変わったのだろうか。
幸い私は、社会の変化のおかげで、今生では諦めなければならないと思っていたことをいくつか形にして生きている。
その一つが結婚だ。
しかし、身体を変えたから、性別を変えたから、それらが形になったのかというと、そんな単純で簡単な話ではない。
身体を変えても性別を変えても、過去が付き纏う。
どれだけ、表に出ないで生きているとて、親密になる相手には、自分のそれを告げなければならない時がやってくる。
なにも、トランスに限った話ではない。
出生、子孫を残せるかどうか。
残念ながら、未だそこに拘る人も家庭もある。
実際に、私は一度ならず二度も、自らの過去に身体を変えても性別を変えても、自分の人生を諦めざるを得なくなってしまった。
自分は一生天涯孤独だと覚悟をした時もあった。
それから、出会いと交際と結婚に至ったのは、自分の事を表に出してからだった。
皮肉なものだ。
私は、
"自分が男であった事。"
.
"ニューハーフであった事。"
それらが嫌で嫌で仕方なく、女として表には出ない埋没という生き方を選んだのに、結局幸福を掴んだのは、その事を公表する選択をした後だった。
じゃあ、表に出たら幸福になれるのか?
表に出なければ不幸なのか?
そんな簡単で単純な事じゃない。
何も言わずとも当たり前に、当事者がいる世の中になる事が大切なのだと思った。
トランスの誰かが活躍したからといって、それをもってトランス探しがなされない。
トランスだと、大切な人に告げても、ふ〜んって済まされるなど。
トランスが珍しくレアな存在ではなくて、ごく当たり前に存在する。そんなニュアンスだ。
だから、活躍や活動をする人も大切だし、表に出られる人は、どんどん出たら良いと思う。
表に出たくない人は、出る必要なんかないし、社会の変化を期待せず眺めていれば良いと思う。
オカマはオカマとしてしか生きられない時代、オカマだのニューハーフだの言われて、夜の蝶として羽ばたいていた彼女らが、どんな最期を迎えるのか的な頃と、そんなに変わらないと私は思う。
まだまだ今のままではダメだと。
セルフなんちゃらとか、性別変更の要件変更とか、不勉強なもので、制度の話が今どんなことになっているのかは、あまりよくわからない。
私は、それよりも、とにかくもっと存在を示していかないといけないと思う。
そちらに注力したいと考えている。
トランスジェンダーとして、身体も戸籍上の性別変更をした1人の人間として、そう思う。
トランスが活躍や活動をする事で、自殺が過ぎる埋没当事者がいるのは分かる。その一方で、表から隠れ去ることすら叶わず自殺を過ぎる当事者がいるのも事実。
どちらかが、切り捨てられるようじゃいけない。
どちらかを天秤にかけて争ったり憎んだりしてる場合じゃない。
表に出て活躍する人、活動する人、生活する人、表に出ないで生活する人、皆同じに生きてるわけじゃないですか。


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