100周年を迎えた「ルート66」 アメリカンカルチャーの代名詞
アルバカーキ、ニューメキシコ州、4月8日 (AP) ー 米中西部イリノイ州の商都シカゴから西海岸カリフォルニア州のロサンゼルスへ行くには、いまはもっと早いルートもあるが、ルート66ほどの魅力や文化的価値を持つ道路は他にはない。 ジョン・スタインベックにとって、それはダストボウルの絶望から貧しい農民を日差しの明るいカリフォルニアへと導いた「マザー・ロード」だった。ルート沿いの先住民にとっては、経済的な恩恵をもたらす一方で傷跡も残した道だった。黒人の旅行者にとっては、人種隔離政策下の避難所となった。そして音楽ファンにとっては、まさに最高の楽しみが詰まった場所だった。 ルート66は今年、開通100周年を迎える。数十年前には国の主要幹線道路としての地位を失ったものの、世界中から人が集まり、まさにアメリカらしいロードトリップを楽しみ、ネオンサインやキッチュなモーテル、観光名所、そしてグルメを満喫している。 アリゾナ州セリグマンにある「アステカ・モーテル」に妻と共に新たな息吹を吹き込んだオランダ人実業家、セバスティアン・デ・ボーダーは、各町には独自の歴史と魅力があると語った。 「これはアメリカ文化と歴史の不可欠な一部だ」と彼はこのハイウェイについて述べた。「その歴史的側面は、その影響力と個性とともに、アメリカ文化において極めて重要な部分を占めている。」 シカゴからミズーリ、カンザス、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの各州を経て、カリフォルニア州サンタモニカに至る約3860キロに及ぶルート66は、1世紀前に、中西部工業地帯と太平洋岸を結ぶことを目的として、先住民の交易路や古い未舗装道路を繋ぎ合わせて作られた。 「ルート66の父」として知られるオクラホマ州の実業家サイラス・エイブリーは、これを単に国を効率的に横断する手段以上のものと捉えていた。それはアメリカの地方をつなぎ、新たな商業拠点を作り出すチャンスだったのだ。 エイブリーは、数字の「66」がマーケティングに最適であり、ドライバーの脳裏に焼き付くことを知っていた。そして彼の予想は的中した。ルート66は、映画や、スタインベックの『怒りの葡萄』やジャック・ケルアックの『路上』といった書籍、そしてボビー・トゥループの「(Get Your Kicks on) Route 66」のような楽曲の中で不朽のものとなった。この曲は、第二次世界大戦後の楽観主義と移動の自由を象徴する"国家"となった。 1926年11月に全米初の番号付き幹線道路の一つとして指定されて以降、かつて「アメリカのメインストリート」と呼ばれたこの道は、繁栄への約束を体現してきた。 1930年代のダストボウルや大恐慌の際、干ばつに襲われた農場や貧困から逃れる移住者たちにとって、文字通りの「希望の道」となった。また第二次世界大戦中は、軍隊や装備、労働者を西部へ移動させるために利用された。 1940年代から50年代にかけての戦後好景気はルート66の全盛期であり、人気の休暇ルートとなった。自動車はより手頃な価格になり、可処分所得が増加し、人々は広大な道路で自由を追い求めるようになった。 道沿いのダイナーやモーテルは繁盛し、抜け目のない起業家たちはドライバーから金を巻き上げる方法を次々と編み出した。ガラガラヘビの檻、トーテムポール、交易所、旧西部の無法者たちがたむろしていたとされる洞窟、そしてセントルイスの輝く鋼鉄のアーチのような近代工学の驚異があった。 納屋には巨大な広告が描かれ、看板は地元の観光名所を宣伝し、ネオンは至る所に輝いていた。 そして何よりの決め手は? 食事だ。 持ち帰り用の店もあれば、座って故郷の味を堪能できる店もあった。「コージー・ドッグ・ドライブイン」——アメリカンドッグ発祥の店——は1949年以来、その両方のニーズに応えてきた。イリノイ州スプリングフィールドの店内では、旅行者たちがハイウェイでの生活について語り合う。 ルート66は、沿線のネイティブアメリカンにとって経済的な恩恵をもたらした。しかし、観光客を呼び込んだ一方で、部族の土地には収用による傷跡を残し、固定観念を永続させてしまった。 ハイウェイの半分以上がインディアン・カントリーを横断しており、露店の看板にはティピーや羽飾りの頭飾りがさりげなく描かれていた――これらはマーケティングに利用されやすいシンボルだが、ルート沿いに存在する独自の文化を必ずしも代表するものではなかった。 アルバカーキの西にあるラグナ・プエブロでは、レストランやサービスステーションが次々と現れた。その中には、パンクしたタイヤから壊れたラジエーターまで何でも修理できる腕前を持つ、同プエブロ出身の退役軍人が経営するものもあった。 プエブロの女性も順応し、実用的な陶器の器を、観光客が欲しがる芸術作品へと変えた。手作りのパンやパイが、その人気を決定づけた。 実業家であり部族員でもあるロン・ソリモンによると、ラグナ・プエブロの指導者は、この道路――部族の言語であるケレス語で「ヘヤニー」と呼ばれる――を長きにわたり「商業の回廊」と見なしてきたという。その可能性を活かし、部族はカジノやハンバーガー店、その他の事業からなる数百万ドル規模の帝国を築き上げた。 このルートには危険も伴っていた。特にジム・クロウ時代には、黒人の旅行者は安全な宿泊施設やサービスを見つけるために『グリーン・ブック』のようなガイドに頼らざるを得なかった。 「特に長距離移動においては、人種隔離は現実だった」と、オクラホマ歴史協会の州史家マシュー・ピアースは語った。「だからこそ、黒人のドライバーは安全な行き先を知る必要があったのだ」 オクラホマ州中部のルーサー近郊にあるスレット・フィリング・ステーションは『グリーン・ブック』には掲載されていなかったが、日没までに非白人が立ち去らなければならない「サンダウン・タウン」の2つの間に位置する安全な避難所として機能していた。このステーションではバーベキューが提供され、野球さえも楽しめた。 1933年頃に祖父母がこのガソリンスタンドを開業したエドワード・スレットは、旅行者がルート66で楽しみを見つける様子を描いたテレビ番組を思い出した。「概して、黒人の旅行者はルート66でそれほど楽しみを得られなかった」と彼は語った。「仮に何か楽しみがあったとしても、皆さんが想像するようなものではなかった」 アイゼンハワー大統領が構想した近代的な州間高速道路網の建設により、ルート66は1985年に連邦幹線道路としての指定を解除された。ルート沿いのいくつかの町は衰退し、この名高い道路の各区間を保存する役割は、地方自治体、州の歴史協会、そして民間企業に委ねられることになった。 その原動力となったのが、理髪師のアンヘル・デルガディージョだ。彼はアリゾナ州議会に対し、この道路を歴史的幹線道路に指定するよう働きかけた。彼はセリグマンがゴーストタウン化するのを防ぎ、他の地域における保存活動の基準を打ち立てた。 ニューメキシコ州では、ネオンサインの原画が保存され、ルート66をテーマにした壁画が数多く残されている。また、アルバカーキのデベロッパーたちは、現在も原形を留めるこの道路の最長都市区間に沿って、モーターロッジを修復した。 カリフォルニア州では、この道路の90%以上が今も車で走れる。テキサス州パンハンドルにあるキャデラック・ランチでは、半分地中に埋まった車にスプレーペイントを施す体験ができる。また、ミシシッピ川では、旅行者が古いチェーン・オブ・ロックス橋を徒歩や自転車で渡ることができる。 このルートの建物、地区、道路区間のうち250カ所以上が、国家歴史登録財に登録されている。しかし、人々を魅了しているのは、単なるレンガやアスファルトだけではない。 「このルートを旅する中で人々に起こる最も興味深く楽しいことの一つは、知り合いに偶然出会ったり、全く予期せぬ出来事に遭遇したりすることだ」と、作家兼歴史家のジム・ロスは語った。「それがルート66体験の素晴らしい部分なのだ」 (日本語翻訳・編集 アフロ)