「同志ベネティム」
と、不意に背後から声をかけられ、ベネティムはほとんど椅子から転げ落ちそうになった。
「少しいいかな?」
穏やかだが、なぜか温度を感じない冷たい声。ライノーだ。部屋の入口が低いせいで、その目元は完全に隠れている。
(怖すぎる)
と、ベネティムは思った。
真夜中、割り当てられた兵営の自室、しかも一人きりのタイミングだった。同室のはずのザイロは、なにやら『次の作戦の準備』とやらで奔走していて在室していない。ジェイスとなにやら詰める話があるそうだ。今夜は戻らないだろう。
(つまり――いま、この部屋には、私とライノーだけということですよね)
なぜだか、ベネティムは危険なものを感じて背筋が冷えた。
「同志ベネティム? 大丈夫かな。顔色が良くないようだ」
「ああ、いえ。少し驚いただけです……」
ベネティムは書きかけの日誌を閉じ、椅子ごとライノーに向き直る。咳ばらいを一つ。
「何か御用でしょうか? 私はそろそろ眠ろうと思っていたのですが」
「そうかな。何か仕事をしていたようだけど。報告書かな?」
言いながら、ライノーは入室してくる。途端に、部屋が狭く感じられるようになった。
「いえ、これは……その、趣味のようなもので」
ベネティムは改めて日誌を手で押さえた。
「ただの、陣中新聞の下書きですよ。また頼まれていたので。もう終えるところでした」
「なるほど。では、手早く用件を済ませようかな……質問があるんだ」
「ええ。できれば、はい。お願いします」
「同志ベネティム、この数日、きみはなぜ僕を尾行しているんだろう?」
「え」
ベネティムはなんと答えるべきか、完全に言葉を失った。
それが事実だからだ。この数日ほど、『自由時間』になるとライノーの後をついて回った。気づかれないように、密かに行動したつもりなのだが――。
「そ、そんなつもりはなかったのですが」
「同志ベネティム、きみは尾行についてはあまり上手ではないね。同志ドッタや同志ツァーヴの真似は難しいよ」
やはり、無理があったか。ベネティムは自分の迂闊さを呪った。ライノーのような妙に鋭い男が相手なら、最初からドッタやツァーヴに任せればよかったのだ。しかし、密かにやらねばならないことではあった。
「ええと、実はライノーの普段の趣味に興味がありまして」
「趣味? 僕の?」
「そうです。あれを、私もやってみたいと思っていたんですが」
「……ここ数日、僕が出入りしていたのは鍛冶場だけだよ。同志ベネティムが鍛造技術に興味を持っているとは、僕にはどうしても思えないな。論理的にあり得ないよ」
「そうですね」
すっかり忘れていて、咄嗟にいい加減なことを言ってしまった。自分にはよくあることだ。
ライノーが鍛冶場に出入りしているのは事実だ。追いかけていたからわかる。
ナイフやら、それよりも小ぶりな、薄く切れ味のいい刃物やら何やらを鍛造しようとしていた。ついでに手の平ほどもある大きな釘やら、くさび状の器具まで。何に使うかわからないが、それらの作り方を熱心に職人に尋ね、模倣しようとしていたのは知っている。
――もっとも本音を言えば、何に使うのかは知りたくもない。
ベネティムから見たとき、ライノーの挙動はすべてどことなく陰惨に見えてくる。
「では、なぜ? なんのために?」
ライノーは後ろ手に扉を閉めた。
そうすると、部屋に妙な圧迫感が漂う。ライノーの身体が、この部屋には大きすぎるというだけの理由だろうか。やはりベネティムは、何か陰惨な気配を感じていた。
「僕の行動に、何か気になる点でもあったかな? 理由を教えてほしいんだ、同志ベネティム。仲間から何かを疑われているかもしれないという状況は、非常に悲しい気分になるからね」
「ええ。それならば、打ち明けるしかありませんね。――実は」
ベネティムは一度、深く深呼吸した。空気まで重苦しい。胃の辺りが痛むような気がする。
「この陣地の中に、魔王現象の本体が侵入している可能性があると、上層部から通告がありました」
「へえ」
ライノーはわずかに首を傾げた。薄く笑った表情はほとんど変わらない。
「それは、どんな魔王現象なのかな」
「人に擬態する種類の魔王現象と聞いています。そこで、何か怪しい動きをしている隊員がいないか探るように命令を受けました。……順番に尾行しているんですよ」
ベネティムは両手を広げた。害意は一切ない、とでも言うかのように。
「結局、ライノーの行動はとても不審でしたが、不審なだけでした。鍛冶工房への出入りも特に問題ありませんからね。そんな趣味を持っているのは意外でしたが」
「人に擬態する魔王現象。それは大変だ……とても大変な事態だね……」
何かを吟味するように、ライノーは言葉を反芻した。ベネティムから視線を外すと、ぼんやりと虚空を見つめているような表情になる。
「上層部がそういった指示を出すということは、すでに被害が出ているのかな。状況的な証拠を掴んでいる?」
「ええ、はい。数名の兵士が何者かに襲われて負傷し、意識不明とのことです」
「なるほど……それなら、僕も注目していたよ。一昨日、失踪した兵士がいたんだ。鍛冶場で働いていた兵士なんだけどね。その三日前にも一人、いたそうだよ……」
ライノーは指を折って数えた。
「さらにその前にも一人。この数日で、三人だよ。三人とも前触れもなく消息を絶った」
ライノーの目は、変わらずベネティムを見ていない。虚空に浮かぶ何かを見つめているようだ。
「単なる脱走だと噂されていたけれど……そのうち一人は、死体で見つかったらしいね。胴体部分は獣に食われたような状態だった」
「え。脱走? ……え、獣に? 食べられて?」
ベネティムは半開きになりかけた口を閉じた。
「……死者が。出ていたんですね」
「これは秘密にしていてほしいな。僕が個人的な方法で手に入れた情報だ」
ライノーは片目を閉じた。愛嬌はまるで感じない。異様なほど機械的な仕草だった。
「ここまでなら、単なる事故だと考えることもできた。でも……同志ベネティムのいうように、複数名の負傷者が出ているとしたら……興味深いことになるね……」
「そうですね」
うなずく。背筋に寒気がする。ライノーの喋り方は、どうしてこう不気味なのか。
「私が聞いていたのは、負傷した兵士がいるということだけですが。死者が出ているというのなら、上層部の皆さんが必死になるのもよくわかります」
「由々しき問題だ。誰かがなんとかしなければならない……ただ、同志ベネティム、きみが探るのはあまりよくないと思うな」
ライノーは伏せていた目をベネティムに向け、笑った。空虚な笑い方だった。
「きみは戦闘能力がとても低い。おそらく返り討ちにあってしまうよ」
「そうですけれど、私は死んでも蘇生できますから」
どことなく捨て鉢な気分で、ベネティムは言った。死ぬのは恐ろしい。だが、自分が失われて壊れていくのも、それと同じくらいに恐ろしい。どちらも自分が無くなっていくことへの恐怖には変わりがないからだ。
それに苦痛が付随する――複数回の死は、それを何度も味わうことでもある。
「さすがだ、同志ベネティム。献身的だね。……でも、本当に気をつけた方がいいよ。そういう手荒な仕事は……」
ライノーは部屋のドアを開けた。冷たい空気が外から流れ込んでくる。閉塞感がようやく緩んだ気がした。
「僕や、同志ツァーヴに任せておいた方がいい」
「……まったく、その通りだと思います」
ベネティムは苦笑した。
◆
ライノーが去ると、ようやくベネティムは背を伸ばし、深く呼吸することができた。
得体の知れない寒気がずっとつきまとっていて、胸が縮こまっていた気がする。
(危ないところでした)
上層部から指示を受けていたというのは嘘だ。魔王現象が人間に擬態して紛れ込んでいるというのも、最悪の妄想だ。そんなことが現実に起きているなど考えたくもない。数名、何者かに襲われて負傷し、意識不明になった兵士がいるというのは――これは本当だ。
タツヤに不用意に近づいた兵士が一名、殴られて気絶している。それから昨日はドッタがザイロに懲らしめられてやっぱり気絶することになっている。合わせて二名。十分に『数名』の域だ。嘘とは言えないだろう。たぶん。
(とりあえず凌いだかな……)
ベネティムは日誌の表面を指でなぞり、ページを開く。
(さすがに、これを見られるわけには)
そこには、『特集記事・連合王国軍快進撃の立役者、懲罰勇者たちの真実に迫る』という文言が記されている。
実のところこれは陣中新聞などではない。
かつてベネティムが勤めていた新聞社から、執筆を依頼されたものだ――おそらく、これを知っている者は、懲罰勇者部隊にはベネティムしかいないだろう。
つまり、懲罰勇者の人員は、どういうわけか一般市民から人気を集めつつあるということだ。ベネティムが勤めていたかつての新聞社も、その部隊員に関する記事を求めるほどに。
(わけがわからない……)
と、当の記事を書いているベネティムも思う。
特にテオリッタやザイロの人気は中々のものだ。テオリッタの聖なる署名を護符代わりに欲しがる者もいると聞く。
(それなりの収入にはなるんですが)
しかし、いまでは後悔している。再び記者として記事を書くことを安請け合いしてしまった。今度は、各部隊員の情報を個別に取材した記事を書くことになってしまった。しかも、相当にいい加減で出鱈目な脚色を交えて。
いま、ベネティムの記事の中では、ザイロはかつて存在した南方王家の隠し子疑惑があることになっているし、ドッタは実は伝説の傭兵団の一員であり、ジェイスに至ってはドラゴンに育てられた男ということになっている。もう支離滅裂といっていいだろう。
ライノーについてはいま書いていたところだが、ヴァークル社が作った試作品の人造歩兵という疑惑を書き込もうとしていた。少し変更した方がよいかもしれない。
(みんな、よくわからない部分が多すぎるんですよね)
ぺらぺらと自分のことを語るツァーヴにも辟易したが、秘密主義のライノーには手間取らされた。おかげで今回、尾行のようなことをする羽目になったし、結局わからなかったので、完全に捏造の記事を書くしかない。
(しばらく、この仕事はやめておこう)
おかげで、ライノーにも意味不明な嘘をついてしまった。本当に事故で死亡した兵士がいたのにも驚いたが、ライノーがあそこまで警戒するような気配を見せるとは。何かの逆鱗に触れかけたのかもしれなかった。
あの男をつけ回すのは、やはり危険なことなのだろう――。
◆
一人の将校が行方不明になったのは、その翌日のことである。
それ以来、兵士の連続失踪事故は止まった。