他者論を乗り越えて⑪ デカルト
今回は、17世紀の哲学者、数学者であるルネ・デカルトの哲学を見ていこうと思います。
一、粒子態は存在したか
デカルトは、精神と身体は分割可能であると考えました。精神は分割不可と考えたが、身体を必要としない粒子態のように身体を持たずとも粒子態のうちに精神を確立することはできると考えました。メルロ・ポンティにおいては、自己は身体であるという言説がみられますが、デカルトは自己は身体ではないと考えました。三木清も「我々の自己は身体的な自己である」と述べているが、そもそも「我々」という概念が曖昧性のある一見抽象的な概念であると気がかりになります。粒子態においては、この身体的な自己に含めない可能性があるのであって、──それはすでに身体的な自己に含めないが──「我々」という概念にそもそも含まれては不自然とされる生命体なのである。粒子態には意識を持ち、言語活動を行なうことのできる生命維持能力を持つ生命体であることがうかがえる。自己意識と自己知覚を持つ粒子態は、自分の存在地点とは別の角度から映像を見る能力があります。人間における五感というものの能力に劣りそうなイメージがありますが、粒子態は感受性の高すぎる生命体であって、発想力も高いという。粒子態は生活に不便なイメージがあるかもしれないが、全然不便ではないと思っている粒子態も多くいた。むしろ活発すぎると思っている粒子態も多くいました。デカルトは、粒子態の情報に気付いていましたが、精神─身体論にて粒子態の説明をすることはなかったと思われます。ライプニッツでさえも、モナドという粒子態について述べませんでした。
二、自分と自分のこと
自分のこと (デカルトいい)
相手のこと (デカルト神)
自分と自分のこととはどう違うのか。自分と婚約したい、と思っている相手から見れば、自分のことと婚約したい、という表現はしないはずである。相手と婚約したいときにも、相手のことと婚約したい、とは思わない。相手と婚約したい、と思い、理由は相手の顔がイケてるから、であるとか、相手が立派な社会人であって素敵だから、と考えることがありうると思われます。相手が立派な社会人である、というのはおかしな文脈ではない。しかし相手の顔がイケてる、というのは、相手のことであって、相手そのものではない。相手のことが好きという表現があるが、これは応答として生まれる表現であることも懸念されうる。「誰のことが好き?」と訊かれて、「Aさんのことが好きです」と、「こと」を使ってしまうケースがあると考えられる。「誰が好き?」と訊かれて「Aさんが好きです」と自然に応えることも考えられる。このとき「Aさんのこと」という文脈とは違っていることが了解できると思われます。「Aさん」と「Aさんのこと」は具体的にどう違うのかという疑問が湧いてくる。前述の「Aさんのことが好きです」と「Aさんが好きです」という表現はどう考えればよいのでしょうか。「Aさんのことが好きです」と言うとき、「Aさん自身を好き」と言っているようにも感じます。そうならば、「Aさんが好きです」という言葉とニュアンスは一緒になると思われます。しかし、「Aさんのことが好きです」という表現を用いてAさんの仕草が好きであるというニュアンスがあるなら、これは「Aさんが好きです」というニュアンスとは異なることが考えられます。


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