4月1日、新年度の始まりとともに私が住む国に吉報が流れた。
https://x.com/hikuidori_movie/status/1906828853655302580?t=oBEc3pTfxuAkRBCUfeAIrQ&s=19
宮舘さんにとって単独出演としては初となる映画は原浩さん原作の『火喰鳥を、喰う』
宮舘さんをはじめ監督さんやオファーしてくださったプロデューサーさんのコメントを読んでソワソワが止まらなくなり、仕事終わりに早速本屋へ駆け込み文庫版を買い、読んだ。
結論から言おう。
私のような、創作物に打ちのめされるのが好きな人は絶対に読んだ方がいい。
ここまで強く打ちのめされたのは久しぶりのことだった(私が最近そういう類いの創作に触れていなかったのもあるが)。
結末まで読みきって打ちひしがれた後で、「あれ、ちょっと待ってあの場面の文章って……」と思い読み返してみると、ちゃんと布石として置かれていた絶望と時間差で直面するという徹底ぶり。
それと、これは映画を観に行く前に原作を読むか、それともネタバレ無しで観るかを迷っている人へ。
ホラーやグロ描写に耐性のない人は絶対に原作を読んでおいた方がいい。
でないと映画の感想とかそれ以前に人によってはトラウマになってしまう可能性が高いので。
あと、これがこの作品特有のものなのか、それとも作者の原浩さんがそういう感性の方なのかは分からないけど、言葉の扱いがものすごく好みだった。
私は個人的に、「言葉」というのは本当に丁寧に取り扱うべきものだと思っていて。素敵なツールだし、想像力を掻き立てるし、創造力を培い産み出すものだと思っている。
この作品における“言葉”と、それから“気持ち”の絶対性が堪らなく好きだと思った。
そういう作品に、愛する自担が抜擢されたこと。
この作品における“北斗総一郎”という役どころを「この人以外に考えられない」と打診されたこと。
本当に私はファンとして幸せ者だなと思う。
以下、ネタバレに一切配慮をしない感想や考察など。
〇叙述トリックと飛び交う視点
この作品がミステリー×ホラーと呼ばれている理由のひとつが、いわゆる叙述トリックによって読者が最後まで視点が交互に入れ替わっていることに気づけないところだと思う。
ここからはネタバレし放題で語っていくから書くけど、雄司の視点で物語が進行しつつ、途中で挟まれる悪夢は千弥子が見ているものを追体験しているわけだ。
種明かしとなるラスト数ページを読みながら「うわぁ、やられた」と思った。
簡潔に書いてしまえば、この話は「拮抗する2つの世界線が、北斗の手引きによって優劣がついてしまい、最後には劣性たる雄司の世界が滅んでしまった」ということなんだけど。
「無い」と「在る」が少しずつ入り交じり、徐々に雄司の世界で優位性が反転していく様があまりにも見事で惚れ惚れした。
北斗は作中で「2つの現実の生存競争」と言った。
久喜貞市が「戦死した世界」と「生き延びた世界」
“私と祖父”が「雄司と保の世界」と「千弥子と貞市の世界」
突発的に巻き込まれた生存競争の中で、悪夢を見せられているのは恐らく雄司も千弥子も同じ。
雄司が久喜家の墓の前で会った「チャコちゃん」や亮くんが見た悪夢に現れた女性は千弥子の何歳かの姿。
そして作中の悪夢で千弥子が遭遇した男の子や青年は間違いなく雄司の姿。
五日目の悪夢なんかは、種明かしされてから読み返すとかなり分かりやすく視点が千弥子になっていることを教えてくれている(祖父が口ずさむ昭和歌謡、腹を気遣う仕草、そして交通事故に遭ったような青年)。
その中に書かれていた「帰ってきてくれないと」は正に貞市の復員を示唆する言葉だしね。
こういうのを丁寧に散りばめてくれているから読み返すのも楽しい。
そしていわゆる叙述トリックが使われている他にも視点が色んな角度へ飛び交うような書き方もされていて、じっくりと咀嚼しながら唸ってしまった。
この話の中では登場人物が時折、俯瞰で物事を見ようとする行為と等身大の高さでの見解が行ったり来たりする。
メタ的な発言が夕里子から飛び出したり、雄司が“保が事故で死んだことになっているなら自分も〜”と推測を働かせるような、読者がやるようなことを作中で登場人物の意識下で言語化されていたりする。
そういう、物語の外側からの視点を示してから再び登場人物の等身大の視点に戻ったりするせいで、読む側も次第に境界が曖昧になっていることに違和感を覚えなくなっていく。
この技法(?)のせいで、六日目の悪夢の時に千弥子が「悪夢から覚めて北斗と会話をしている」描写が恐ろしく感じられてしまう。
叙述トリックによるミスリードのせいで最初は普通に雄司と北斗のやり取りだと思っていたけど実は千弥子と北斗のやり取りだったことが最後に分かる。
ただこのシーンって恐らくは、雄司の世界の現実を千弥子の世界の現実が侵食していった結果、千弥子が(読者視点の高さ的に)遂に実体を伴ってしまった描写にあたると思っているんだけど、この可能性に思い当たった時は流石にゾッとした。
どこまで計算づくでこの物語が構成されているのかは定かではないし、こういうのは私の考えすぎなのかもしれないけれど。多分この本にはこういうタネや仕掛けが他にも沢山ある。
〇北斗総一郎に狂わされる
これはオタクの戯言でないことだけは明言しておきたい。いや、オタクとしてもちゃんと狂わされてはいるんだけど、そうじゃない。
この物語は本当に、北斗総一郎によって狂わされて(あるいは正されて)しまうのだ。
北斗の持つ異質なアクセントは読む側にとって癖になる。丁寧さと軽快さを絶妙に混ぜ合わせたような言葉遣い。小難しい言葉を使いつつ物腰柔らかな“聴き入らせる力”、一方で滲み出まくっている「コイツ、嘘はついてないけど本当のことも言ってないんだろうな」感。
滔々と知識や方法論を語る。にも関わらずことごとく失敗し、焦り、悩む。その様を見るせいで、世界が壊されているにもかかわらず、本当に、取り返しのつかないところまで誰もその事実に気づけない。
いやぁ〜〜〜〜、宮舘さんはとんでもない役のオファーをいただいたもんだ。
メディア化における「この作品が成功するか失敗するかはこの役にかかっている」のやつと言っても過言ではない。
北斗総一郎はこの物語の元凶であり黒幕であり舞台装置であり主人公なのだ。
“彼”のせいでこの物語は始まって、彼の暗躍によって最悪の方向へと進行し、彼のおかげで世界が壊れて“彼”は幸せな結末を享受する。
自分なりに整理するため、雄司の世界の北斗を「彼」千弥子の世界の北斗を「“彼”」と呼称していくことにするが、北斗総一郎がやったことはそういうこと。
愛する女性を手に入れるため、彼女と想い合って生きるのを正史とするため、“彼”らは1つの世界を滅ぼしてしまった。
「人間の強い思いは現実を創造する」
言葉の通り、北斗は貞市の「生への執着」を利用して自分にとって在るべき現実のきっかけを作り出し、千弥子の「大切な存在を守る意思」を利用して2つの現実の優劣を決定づけてしまった。
本来、漫画やドラマだと生きることへの執着だとか誰かを思う気持ちだとか、そういう美しいものは(仮に途中で悪に利用される展開があったとしても)ちゃんと最後には美しいものとして昇華されていくんだけど、この作品は最後まで悪用されつつ美しいものとしても昇華されてしまっているのがヤバい。執着や独占欲が“無い”ことも美しいことと明言されつつ、でもそれが“無い”せいで主人公が負けてしまう結末なのもヤバい。
〇書き換えられていく時系列と現実
“彼”が決起し彼が決行したせいで、北斗によって雄司の生きる世界は次第に千弥子の生きる世界に侵食されてしまう。
久喜貞市は生きている
雄司が認識する現実では起こらなかった出来事を「そう“かもしれない”」と、その言葉を耳にした全員が同時にその可能性を浮かべてしまったせいで、雄司の視点における“もし久喜貞市が生きていたら”という、ifの世界線の扉が開いてしまった。
戦火を生き延びた貞市が“帰ってくる”世界
貞市が復員し、子孫を残す=千弥子が生まれる世界
そして恐らくは現代まで貞市と共存することができない保が、更には千弥子と共存することができない雄司が、反転して“無かったこと”になっている世界。
“生”への執着、あるいは想い人を守る意思の強さ。あと彼としての北斗の手引きにより千弥子にとっての現実が優性の現実となっていく中で、雄司自身も千弥子にとっての現実に書き換えられてしまう。
それはつまり、17年前に父親が死んだ交通事故の際に一緒に死んでしまった自分、という現実の有り様に。
雄司が17年前の事故で死んだ“ということになっている”現実。
北斗総一郎という男にとって、恐らく1番の目的はこれだったんだろう。
雄司は、現在まで生きていれば30手前。その彼が17年前の事故で亡くなっているという現実。
千弥子にとっての現実に侵食される中で、雄司は夕里子とそもそも出会ってさえいないことになってしまった。
完全に千弥子の現実の世界となった結末に至っては更に現実が書き換わり、貞市と保(の子孫)が完全に反転し、保の息子である雅史も、孫の雄司も存在そのものが無くなってしまっている。
雄司にとっての現実において、北斗が夕里子と出会った時には既に雄司との関係が存在した。
雄司の存在に惹かれ彼の存在があったからこそ自身の特異な能力に折り合いをつけることができた、孤独でなかった夕里子という現実も連鎖的に消えてなくなってしまう。
心の内を明かすことはできずとも共に生きることを選んだ存在だけでなく、弟の存在さえ“死産”という形で無かったことになってしまっている世界の夕里子にとって、北斗総一郎という“分かり合える相手”はどれほどの救いだったことだろう。
北斗総一郎は、自分の望んだ現実として夕里子と出会い共に生きるために、望まぬ現実の夕里子さえ殺してみせたのだ。
うぅ〜ん、胸糞。
あまりにも徹底された胸糞。
分かり合える相手が存在しなかったからこそ夕里子に強く惹かれた北斗の描写、そして雄司と出会ったからこそ孤独感に苛まれなかった夕里子の描写は、要するに雄司と出会わなかった現実において(北斗ほどでないにせよ)夕里子が“分かり合える相手”として北斗に惹かれる展開が“事実”として成立しうることを表している。
だから北斗は、共通の敵として貞市と千弥子と共に現実の優劣を引っくり返して雄司が若くして死んでしまう、あるいは存在していない現実を創り出した。
そうしたら、心の拠り所がない夕里子は自分を頼り、寄り添う(しかない)から。
その目的のために、“彼”は彼諸共に雄司の現実を破壊し尽くした。
彼としての北斗は“彼”から多くを聞かされてなかったんだろうなぁ…。
全てを聞いていたわけじゃない、とは言っていたけど、恐らくは核心的な部分はほとんど何も聞かされなかったんじゃないだろうか。
「夕里子を幸せにする」
「夕里子は分かり合える相手(つまり北斗)と共に生きるべきなんだ」
「それが“在るべき現実”なんだ」
とか吹き込んだんだろう。
でもそれが、“彼”としての北斗が生きている現実においてのみ“そう”だとは伝えなかった。「夕里子と北斗が結ばれて共に生きる」という結末を迎えるのは“彼”なんだと夕里子の死から理解した彼は何を思ったんだろう。
茫然自失となりながら夕里子を蒸し焼きにして食べたという事実を、彼はどのように受け止めたのか。それでも彼としての北斗は「“彼”が夕里子を幸せにする」と確信して。あるいは願いを託して雄司に殺される(殺させる)ことを選んだんだろうか。
「妻の夕里子です。大学時代からの知り合いで、僕はずっとこんな現実になればって強く思っていたんですよ」
読めば読むほどラストシーンのおぞましさが増していくし、このラストシーンを観るために私は何度映画館へ足を運ぶんだろう。
〇火喰鳥を、喰えなかった雄司
この作品における「火喰鳥を喰う」という行為は即ち人肉食の暗喩。そして言葉の表現的には「生への執着」のメタファーとしても使われている。
雄司が最期の日に目にした日記の中で、貞市は“ヤムヲエズ”火喰鳥を喰ったと書いていた。
その前日、六月九日の伊藤軍曹を追体験した千弥子の悪夢の中で、藤村は「我々は生きねばならぬのだ」と言い聞かせ明らかに貞市の死体を食べる意思を見せている。
雄司の現実の中で藤村が食べたと話した火喰鳥は、恐らくは貞市のことなんだろう。
そして日記に書かれている、貞市が食べた火喰鳥は、その逆。
狂乱の中、それでも生きるために。
生きることへの強い執着を示し、そして現実として帰還するために。
人は、“火喰鳥”を、食わねばならなかった。
だから、北斗は夕里子を食べたんだろう。
自分こそが生き延びるのだという意思を現実の下で示すために。
「生」を、形あるものにするために。
八日目に雄司と電話で話した北斗は“彼”の方の北斗だったんだろう。
夕里子を食べたのが“彼”としての北斗なのか、それとも彼としての北斗なのかは分からないけど(個人的にはどっちも食べてそうだなぁとは思っている。彼としての北斗が食べたと認識しているかは知らんが)。
一方で、雄司は“火喰鳥”を、喰えなかった。
自分にとって不都合な現実が起こっても「それは“そういうもの”として致し方ないんだろう」とばかりに受け入れてしまえる執着心の無い雄司は、作中でも頻繁に怪奇現象を味わって「○○だということなのか…?」と想像してしまったりしている。
話の終盤、雄司が交通事故で死んだ“ことになっている”のは、雄司自身が作り出してしまった現実なのだ。
だって彼は「祖父が交通事故で死んでいるなら、その時に自分も一緒に死んでいてもおかしくない」と異なる現実を想像してしまったから。
生きること、生き延びることに対する執念を膨れ上がらせ現実を侵食した貞市や千弥子を前に、それを僅かでも想像してしまったら付け入られるのは自明の理。たとえその後ですぐに「いや、そんなはずはない」と打ち消したとしても、想像してしまった事実は、無かったことにはならない。
雄司はそんな風に、たまに自ら因果を手放してしまうというか、理不尽や不合理が存在することを受け入れた上でしか抵抗をしない。
亮くんの言う通り、それは美しいことだけど、戦う上では弱い。
だから貞市を殺そうと思ったらその姿が火喰鳥に見えたその瞬間も。
そこで雄司の世界は終わってしまっているけれど。
喰う、ことはできなかったんだろうなぁと。
喰ってしまうことで生存競争に打ち勝つことが、雄司には終ぞできなかったといつことなんだろうなぁと読み返しながら思った。
〇だて担として見る北斗総一郎
さて、言葉の表現と怪奇への造詣、そして展開の緻密さなど本当に素敵な作品に触れテンションが上がりここまで感想や考察を書き殴ったけれど。
私はだて担であり。
この作品を読もうと思ったそもそものきっかけは宮舘さんが北斗総一郎役で出演なされるとの報を受けたからだ。
読めば読むほど
“この”北斗総一郎を……宮舘さん、が………!!?
の気持ちと
いや…っ!でも……“分かる”…!“舘様”を知ってしまうと……ッ、北斗総一郎をやらせたくなる………ッ!!
の気持ちが去来し散らかしている、というのが正直なところ。
彼のファンとして本当に、震え散らかしてしまうくらい重要な役どころだし難しい解釈の男だから。
だけど彼のファンとしては、“舘様”宮舘涼太が北斗総一郎たる立ち振る舞いをする様が嵌るだろうなという妙な確信も持ってしまっている。
舘様が面白いというロジックに陥落して彼のファンとなった身としては。
北斗総一郎という男について、文章からだけでも滲み出てしまっている洗練された空気。そのくせ多弁で時に空気の読めない人懐っこそうな雰囲気とチャーミングさを覗かせてくる様。
そして何より、何言ってんだコイツと言いたくなる言動をあまりにも堂々と語り謎の説得力があってしまうせいで「えっ、何だ?1回こちらの常識を疑っておくのが筋なのか??」と戸惑いを発生させる立ち振る舞い。
北斗が最初に登場してから墓石屋へ向かうまでの一連を読んだ時、得も言われぬ痛快さと共に頭を抱えてしまった。
これは“舘様”だわ。
一瞬「えっ?」てなってしまってからも北斗は止まってくれないまま事態は進行していくので「よく分からんけど一旦“そう”としてそのまま飲み込んでおくか」と流されるせいで、気づかない内にそのスタンスが当たり前の世界に立ってしまっている。既に“それ”が“在る”前提になってしまったら、“在る”に対して“無い”の常識(現実)が通用しない。
いや……ッ!もう、“舘様”やないか!!!!!
基本的に“舘様”に関するバラエティにおけるお約束事は北斗総一郎を極限までポップに昇華したものと捉えていいと思う。原作者ならびにファンの方々には平謝りしよう。
ただ、“舘様”を生きる宮舘涼太を知っている身としては、首がもげ落ちてしまいそうなくらい適任だと断言する。
恐らく北斗総一郎という男は、「“この人”を演じられるか否か」という方向の能力よりも「“この人”として立ち振る舞うのに違和感がないか」という方向の能力の方が必要とされたんだと思う。
そして、そういう意味ではきっと、宮舘さん以上に北斗総一郎たりうる人は中々存在しないと思う。
個人的にはずっと、“舘様”の名を冠す宮舘さんが現実とは切り離された虚構だけど目の前で起こっていることは“事実”である、というシステムのアイドルとして生きていること。“お約束事”を散りばめ、“それ”ありきで成立しているバラエティの世界でそれらを味方につけまくって半ば無双状態のような躍進をしていること。
それが本当に幸せというか。
真実ではないけど実在している以上は嘘でもない、みたいな“舘様”が好きで。
だからそんな宮舘さんが北斗総一郎としてスクリーンの世界に居ることを想像するだけでグッときてしまう。
間違いなく、宮舘さんが宛てがわれるのが正しい役なんじゃないのかなと、読んでみて感じてしまったから。
どんな仕上がりになっているのかな、とか。公開されるまで死ぬほどドキドキするんだろうし。
公開されたらされたで見るのはものすごくドキドキするんだろうし。
自分が彼の北斗総一郎をどんな風に受け取るのか。他者がどんな風に受け止めるのかもめちゃくちゃ心配になるんだと思う。
とはいえ楽しみで仕方ない。
絶対たくさん映画館へ足を運ぶし、絶対に映画版の感想も書く。
それこそ私はずっと、こんな日がくればと強く願っていたんだから。