オフの合コンが山倉和博さんへの〝恩返し〟【定岡正二連載#24】
一軍で活躍できたのは山倉和博さんのおかげ
「おいサダ、もうちょっとオレの言うこと聞けよなあ」。あのころの山倉和博さんからは、よくそうボヤかれた。わがままなボクをリードするのに相当、苦労したらしい。
「意外性の男」と呼ばれた山倉さんはボクより一つ年上。1977年のドラフト会議で1位指名され早大から巨人に入団すると、1年目から一軍に定着。80年ごろから正捕手の座をつかんだ。おかげで年の近い山倉さんがマスクをかぶるようになってからというもの、ボクは伸び伸びピッチングができるようになった。それまで吉田孝司さん、矢沢正さんら先輩捕手のサインには、なかなかクビを振ることはできなかったからだ。
ボクが一軍で結果を残せるようになったのは、投球の7割を占めたスライダーのおかげ。だから自分の決め球でもあり、カウント球でもあったスライダーをとにかく投げたかった。とはいえ山倉さんとしてはスライダーばかりを要求するわけにもいかない。何とか見せ球のストレートをインコースに放らせたい。そんな山倉さんとの“攻防戦”が、ボクの登板した試合では繰り広げられた。
最後は気を使ってくれて、ボクの投げたいボールを投げさせてくれた回数の方が多かったと思う。だから今でも、冗談交じりに「あの時、もっと厳しくリードしてくれてたらなあ」なんて話をすると、山倉さんは「そうだろ。オレの言うことを聞いていればもっと勝てたのにな」なんて返してくる。ボクにとってはそんな山倉さんが最高のキャッチャーだった。
捕手の仕事はとにかく大変だ。あのころの巨人では長嶋茂雄さんが監督をしていたころから毎試合、試合前にリポート提出をすることがバッテリーに義務付けられた。その内容は相手打者一人ひとりについて、どういう配球で攻めていくかというもの。先発投手なら5、6日に1回で済む“宿題”だけど、捕手となるとそうはいかない。「それが捕手の仕事」と言えばそれまでだけど、毎シーズン、あのリポートと格闘した山倉さんは、かなり大変な思いをしていたと思う。
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