熊と人のあいだ―徳川義親の熊狩りにみる「共生」の記憶
日本列島各地で熊の出没が話題になっている。
例年にない被害、
そして人里へと下りてくる熊。
「○○に熊が出没」というニュースが
繰り返し報じられている。
「人を襲うはずのない熊が、
人を襲うようになった」
そんな言葉も聞こえてくる。
だが、実際にむかしから
人は熊に襲われてきた。
家畜もまた熊の犠牲となってきた。
だからこそ
「熊狩り」は行われてきたのである。
それは生存のための闘いであり、同時に
自然と人との距離を測る行為でもあった。
「熊狩りの殿様」徳川義親
尾張徳川家19代当主・徳川義親は
「熊狩りの殿様」として知られている。
明治から大正にかけて
ヨーロッパ貴族のハンティング文化に憧れて
狩猟を楽しむ華族は少なくなかった。
義親の発言の中にも
どこかそうした貴族趣味をのぞかせる
部分がある。
しかし彼には留学経験もなく、
むしろ「人助けの狩猟」と呼ぶべき
行動をとっていた。
明治40年、義親は尾張徳川家に
養子に入って間もなく、北海道を視察した。
それは単なる物見遊山ではなかった。
17代慶勝、18代義禮と続く流れの中で
尾張藩士が移住した北海道・八雲を
いかに発展させ、支えていくかを
考えるための旅だった。
尾張徳川家は明治維新後、
仕事を失った旧藩士たちに
新しい生活の道を示すため、
北海道への移住を奨励した。
遊楽部(ユーラップ)の地を選び、
明治11年に開拓使に土地の下付を願い出た。
下付を受けた慶勝は、
須佐之男命(すさのおのみこと)の句とされる古事記の
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣つくる その八重垣を 」から
「八雲」と名づけた。
理想的な新天地をつくる、
そのような夢も託されていた。
しかし現実は厳しかった。
極寒の地で人々は寒さに震え、
旅人は峠越えの途中で倒れ、
人も家畜も熊の脅威にさらされた。
義親は大正7年(1918)3月、
アイヌの人々と共に八雲で熊狩りを行ない
以降、毎春の恒例行事として熊狩りを続けた。
熊祭り
義親の著作「熊狩りの旅」を読むと
アイヌの熊狩りが決して
無意味な殺生ではなかったことがわかる。
マタギと同様、集団で狩猟を行ない、
山の神に祈りを捧げ、
熊を「山の神の使い」として遇する。
解体後には供養を行い、
肉も毛皮も胆嚢も無駄にしない。
そこには「殺して終わり」ではない、
自然への深い畏敬が息づいている。
人間はむかしから、熊と戦うだけでなく、
熊と共に生きてきたのだ。
熊狩りをやめた理由
戦後、義親は熊狩りをやめた。
一因として、
彼が拠点としていた徳川農場が
昭和24年に閉鎖されたことが挙げられる。
開村70年の記念祭の日、
農場の看板を下ろされた。
財産税と農地法によって、
もはや維持ができなくなったのだ。
しかしそれだけではない。
義親は終戦を迎えると共に、
狩猟そのものをやめた。
「もう殺生はしたくない」
彼はそう決めたようである。
時代の空気も変わっていた。
新憲法のもとで平等が理想とされ
戦前の華族や特権階級への
風当たりが強まるなか、
狩猟は「時代錯誤の象徴」と
みなされるようになっていった。
さらに1950年代以降、
動物保護運動や自然保護の思想が広まり、
野生動物は「守るもの」として
位置付けられるようになった。
かつての誇り高き熊狩りは
次第に語られなくなっていったのである。
いま再び、熊と人とのあいだで
熊が再び人里に姿を現す現代。
人は熊と共に生きることができるのだろうか。
その答えを探すためには、
古の知恵にもう一度耳を傾ける必要がある。
狩猟をしながら熊を祀ったのはなぜか。
熊の穴を宝とし、
その所在を知ることを誇りとしたのはなぜか。
春の雪解けの時期に熊狩りをしたのは
自然の循環を尊ぶためだったのではないか。
近年の異常気象や自然災害は
人間の傲慢への警告だといわれる。
熊の増加もまた、
その延長線上にあるのかもしれない。
古美術という
自然とは遠く見える世界に身を置きながらも
自然への畏れと敬いを忘れまいと思う。
熊狩りの記憶をたどることは、
結局のところ、
人が自然とどう向き合うべきかを
問うことに他ならないのだ。
【追加情報・義親の熊狩りの動画フィルムについて】
平成20年頃、徳川家の蔵の中で
動画フィルムを収めた金属製の缶を発見した。
そのうちの一本には、
義親の熊狩りの様子が記録されていた。
戦前には、目白の徳川黎明会の講堂で
このような映像が
上映されていたことも知られている。
発見したフィルムは(株)堀内カラーの協力を得て、デジタル化を行なった。
現在は徳川林政史研究所に寄託しており、
時折、徳川美術館の展覧会などで
公開されている。


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