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①です。 六国を滅ぼした直後、始皇帝は六国の罪状を列挙して重臣達に称号(王)の刷新を命じます。 この時「天下大定」という表現が使われています。(史記秦始皇本紀 始皇二十六年) これによって皇帝という新しい称号が生まれました。
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質問者からのお礼コメント
なるほど、そういう文献があるのですね。 どうもありがとうございます。
お礼日時:4/13 14:15
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始皇帝が統一した中華世界は、①のように彼ら中華の文明の光に照らされた天子の治めるべき領土、という感覚で捉えられています。 北の草原や西の乾燥地帯は、中華の民が暮らしていくにも難しく、文化風習的に異なる、劣る民が暮らす場所、という感覚が当時は強かったです。 ただし、秦が治めた領土の一部は、例外的に②の感覚に近いです。 それは南方の南海郡・桂林郡・象郡あたりです。 この南方地帯は楚を滅ぼしたあとに秦が手を伸ばしましたが、戦国時代の地図を見ても楚の領土だったとは考えられていませんでした。百越と呼ばれる異民族の領域で、言葉も文化も違っており、その点で匈奴の地と同様に中華の外とされても違和感はありません。 しかし東方に向けては陸地が尽きて海になるまで中華に含まれているように、南方についても海を区切りに境界線を引いたのかもしれません。彼らの領土欲は、海の向こうにまで及ばないのが常で、台湾もながらく化外の地でした。
思ったと思います。 この頃にはどの辺りまでが同じ民族であり、中華民族なのかはおおよそ感覚はあり、それが戦国時代の国の領域です。それ以外は領域外であり格下の民族扱いです。 従って匈奴などは戦争が強いだけの文化レベルが低い扱いです。 当然物理的な距離の問題もあり、中東、欧州は域外です。 そもそも、始皇帝と名乗ったこと自体が、自分が中華文明の天下を取ったという名乗りを表しています。 因みに①か②か?という問いについては①だと思います。それの証拠としては戦国時代から北には長城を作っており、始皇帝もそれを引き継いでいるからです。長城の外は領域外となるでしょう。
秦にとって「天下」とは漢字文化が通用する地域のことです。 それ以外はニンゲンでなくイテキという人の形したケモノが住む地獄なんで天下に入らない。