「誹謗中傷」の背景(14) … 自画自賛と自作自演(編集再掲)
本記事も、ここ数回の拙記事と同じく、昨夏に投稿したものである。同様に、あらためて編集・修正して再投稿しておきたい。
なぜこうも同じことが繰り返されているのか。ある人は「ただ注目を得たいだけの承認欲求」と言い、別の人は「誰でもいいから“憂さ晴らし”」と言う。さらに「気に食わない相手に対する“イチャモン”」と言う人もいる。
ほとんどの人は自らの行為が“いけないこと”とわかっていながら、“身バレ”しない「匿名性と秘匿性」に隠れて行っている。あるいは、相手の“悪意”に対して「わからせる(教える)」ためと、報復(仕返し、意趣返し)でしかないことを“正当化”する。それは責任転嫁であり、責任逃れの方便でしかない。人間とは、かくも自分に都合よく解釈できるものだろうか。
誤解なきように言っておきたいが、私は決して“泣き寝入り”“我慢”を強要しているのではない。目的と方法をまちがえないようにしなければならないと言っているのだ。たとえ結果的に煮え湯を飲まされることになろうとも。
こう書けば、また批難されるだろうが、プロバイダーに軒先を借りている以上、致し方ないこともあるのだ。(もちろん、抗議も提言もすべきである)
では、どうするべきか。最低限ではあっても、対抗措置としての「ブロック」および「削除」機能を使って自己防衛を図るしかない。コメントを書き込まれたら「通知」が来るので、即「削除」すればいいし、「ブロック」でコメントもできなくすればよい。他者の記事であれば、記事の投稿者にコメントすればよい。それを“放置”するのは、その投稿者に人権意識が欠落しているか、規約を知らないか、悪意があるか、だろう。(事実、「暴言」を放置している愚か者もいる)
本記事で、とりあえず“一区切り”としたい。
いろいろな場面での「嫌がらせ,いじめ」を言います。その種類は様々ですが,他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく,相手を不快にさせたり,尊厳を傷つけたり,不利益を与えたり,脅威を与えることを指します。と訳される言葉です。
言動動によって他者に不利益を与えたり不愉快にさせたりするため、どちらもハラスメントになります。与えるダメージが身体的なものでも精神的なものでも同じです。行為者にどういう意図があったかは問題ではなく、相手が不快な感情を抱けばそれはハラスメントになります。
上記のように,「ハラスメント(Harassment)」について定義されている。
「誹謗中傷」を受けたと言いまくっている人間がいるが,他者に対しての「言動」はどうなのかと問いたい。
「本人の意図には関係なく」「行為者にどのような意図があったかは問題ではなく」の一文をよくよく理解してほしい。
「正義」のため,「事実を明らかにする」のため,「相手が先に…」「自分が正しい…」等々の如何なる「意図」も関係はないのであって,「相手が不快な感情」「不愉快」になったら「ハラスメント」であり,「人権侵害」であることを認識してもらいたい。
自分がされたことばかりを言い募り,自分がしていることに気づきもしない。否、気づいていながらふれようともしない。常に自らを「被害者」と思い込み,「~された」と,自らの言動は棚に上げて他者を「悪者」に仕立て上げる。
十字架に架けられたイエスの言葉として有名な「ルカによる福音書」の一節と同じだ。
そのとき,イエスは言われた,「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです」 (『口語 新約聖書』日本聖書協会)
そのとき,イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 (『新共同訳 新約聖書』)
人はこの一節をどのように読むだろうか。自らを「イエス」の身(立場)に置くか,それとも「彼ら」の一人に置くか,この違いは大きい。
キリスト教では自らを神(絶対)とすることを最も戒めるというが,多くの人はこの言葉をイエスの立場で解釈する。牧師であっても,まるで自らを神とするかのように,自説以外を否定する者がいる。
私は『聖書』は究極の倫理,人が人と共生して生きていくための教えであると思っている。『聖書』の教えを説きながら,実践していると思い込みながら,一方で明らかに反する言動を繰り返す牧師もいる。その牧師に言いたい「自分が何をしているのか」わかっていないのですか,と。
「誹謗中傷・罵詈雑言」を繰り返す人間に共通するのは,強烈な劣等感(コンプレックス)と自意識過剰,自己顕示欲である。どれほど「正論」「正義」であると強弁しようとも,その言動の背景には,他者との関係性の破綻,他者と(一方的・勝手に)比較しての劣等感が隠されている。まるで神のように自らを絶対化して他者を見下し,揶揄・愚弄することで優越感を得た気になり,劣等感を癒やそうとする。哀れとしか思えない。
「捏造」「改竄」という言葉がある。理系の研究成果などで,時折「データ偽装」「データ改竄」という言葉で新聞や雑誌を騒がすことがあるが,世の中至る所に同様の欺瞞が転がっている。自らの正当性を証明するために,他者の文章(「記事」「コメント」)を自己流に解釈し,その解釈に適合するように(自分に都合よく)「改竄」,さらには「捏造」する。
真偽を確かめることがむずかしいネット上においては,真しやかに「虚偽」「捏造」「改竄」が横行し,トンデモ説が流布されている。そのトンデモ説を正当化するために,さらに「虚偽」「捏造」「改竄」までして,他者に対して誹謗中傷・罵詈雑言を繰り返す。<人権感覚>の鈍さに辟易する。
私は、他者の人間性や人格にまで踏み込んで,愚弄・揶揄・扱き下ろすという論法と筆法を批判しているのだ。他者にとって「正確でない」理解を基に,「的外れな」解釈で,「人間性や人格」を否定することを問題視しているのだ。人を不快にしたり傷つけたりする言動は<人権侵害>に当たることすらわからないのだろうか。(わかっていて,むしろ悪意で行っているとも思うが…)
TV番組で「“謝らない人”の特徴」について,心理カウンセラーの小日向るり子さんが解説していた。
① 防衛心が強い … 不利益を極端に恐れる
② 負けず嫌い … 「誤ったら負け」というプライド
③ 鈍感 … 謝るべきだと気づいていない
④ 他罰的思考 … 「社会が悪い」など責任転嫁
言い得てさすがと思ったが,確かに「非を認めること,謝罪すること」はしない。これに付け加えるならば「⑤ 自己正当化 … 正しいと思い込んでいる」であろうか。ただし,その根拠に客観性はなく,自分勝手な思い込みだけである。
コンプレックスからの「ルサンチマン」が自己顕示欲と化し,さらに一方的な攻撃性として表出しているのだと思う。
コンプレックスをバネに努力することは悪いことではない。勉強でもスポーツでも芸術でも,努力の原動力となることはある。しかし,その発露が人を攻撃することであれば,相当に歪んだ方向であると思う。
そのような人間に対しては何を言ってもムダでしかない。火に油を注ぐだけでしかない。
以前に書いた「愉快犯」について「記事」を編集・再掲した。「愉快犯」の特徴と目的、対処法を書いた。また、以前に「煽動者の3類型」についても言及した。
「煽動者」には大別して3つのタイプがあるように思う。1つが「愉快犯型」であり、2つが「自己顕示型」であり、3つが「ルサンチマン型」である。これら3つの型、一人の人間の内部(心理および心理的背景、生育歴や家庭環境、人間関係と生活環境など)で複雑に絡み合いながら形成されてきたと考えられる。つまり、必ずしもどれかの型に当てはまるのではなく、「ルサンチマン型」が「自己顕示型」と合体していたり、「自己顕示型」と「愉快犯型」が合体したりしていると多様なパターンがある。
昨夏以来、頓に騒がしい「コメント欄荒らし」がいる。私も随分と迷惑を受けたが、彼などは「愉快犯型」と「自己顕示型」の合体ではないかと考えている。
両極端な「顔」が証明している。自分のサイト(ページ)に集まる参会者に対する「顔」と、自分が攻撃する相手に対する「顔」を見比べれば、前者が「自己顕示型」、後者が「愉快犯型」であることは、だれにもわかるだろう。
「愉快犯」については、下記を参照してもらいたい。そして、よくよく注意してほしい。なぜ、短文で、意味不明のコメントを繰り返すのか。なぜ、苛立たせ、怒りを誘うように書くのか。反応してもらいたいのだ。そうでなければ、からかう意味がないからだ。
何より、メリットとデメリットを考えれば、応答する意味がないことに気づくだろう。
「自己顕示型」は「承認欲求」でもある。自分の優位性、優秀性、正当性、正義感などを周囲に認めてもらいたいのである。
「自己顕示型」は優劣にこだわりを持つ。相手より自分が「優れている」ことが重要であり、それを吹聴することで自己満足する。だから、相手より自慢できること、優れていることを書くことで、相手を「攻撃」する。逆に、自分より劣っていること相手の中に探して、そのことを徹底的に「愚弄」「揶揄」する。彼らは決して他者を認めないし、認めることができないのだ。
彼らは集団では生きていけない。「孤立」し「孤独」である。だからこそ、他者から認められたい願望が強い。強いから他者を屈服させて「満足感」(充足感)を得ようとして、自己満足でしかないことを知りながら「自慢」に終始する。それは限りなく「虚しい」ことだ。
誰からも相手にされないことを自覚しているからこそ、その「虚しさ」を埋めるために、自己満足を得るために、他者を「攻撃」し、「愚弄」「揶揄」し続ける。
「正当性」「正義感」「思いやり」を見せつける方法は何か。
仮想の「敵」をつくることである。その「敵」の「まちがい」「悪意」「罪過」「攻撃」を誇張する。虚偽でも捏造でもかまわない。客観的・具体的に書けばバレるから、適当にごまかす。「誹謗中傷を受けた」「デマを流された」等々、決して具体的なことは書かない。真偽が判断できないように書く。まさに「自作自演」である。
そして、どのような攻撃に対しても「仲間(コミュニティ)を守るために」がんばると繰り返し書く。信頼を巧みに利用して、事実であるように思い込ませるのだ。賛同者や協力者には即答して感謝の言葉を述べる。見事に「承認欲求」は満たされ、「自己顕示」が達成できる。自画自賛と自作自演が繰り返される。
「愉快犯」として自分が行っている「コメント欄荒らし」でさえも、仲間には「正当化」できるのである。「正義の戦い」であるからだ。まさしく欺瞞である。だが、取り込まれた人間は信じ込む。
かつて、私たちはその実例を多く見てきたではないか。オウム真理教然り、旧統一教会然り、そして冤罪の数々。洗脳、マインドコントロールなどの被害を知っているはずである。
私は「教祖」にも「リーダー」にも興味はないが、信奉者を集めて称賛を得たいと思う人間も確かにいる。それを否定はしない。だが、虚偽や欺瞞で人を操っても自滅するだけだ。何より他者の生涯に対して無責任である。
「誹謗中傷・罵詈雑言」に対しては,粛々と法的措置を行えばよいと考えている。文章に責任をもつなら,自分の文章の中に特定の個人に対する「誹謗中傷・罵詈雑言」があるかないか,自分の書いた文章を点検してみてはいかがだろうか。人を不快にするような「筆法」「文章作法」でしか「自己顕示」を示せず、人をからかうことでしか満足感を得られないことを恥じるべきだと私は思う。
しかし,それすらも今はバカバカしくなっている。まともな対話(する気はないが…)もできない人間,自分の言動のまちがいにさえ気づかず,ネット社会のルールすらも無視する自己中心的な人物には何を言ってもムダであろう。関わらない方が最善の策である。
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部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。


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