【槍弓】夢の中から手をのばす
弓が誰かと良い雰囲気でちゅーしようとしているシーンをカルデアのマスターが夢に見ちゃって、かつて自分とそういう関係だった記憶の持ち主を探す片思い中の弓の話。槍弓です。
※なんでも許せる方向け
※魔力やルーンや座についての偽造いっぱい
※本当に匂わす程度のキャス影弓(60字程度)
※みんな女々しい
※いつもの感じ
それでもよければお読みください。
久しぶりに書いたらめっちゃ長くなったので、どうぞお時間のある時に
似たような話を前に書いた気もするけど、それはそれとしてください
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その日、エミヤはいつもと変わらない朝を過ごしていた。
いつも通りの時間に目を覚まし、身支度を整えて食堂に向かう。すでにキッチンにいたブーディカとタマモキャットに挨拶をし、今日の食事について簡単な打ち合わせをした。
献立が決まり、各々準備に入る。
エミヤは慣れた手付きで朝食用にお浸しを作り、魚の切り身を焼いた。
食堂に美味しそうな香りが漂い出した頃、匂いに誘われるように食堂に人が集まってくる。
まず現れるのはスタッフ陣だ。サーヴァント達は朝に弱いものが多く、スタッフが食べ終えてから集まりだすことが多い。マスターが来るのは、その中間くらいだろう。
だが、今日に限って、マスターはなかなか食堂に現れなかった。
スタッフ陣の食事がひと通り終わり、サーヴァントの過半数が食事を始めても、マスターは姿を見せない。
何かあったのかとブーディカが顔を曇らせ、誰か見に行ったほうがいいんじゃないかとエミヤが言いかけた時、見慣れた橙色の髪の少女がようやく食堂に現れた。
寝癖のついたままの髪を見て、なんだ、ただの寝坊か、とエミヤ達は胸を撫で下ろした。
どことなく緊張した面持ちでいるのは、きっと寝過ごしてしまって気まずく思っているのだろう。
そう結論付けたエミヤは、居心地の悪そうに目線を下げながらも、いつも通りカウンターの前にやってきたマスターの藤丸立香に声をかけた。
「おはよう、マスター。朝食は何に」
そこでエミヤは思わず言葉を止めた。止めざるを得なかった。
なぜなら、エミヤと目のあった立香はびくりと体を大きく震わせ、あっという間にその顔を赤くしたからだ。
困惑するように揺れ動く瞳に、朱色に染まった頬。
まるで恋をした少女が恥じらっているかのような、その表情。
そんな彼女の様子に動きを止めたのは、エミヤだけではない。
隣で調理していたブーディカや朝食を摂っていたサーヴァント、食事を終え、この場を去ろうとしていたサーヴァント全てが、その少女の様子に驚き、その動向を注視していた。
耳まで朱に染めた彼女は、恥ずかしそうに顔を手で隠し、ごめん、と言い残して食堂から飛び出していった。
遠ざかる少女の足音を、そこにいる誰もが黙って聞いていた。
エミヤは盛大に混乱した。
一体何があった。
いや、起こったこと事体はわかる。マスターが自分の顔を見て、顔を赤らめたのだ。
それはわかる。わかるが、その理由がエミヤにはとんとわからない。
別に今日が初対面なわけではない。共に7つの特異点を修正し、人理焼却も阻止した。付き合いはそれなりに長い。
なのにどうして今日、あの少女はエミヤを見て突然、そんな恥じらうような態度を取ったのか。
エミヤは昨夜の記憶を振り返る。
夕食の時の彼女はいつも通りだった。「エミヤのご飯おいしー!」と笑顔で白米をおかわりし、エミヤお手製の酢豚をたっぷり食べていた。それだけだ。そこで特別な会話をした覚えはないし、それ以降は今朝まで会っていない。
だから彼女が、今朝になって突然エミヤに恋心を抱いたということも考えにくい。
何者かに魅了のような魔術をかけられ、それがエミヤに誤作動したと考える方が自然だろう。
とにかく、まずはこの事態をレオナルド・ダ・ヴィンチに報告したほうがいい。
そう思ったエミヤが足を踏み出そうとしたその時。
剣、刀、矢、槍、雷、炎、練り上げられた悍ましい魔力。
ありとあらゆる脅威がおびただしい殺意と共に、エミヤの上に降り注いだ。
*
「いやぁ、危なかったみたいだね」
どこか笑いを噛み殺しながら言ってくるレオナルド・ダ・ヴィンチに、エミヤはむすりとした表情を返した。
仲間達の殺意からエミヤを守ったのは、ダ・ヴィンチが流した緊急放送だった。
曰く、マスターは今日の夢見が悪かった。なので、誰かの顔を見て過剰に反応したとしても、それはあくまで夢のせいである。間違っても、マスターの表情を深読みして喧嘩などしないように。
その放送で、エミヤへの攻撃は間一髪のところで止められ、座に叩き返される事態は避けられた。
そして直後にエミヤは管制室に呼び出され、今に至っている。
「変な態度をとって、本当にごめんなさい……」
ダ・ヴィンチの横で小さくなっている立香が、申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
自分の態度が引き金になって同士討ちが起こりかけたことに、少なからず責任を感じているのだろう。
エミヤは小さく息を吐き、君のせいではない、と答えた。
「そもそも、夢見が悪かったせいだろう。一体、どんな夢を見たんだ?」
まさか自分と恋仲になった夢でも見たのかと冗談めかして言うと、彼女は苦笑いを浮かべたまま、すっと目を逸らした。
「……本当にそうなのか?」
「いや、違う!違うの!けど、なんて言うか……、その、見たことも含めてエミヤには謝りたいって言うか……」
再び顔を赤くしながら、彼女はわたわたと両手をエミヤの前で振る。
そのはっきりしない態度にエミヤが眉をひそめると、見かねたダ・ヴィンチが割って入ってきた。
「私の方から説明しよう。君も、サーヴァントとマスターが魔力経路を通して繋がっていることは知っていると思う。その影響で互いの過去を夢として見ることも」
それはもちろん、とエミヤは頷く。
サーヴァントが隠したい過去も、マスターは夢で見ることがある。もちろん、その逆もしかり。
「それで立香ちゃんも見ちゃったんだよね。君の過去を」
「それは……、嫌なものを見せてしまったな」
申し訳ないことをしたと、エミヤは素直に思う。
エミヤの過去は血に塗れている。魔術師ではない彼女が見て、いい気分になるものではないだろう。
だから彼女が顔を赤くしていたのは決して照れなどではく、エミヤの過去の行為に対して怒りを覚えていたからなのかもしれない。
「何を想像してるかわからないけど、多分違うよ」
ダ・ヴィンチは軽い口調でエミヤの思考を遮った後、にんまりと笑い、その口をそっとエミヤの耳元に寄せた。
「彼女が夢で見たのは、君が恋人と布団の上でいちゃいちゃしているところさ」
「……は?」
思わずエミヤは目を見開いた。
遠くで立香が、「違う!見たのはキスだけだから!」と慌てて叫んでいる声が聞こえるが、エミヤはそれどころではなかった。
まさか。そんなことが起こりえるのか。
いや、夢を通してマスターが見るのは、サーヴァントの過去、つまり記録だ。だから、万が一そのことが記録として残っていたら、マスターがそれを見ていてもおかしくはない。
エミヤはギギっと油が刺さっていない玩具のように首を動かし、立香を見る。
ばちりと目があった彼女は、もごもごと数秒言い訳めいたことを口にした後、何かを思い出したのか、ぼぼぼっと再び頬を赤らめ、気まずそうにエミヤからさっと目を逸らした。
もし、あの純粋な少女が仲間のそういう面をうっかり夢で見てしまったら。
見てしまった罪悪感と気恥ずかしさで、きっとまともに顔は見れなくなるだろう。まさに、今のように。
「あ、あの」
彼女は恥ずかしそうに俯き、礼装の裾を握ったり離したりしながら、意を決したように口を開いた。
「ご、ごめんね。男の人のあんな色っぽい顔、初めて見たからびっくりしちゃって……。過剰な反応しちゃって、本当にごめんなさい!」
すぐにいつもの態度に戻るから!と、取り繕うような、ぎこちない笑顔を浮かべる彼女に、エミヤの頭は罪悪感で破裂した。
エミヤはすぐさまその場で膝をつき、額を床に擦り付けた。土下座である。
「変なものを見せてしまって申し訳ない……!」
ぶはははは、というダ・ヴィンチの笑い声が聞こえるが、今はそれに構っている暇はない。
布団の上、ということは、まさにこれから情事に及ぼうとしたところだろう。その始まりとなる口付け。おそらく、そういう雰囲気を存分に醸しながら、自分はその相手と口づけをしたのだろう。
わざとでないとはいえ、そういう場面を何も知らない初心な彼女に見せてしまったことが、エミヤはひどく申し訳なかった。
きっとこれは何らかの罪になる。あの降り注ぐ剣や槍に、自ら当たりにいくべきだったとすら思った。
「わ、私の方こそ、覗き見みたいな真似してごめん!あ、み、見たの、キスだけだから!その後すぐ飛び起きたから、それ以降は見てないから安心して!」
それ以降を見なくても今のような反応になっているのだから、エミヤとしては全く安心はできない。むしろ彼女が必死に謝れば謝るほど、エミヤの罪悪感が募っていく。
死にそうな顔をしているエミヤの横で、ダ・ヴィンチは腹を抱えたまま小刻みに震えていた。
「いやぁ、まさかそんなことが起きるなんて!この天才でも、そこまでは見通せなかったなぁ」
他人事のように大笑いするダ・ヴィンチを、エミヤは膝をついたままギッと睨む。
「全く、天才が聞いて呆れる。天才を自称するなら、マスターの夢にフィルタリングくらいかけてもらおうか」
「おおっと、残念。キスくらいじゃ、R指定はつけられないなぁ」
ダ・ヴィンチは片目を閉じ、ペロリと可愛らしく舌を出した後、でも、と切り替えるように咳払いをした。
「実は、朝イチに立香ちゃんから相談は受けたんだよ。その時は正直、私も笑い話だと思って、別にいつも通りで大丈夫だよって、朝食に送り出したんだけど、直感っていうのかな。なんとなく嫌な予感がして、慌てて放送を入れたんだ」
それがあの緊急放送だろう。
あれがなければ、エミヤは本当に座に叩き返されていたかもしれない。
「でも、今朝の騒ぎ見ていると、思ったよりも事態は深刻そうだ。夢の記憶が自然に薄れるのを待とうと思ってたけど、立香ちゃんがエミヤの顔を見るたびに頬を染めてたら、カルデアの治安というかエミヤの身がとても危うい。だから、魔術でちょちょいと夢の記憶を消そうと思うんだけど、立香ちゃん、いいかな?」
「ぜひお願いします……」
落ち込んだ声色のまま、マスターがダ・ヴィンチに深々と頭を下げる。
「だからエミヤも、今後このことについては他言無用だよ。いいね?」
ずい、と顔を近付けて念を押してくるダ・ヴィンチに、ああ、とエミヤは頷いた。
もちろん、こんな話、自分から誰かに話そうとは思わない。立香だけでなく、できればダ・ヴィンチにも早急に忘れてもらいたい。
そんな感情が顔に出ていたのだろうか。
「事故みたいなものだけど、君も朝から災難だったね」
ダ・ヴィンチはそう言って、同情するような笑みをエミヤに向けた。
*
「今朝は災難だったじゃねぇか」
からかうような口調でそう言ってきた男を、エミヤはぎろりと睨む。
それは夕食の片付けを終え、自室に戻るところだった。
ランサーのクー・フーリンは、不機嫌そうな視線など意にも介さず、軽やかな足取りでエミヤの隣に並んだ。
その背中で、ひとつにまとめられた青い髪が尻尾のようにゆらりと揺れた。
「でも、今朝のマスターの顔は、まさに恥じらう乙女っつー感じだったなぁ。オレはてっきり、お前とマスターが夜を共にしたのかと」
「ただ顔を赤らめただけで、どうしてそこまで話が飛躍するんだ。おかげで私は、君と同じ思考をした者達に殺されそうになった」
苦虫を噛み潰したような顔で言えば、確かにな、と男はからからと笑った。
「あのダ・ヴィンチの放送が無かったら、冗談抜きでカルデアが半壊してただろうなぁ。……で、実際のところどうなんだよ?」
声をひそめて聞いてくる男に、エミヤは深く息を吐いた。
その質問は、他のカルデアのサーヴァント達から今日、何度もされた。
さっきは申し訳なかった、で、実際のところはどうなのかと。
ある者は野次馬根性に溢れた目で、ある者はぎらつく殺意を抑え込んでいる目で、本当に万が一にも何もないのだろうなと、聞かれたのだ。
果たして、この男は一体どちらだろう。
「本当に何もない。あるはずがないだろう。ダ・ヴィンチの放送通り、私は巻き込まれただけだ」
「なんだ、本当にただの不運か。つまんねぇの」
不満そうに唇を尖らしている態度から、男が野次馬側だということがよくわかった。
だったら適当にあしらっておいていいだろう。
エミヤはうんざりといった表情を男に向けた。
「全く、とんだ災難だった。自分の幸運値が嫌になる」
吐き捨てるようにそう返し、エミヤは歩調を早める。
これ以上話す気はない、という意思表示だ。こんな露骨な態度を取られれば、男もこれ以上ついてはこないだろう。
そう思っていた。
「随分、お疲れのようだな」
だが、予想に反して、男も歩く速度を上げ、当たり前の様にエミヤについてきた。
整った顔の横で、銀色の耳飾りが軽い音を立てて揺れた。
「気晴らしに手合わせでもしねぇか?」
「そんな気分ではない」
「そっか。まぁ、誤解も解けたんだし、そう落ち込むなよ」
言いながら、男はまるで友人でも励ますかのように、エミヤの背中を叩いた。
背中に触れる熱。
エミヤは思わず目を見開いた。
咄嗟に、痛い!と大袈裟に声をあげ、動揺を表情の奥底に隠して男を睨む。
男の顔に、悪気が一切ないのが憎らしかった。
英雄らしい堂々とした態度で、男はエミヤに笑いかける。
「ま、オレはシミュレーターにいるから、気が変わったらいつでも来いよ」
じゃあな、と男は踵を返し、手をひらひらと振りながら廊下の向こうに消えていった。
足音が遠ざかり、青い影が完全に見えなくなった後、エミヤは小さく舌打ちを落とす。
男に触れられた熱が、まだ背中に残っているような気がした。
*
翌朝、顔を合わせた立香はいつも通りだった。
朝食を注文する時も、レイシフトに同行した時も、エミヤを前にしても、彼女の表情が昨日のように変わることはなかった。
その様子に、エミヤの周囲に張り詰めていた緊張感はそろそろと解けていった。
どうやら本当に、ただ夢見が悪かっただけらしい。
カルデア全体がそう納得してくれたようで、エミヤは今の今まで感じていた刺々しい殺気から解放され、ほっと胸を撫で下ろした。
これでいつも通りの生活が戻ってくる。
そう安堵していた。
だが、それから数時間後。
スタッフに頼まれ、管制室にある空調の修理をしていたエミヤに、ダ・ヴィンチが声をかけた。
「昨日は話のインパクトで言い忘れてしまったんだけど、ちょっと気になることがあってね」
そう言ってダ・ヴィンチは辺りをキョロキョロと確認した後、エミヤを自身の工房に招き入れた。ここなら盗み聞きの心配はないから、と言いながら、ダ・ヴィンチは部屋の中心に置かれている椅子に腰を下ろした。
「気になることとはなんだ?」
「そう聞くということは、やっぱり君もまだ気付いていないんだね。察しのいい君にしては珍しい」
それでは説明しよう、と、ダ・ヴィンチは、椅子に腰掛けたまま、ぴ、と指を立てた。
「昨日、立香ちゃんは君がキスしているのを見たと言っていたね。男の人の色っぽい顔を初めて見たと」
「ああ」
「でも、変だと思わないかい?彼女は君の記憶を見たんだろう?なのに、どうして君の顔が見えるんだい?」
その言葉に、エミヤはハッとする。
言われてみれば確かにそうだ。
もしそれがエミヤの記憶なら、エミヤの視界、つまりエミヤの見たものを立香は見るはず。そこに本来、エミヤの顔は映らない。
なのに、立香が見たのはエミヤの顔だ。
「……鏡か何かに映る私を見たんじゃないのか?」
「いいや」
ダ・ヴィンチはふるふるふと首を横に振った。
「昨日、君が部屋を出た後、立香ちゃんにもう少し詳しい話を聞いたんだ。夢の中で彼女は、布団の上で仰向けに寝ている君を見下ろしていたらしい。あれ、と思っていると、君がこちらに手を伸ばしてきて、それと同時に君の顔がどんどん近くなって見えなくなった。そしてまたゆっくり君の顔が離れていった。彼女が見たのはこれだけだ」
それはつまり。
エミヤがそう問いかける前に、ダ・ヴィンチが答える。
「ああ、私も勘違いしていた。彼女が『夢で、エミヤが布団の上で誰かとキスしているところを見ちゃった。これって過去の記憶だよね?大事な記憶を勝手に見ちゃうなんて。エミヤに申し訳ない』と言っていたから、てっきり恋人といちゃいちゃしている君の記憶を見たのだと思ってしまった。彼女も恥ずかしがって、それ以上、話したがらなかったしね」
エミヤも昨日の時点では、立香はエミヤが生前に関係を持った女性達との逢瀬を見てしまったのだと思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
なぜなら、彼女はエミヤの記憶を見たはずなのに、エミヤの顔しか見ていない。
それはつまり。
「彼女が見たのは、私の記憶ではないということか」
「そういうことになる。これは完全に私のヒアリング不足だ。申し訳ない」
「いや、それはかまわない。私も昨日は混乱していて、そこに気付けなかった。それより」
ああ、とダ・ヴィンチはこくりと頷いた。
「彼女は一体、誰の記憶を見たんだろうね」
そうだ、それがエミヤの記憶じゃないのなら、その記憶は今現在、立香と契約している誰かのものということになる。
「ちなみに今、カルデアにいるサーヴァントと恋人関係にあったりするかい?」
「いや」
エミヤは首を横に振る。
密かに思いを寄せる相手はいるものの、それはエミヤが一方的に想っているだけだ。そういう関係ではないし、相手もエミヤがそういう感情を持っていることすら知らない。
「じゃあ、かつて召喚された時に、ここにいるサーヴァントとそういう関係になったことは?」
「その記憶もない」
そもそもサーヴァントは座にいる本体の分霊として召喚されるものだ。過去の召喚の記憶を全て有しているわけではない。神霊やビーストなど一部の例外はあれど、エミヤはその例外には当たらない。
「もちろん、過去に顔を合わせたことのあるサーヴァントは何騎かいる。だが、戦った記憶はあれど、そういう関係になった記憶は私にはない」
「なら、情報を引き出すために彼らの誰かにハニートラップを仕掛けた、とか」
「私がか?」
寝返ったふりして相手の陣営に潜り込んだことはあるが、その時、そのような色っぽい手法を取った記憶はない。
だとしたら、自分が口付けをしていた記憶は一体、誰のものなのか。
考え込むエミヤの前で、ダ・ヴィンチが、そっかー、と残念そうな声を上げる。
「正直、今回のことはカルデアで結構な騒ぎになったから、君の元恋人にも伝えておいたほうがいいかと思ったんだけど、覚えてないならしょうがないか。相手も気付いてないだろうし、立香ちゃんも夢のことは忘れてる。この件はここでおしまいかな」
「……そうか。いろいろと面倒をかけた」
すまなかった、とエミヤが頭を下げれば、それは違うよ、とダ・ヴィンチははっきりと否定した。
「そもそも、今回のことは不幸な事故なんだ。昨日の君はひどく気にしていたけど、マスターとサーヴァントの間にこういうことは起こり得ることだし、君に責任はない。君も立香ちゃんも、もちろん、その記憶の持ち主も誰も悪くない。みんな、サーヴァントというシステムに巻き込まれてしまった被害者だ。君が私に謝ることは何もない。むしろ、昨日は笑ってしまって悪かったね」
逆にそう謝られ、エミヤは思わず、気にしていない、と慌てて首を横に振った。
確かにダ・ヴィンチは大笑いはしていたものの、緊急放送を流したり、エミヤから話を聞いたり、今日だってわかったことを教えてくれたりと、やるべきことはやってくれていた。
それに正直、多少は笑われても仕方がない事態だったとエミヤも思っている。
それに、今のエミヤはどちらかというと、突然振って湧いてきた自分の元恋人という存在の方が気になっていた。
「……マスターは、夢で見たことについて他に何か言っていたか?」
「いや、さっき言ったことが全てだよ。何か気になることでも……あぁ、元恋人のヒントになるようなことが他にないかってこと?」
ああ、とエミヤは頷いた。
「残念ながら、彼女としては君のインパクトが強すぎて、他のことをほとんど覚えていないみたいだ」
それはそうだろう。むしろ他に知っているサーヴァントがそこにいれば、そっちの名前も挙げていたはずだ。
エミヤが肩を落としかけた時、でも、とダ・ヴィンチが遮った。
「元恋人本人の特定は難しいけど、地域の特定はできるかな」
「地域?」
「そう。彼女は、ベッドではなく、布団の上にいる君を見た、と言っていた。つまり、君に恋人がいたのは、日本などのアジア圏に召喚された時だと考えられる」
日本。
その国の名前を、エミヤは口の中で繰り返した。
ダ・ヴィンチの工房を出た後、エミヤは歩きながら、言われたことを悶々を考え続けていた。
過去に自分と口づけを交わすような関係にあった者が、このカルデアにいる。
そんな相手がいたことを、エミヤは知らない。だが、マスターの夢に出てきたということは、相手はその記憶をしっかり有した状態でカルデアにいるのは間違いない。
しかし、エミヤはカルデアにいるサーヴァントから、実は昔恋人関係だったという話は聞いたことはないし、そういう匂わせを受けたこともない。
もちろん、人理修復という非常事態で、その元恋人が恋愛を後回しにしている可能性はある。
今はマスターのため、人理のために全力を尽くすべきだと。
だとしても、だ。
覚えているのなら、ひと言言ってくれてもいいのでは、とエミヤは思う。
言われたところで困ったかもしれないが、知っているのと知らないのは全然違う。
今回の夢のことだって、知っていればもっと別の対応ができたかもしれないし、エミヤだって相手に文句のひとつくらいは言えた。
それに、エミヤ自身、かつて愛を交わした相手のことをすっかり忘れて放置しているというのは、どうにも居心地が悪い。
別に、また恋人に戻りたいというわけではないが、一言くらい忘れていたことを弁明したいと思うのは自然だろう。
それに。
不意に、背中にじわりとした熱が蘇る。
昨日触れた男の手の感触。
エミヤは思わず足を止めた。
「うわっ、急に止まるなよ」
突然、後ろから聞こえてきた声に、エミヤは勢いよく振り向いた。
そこには、エミヤの目に焼きついて離れない、鮮やかな青色があった。
ランサー。
エミヤのその声は、音にならずに空気に溶けた。
一体いつから後ろを歩いていたのか。
自分の考えに夢中になっていて、エミヤは全く気付けなかった。
男の手には橙色の羽や赤い骨など、見覚えのある素材がのせられていた。
きっとレイシフト帰りで、素材を倉庫に持って行くところなのかもしれない。
「なんだよ、ガキみたいな悪戯しやがって」
その不服そうな男の表情から、どうやらエミヤが後ろに男がいることを知った上で、わざと立ち止まったと思っているらしい。
エミヤはムッとして言い返した。
「そんなくだらない悪戯、するわけがないだろう」
「だったら、なんで急に立ち止まったんだよ」
そこでエミヤは、はたと気付く。
エミヤが立っているのは廊下の真ん中で、周りに倉庫や部屋の扉は見当たらない。本来、立ち止まる必要がない場所だ。男が自分への嫌がらせで止まったと思っても不思議ではない。
そもそも、エミヤは男の存在に気付いてもいなかった。それくらいダ・ヴィンチに言われたことで頭がいっぱいだった。
だが、その言い訳を男にするわけにもいかない。
「別に、なんでもない」
エミヤはそう言って、さっさと歩き出した。
どんどん歩く速度を上げれば、男の気配はあっという間に遠ざかる。昨日のように、男が後ろから追いかけてくることもない。
エミヤがぎゅう、と拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込む。それくらいの痛みでは、気持ちは晴れなかった。
元恋人がこのカルデアにいるかもしれない。
より戻す気はエミヤにはない。それどころか、戻せない。
なぜならエミヤは今、ランサーのクー・フーリンに恋をしているのだ。
*
カルデアいるかもしれない元恋人のことを、エミヤは考える。
もし、エミヤが忘れられた元恋人側の立場だったら。
自分のかつての恋人が、自分のことをすっかり忘れて別の相手に恋をしていたら。
正直あまり良い気分はしないな、とエミヤは思う。
だが、たとえ元恋人が今のエミヤをそう罵ったとしても、エミヤ自身、まさか自分が恋に落ちるなど思ってもいなかったのだ。
不可抗力だ、と弁明するしかない。
いや、それ以前に、かつて恋人がカルデアにいることを知っていれば、もしかしたら、こんな恋などしなかったかもしれない。
いくら相手が、かつて憧れていた伝説級の大英雄であったとしても、毎日顔を合わせ、気安く話しかけられたとしても、エミヤは踏みとどまれていたはずだ。きっと、多分。おそらくは。
そんな八つ当たりのようなことを考えてしまい、エミヤはひどく後悔した。
そもそも。
どうして元恋人は、かつて付き合っていたことをエミヤに言わなかったのだろう。
もし自分だったら、とエミヤは考えたが、いや、言わないな、と即座に意見を翻した。
自分がここに召喚されたのは人理修復の為だ。自分の色恋など二の次。言うわけがない。
さっきまで、教えてくれてもいいのではないかと思っていたが、いざその立場になった自分を想像すると、こんなにも簡単に意見がひっくり返る。
身勝手なものだと、エミヤは自嘲した。
でも、もし。
エミヤが元恋人の立場で、今でもエミヤに好意を持っているのであれば、それはきっと態度に表れるのではないだろうか。
恋人ではなくなっても、好きな相手ではあるのだ。エミヤだったら、必要以上に世話を焼いてしまうかもしれない。
だが、エミヤがこのカルデアにきて、誰かからそういう空気を嗅ぎ取ったことはない。
カルデアにいるサーヴァントは皆エミヤに好意的ではあるが、そういう下心を匂わせてきたものは1人もいなかった。
そう考えると、エミヤの元恋人はエミヤと付き合っていた記憶はあれど、今はエミヤに対して何とも思っていないのかもしれない。
サーヴァントは召喚のたびに別人になると言うし、現にカルデアのサーヴァントのほとんどは、マスターの少女に夢中だ。それは十分あり得ることだった。
それはそれで切ない気持ちにはなるが、エミヤ自身も今は別の相手に恋している。元恋人が別の相手に恋をしていたとしても、文句を言う筋合いはない。
あとエミヤに恋人だと告げなかった理由として考えられるのは、そもそもエミヤと口づけを交わしたのはあくまで遊びで、本当に付き合っていなかった場合だ。
それなら黙っている理由はよくわかる。過去の遊び相手ならば、忘れてもらっていた方が、きっと都合がいいだろう。
とはいえ。
とはいえ、だ。
マスターがあんな夢を見させられ、エミヤもあんな目にあったのだ。
ダ・ヴィンチはここまでだと言っていたけど、当事者であるエミヤの元恋人が何も知らないままというのは腑に落ちないし、純粋に過去の自分の恋の相手を知りたいという気持ちもある。
だから、エミヤはカルデアにいるらしい自分の元恋人を探すことにした。
夕食の片付け後、エミヤはとあるサーヴァントの部屋を訪ねた。
手土産に紅茶とお茶菓子を持っていったのがよかったのか、たまたま機嫌が良かったのか、その部屋の主であるメディアはエミヤをすんなり部屋に通し、何の用なのだとエミヤに問うた。
エミヤは少し悩んだ後、昨日の騒ぎの原因について、一部を除いて正直に彼女に話した。
恥ずかしさはあったが、全部話してしまった方が、彼女もエミヤがここに来た理由をすぐに理解してくれると思ったのだ。
ちなみに除いた一部分は、マスターが夢で見たものについてだ。
マスターの為にも、夢で見たのは自分と元恋人の初々しいデート風景だと濁しておいた。
メディアは昨日、朝早く食堂に来てさっさと部屋に戻っていた為、あの騒ぎは目撃していなかったようだ。
だが、噂には聞いていたらしく、彼女はエミヤの話を聞いて、文字通り体をふたつに折り曲げ、机をバンバン叩きながら大笑いをした。
笑われるのは覚悟の上だったが、そこまで笑われると思っておらず、目の前で小刻みに震える紫色の髪を、エミヤは居た堪れない気持ちで見つめていた。
マスターの名誉の為にも言外しないよう伝えると、メディアは震える声で、わかったわ、と頷いた。
「つまり、その騒ぎの原因になった元恋人を探しているのね?」
「ああ。例えば冬木にいた時、私に恋人はいたか?」
ダ・ヴィンチは、エミヤが元恋人と過ごしていたのは日本などのアジア圏の可能性が高いと言っていた。
エミヤが知っている中で、その近辺で行われた大きな聖杯戦争といえば冬木の聖杯戦争だ。
もしかしたら、自分の覚えていない冬木の聖杯戦争もあったかもしれない、と思い、エミヤはメディアの元を訪ねたのだ。
しかも、冬木のメディアには愛する夫がいた。彼女が元恋人である可能性は限りなく低い。
もし本当に冬木の聖杯戦争の関係者にエミヤの元恋人がいるとしたら、それは一体誰なのだろう。
冬木に召喚された女性サーヴァントで、今もカルデアにいるのはセイバーとセイバーー・オルタ、そしてライダーだ。しかし、擬似サーヴァント化している者も含めると対象はもっと増える。
エミヤは平静を装いながら、メディアの言葉を待った。
「あの時、あなたに恋人がいたかどうかを知りたいのね」
「ああ」
「いたわよ」
そのあっさりとした答えに、エミヤは思わず目を瞬かせた。
「それは誰だ?」
するとメディアは呆れたような顔をした。
「あなた、本当に何も覚えていないのね。あれだけ仲良くしていたのに」
まるで責めるような口調に、思わずエミヤは言葉に詰まる。
「……仕方ないだろう。私だって、忘れたくて忘れたわけではない」
「まぁ、そうでしょうね。……ランサーよ」
「何がだ?」
メディアの言葉の意味が理解できず、エミヤは聞き返した。
「だから、あなたの恋人。ランサーよ。このカルデアにもいる、ランサーのクー・フーリン」
息が止まるような衝撃。
冗談はよせ、という軽口すら出てこない。
それくらいエミヤは驚いた。
ただ目を瞬かせ、前に座るメディアを見返すことしかできない。
そんなエミヤに、彼女は小さく息を吐く。
「本当に何も覚えていないのね。馴れ初めとかは知らないけど、気付いたらあなた達はよく2人でいたわよ。同じところに住んでいたみたいだし」
そう語る彼女の話は、どこか遠い国で起きた物語のように聞こえた。
メディアの部屋を出た後、エミヤはしばらく廊下に立ち尽くした。
メディア曰く、エミヤのかつての恋人はランサーだったらしい。
エミヤが恋する相手と、エミヤはすでに関係を持っていたのだ。
それを聞いた時、はじめに湧き上がったのは喜びだった。
じわじわと胸の奥に熱が広がり、喜びがエミヤの腹の底を焦がしていく。
だって、自分はその対象にはなれないとエミヤは思っていた。だけど、過去にそういう関係だったということは、エミヤは一度はあの男に見初められたのだ。
ならば、今の自分だって。
そこまで考えた時、膨れ上がった喜びが穴の空いた袋のようにみるみる萎んでいった。
でも、だとしたら。
何故あの男は、かつて恋人だったことをエミヤに言わなかったのだろう。
恋人だったことを忘れている、というのはありえない。
何故なら、その記憶がマスターの夢に流れているから。
だからあの男は、意図的にエミヤにかつて恋人だったことを告げていない。
それはどうしてか。
エミヤは少し前の自分が考えていたことを思い出す。
今は人理修復に専念すべき事態で、恋愛にかまけている暇はないから。
これだったらいいと思った。それならまだ救いがある。
付き合っていた記憶はあれど、そしてまたエミヤのことも好ましく思ってくれているけれども、今は後回しにしているだけ。
だがエミヤは、あの男がそんな殊勝な性格ではないを知っている。
愛したい者がいるなら敵であっても愛する。惚れた相手がいるのなら抱く。あれは、そういう男だ。
カルデアに召喚されてから今まで、エミヤは男と幾度も会話をしたが、そういう下心のようなものを感じ取ったことは一度もない。
だから、それはつまり、そういうことだ。
あの男は今のエミヤに対しては、何の愛も抱いていない。
ふらり、とエミヤは無意識に一歩踏み出した。
見慣れた廊下をいつも通り歩く。
そのはずなのに、なぜか見えるも全てがどこか嘘くさい。
自分の中が空洞になったように感じた。
他に何を考えていただろうか。
そうだ、そもそも冬木の時から、エミヤのことをそこまで好きではなかったか、だ。
自分の考えたことが、ぐさりとエミヤの胸を抉った。
その動揺を隠すように、止まりそうな足を無理矢理動かす。
今から行く場所があるわけではない。
ただ思い当たった事実から逃げるように、エミヤはひたすら足を前に出した。
冬木の時は暇を潰せそうなのがエミヤしかいなかったから恋仲になったが、今のカルデアにはあの男の欲を満たす猛者も、美しい女性も溢れている。レイシフト先でそういう店に行くことだってできる。
今、わざわざエミヤを選ぶ理由はない。だから、恋人だったこともエミヤには伝えていない。
それは、今のエミヤと恋人になる気などないから。
今の愛に、エミヤは選ばれなかったのだ。
かつん。
無機質な廊下に、エミヤの足音が遠く響いた。
そうか、もしかしたら冬木の自分もそれをわかっていたのかもしれない。
この関係は今だけのものだから、次の召喚で自分が愚かな期待をしないように、わざと記録を座に持ちかえらなかったのだろう。
多分、今のエミヤ自身も無意識にそれをわかっていた。
だから、あの男に性懲りも無く片思いこそすれ、それを行動に移したりはしなかった。無理だと最初から諦めていた。
そしてそのまま再び座に還る日を、大人しく迎えるはずだったのだ。
でも、エミヤは知ってしまった。
かつて自分があの男と恋人だったことを。そんな世界があったことを。
愚かにもエミヤはそれに喜んだ。喜んでしまった。
その直後に、今の自分ではそれが叶わないことを嫌でも思い知るのに。
「エミヤさん、こんばんは」
ハッとして顔を上げると、目の前にマシュ・キリエライトと立香が立っていた。
どうやら考え込んでいるうちに、マスターの部屋の側まで来ていたらしい。
一瞬、驚いた表情を浮かべたエミヤに、2人の少女はきょとりと目を瞬かせた。
「どうしたの、エミヤ。何かあった?」
立香の問いに、エミヤは「いや、なんでもない」と平静を装って答える。
「ちょうどシミュレーターでの訓練からの帰りでね。戦術について少し考え込んでしまっていたようだ」
「あんなたくさんの食事を作った後も自己鍛錬を欠かさないなんて……。エミヤさんはすごいです」
私も頑張ります、と意気込んでいるマシュに、エミヤの良心がちくちく痛む。
ここに清姫がいたら、エミヤは間違いなく丸焦げになっていただろう。
だが、かと言って、彼女達に本当のことを言えるわけもない。
ぼろが出る前に2人から離れようと、廊下の先に視線を向けた時だった。
廊下の向こうから、こちらに近づいてくるふたつの影が見えた。
それと同時にエミヤの耳に届いたのは、ギリシャの英雄アキレウスと、あの男の声。
急いでこの場を離れようと思ったが、すんでのところで思いとどまる。
そんなことをしたら、立香やマシュに不審に思われてしまうだろう。
この胸の内に渦巻いている醜い感情を、純粋な彼女達に知られたくはなかった。
「お、マスターにマシュ!それとエミヤじゃねぇか。こんなところで何してんだ?」
こちらに気付いたアキレウスが、カラッとした声で話しかけてきた。
無意識に腹に力を込めたエミヤの横で、マスターがにこやかに答える。
「ばったり会ったから、ちょっと立ち話をしてたんだ。そっちはこれからシミュレーター?」
「ああ、ケルトの英雄とな」
アキレウスはそう言ってニヤリと笑い、隣にいるランサーを親指で差した。
それに応えるように、男も、おう、と頷いた。
ああ、駄目だ、とエミヤは思った。
何せエミヤは、ついさっき自分の失恋を思い知らされたばかりだ。
その表情、その些細な動作すら、今のエミヤにとっては猛毒だ。その姿が視界にあるだけで、エミヤの胸は抉られる。
「じゃあ、私はこれで」
エミヤは精一杯のいつも通りを装って、その場を後にしようとした。
これ以上ここにいたら、勘のいいマスターやあの男にエミヤの動揺を悟られてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
「せっかくだし、あんたも一緒に手合わせしないか?」
そんなエミヤを呼び止めたのは、立香でもあの男ではなく、アキレウスだった。
全員の視線が、一斉にエミヤに向かう。もちろん、あの柘榴色の瞳も。
そちらを見ないようにしながら、エミヤはいつも通りの顔を貼り付けて答えた。
「すまないが、私にはまだやることがあってね。またの機会にお邪魔させてもらおう」
「ふーん、そっか。まぁ、あんたはいろいろ忙しいもんな」
またな、とアキレウスが手を振ったので、エミヤもそれに倣って軽く手を挙げ、彼らに背を向けた。
マスター達の楽しそうな声が、後ろから聞こえてくる。
その中から男の声を拾おうとする意識を無理矢理引き剥がし、エミヤは自室に向かって足を進める。
無機質な扉の前をいくつも通り過ぎる。
踏み出すたびに浮かんでくるくだらない感情を、エミヤはひたすら見ないふりをした。
それなのに。
「アーチャー!」
後ろから、あの男の声が追いかけてきた。
びくり、と引き攣ったように足が止まる。
そんな正直すぎる反応をしてしまった自分を、エミヤは今すぐ殺したくなった。
止まってしまっては仕方がない。
エミヤは覚悟を決め、ゆっくりと振り返った。
「そんな警戒すんなよ」
青い髪を揺らしながら軽やかに駆け寄ってきた男は、そんなエミヤの表情に苦笑いを浮かべる。
胸の奥の傷が、じくりと膿んだ気がした。
「……一体、何の用だ」
牽制するように冷たい声音で尋ねる。
男がわざわざ追いかけてきた理由がわかるまで、エミヤは絶対に気を抜くわけにはいかない。
エミヤの訝しげな視線を受けた男は、あー、と言いながら、誤魔化すように視線を外した。
「今、少し時間あるか?ちょっと付き合えよ」
「は?」
エミヤは思わず聞き返した。
「今だと?ついさっき、アキレウスと手合わせすると言ってなかったか?」
「残念なことに、バーサーカーの女王様に見つかってよ。手合わせどころじゃなくなってお開きになったんだ」
それはおそらくペンテシレイアのことだろう。彼女はいつもアキレウスを前にすると正気を失い、バーサーカーの名に恥じない行動をとる。
正直それはよくある話で、いつもだったら何も不思議に思わなかったかもしれない。
だが今の男の態度には、妙な違和感があった。
「さっきの私とアキレウスの会話を聞いていなかったのか?私はまだやることがある、と言ったはずだが」
男は間違いなくあの場にいて、エミヤの話を聞いていたはずだ。
なのに、それを知った上でエミヤを誘うということに、何らかの意図を感じずにはいられなかった。
「そうだったか?なら、その後でもいいぜ。終わるまで待っててやるよ」
「断る。君と遊んでいる暇はない」
近寄るな、という意思を込めて、エミヤは冷たく言い放つ。
もし本当に手合わせがなくなり暇になったとしても、用があるというエミヤにこの男が声をかけてくるわけがない。そこまで気遣いのできない男ではないし、何より、いつもの男なら一度断られたら素直に引き下がるはずだ。
なのに、しつこく食い下がってくる。
何か裏があることは明白だった。
とりつく島もないエミヤに、男は少し迷うような素振りを見せた後、やがて諦めたように息を吐いた。
「……だってよ、今のお前を放っておいたら、後で絶対に面倒なことになるだろうが」
「は?」
今度こそ、エミヤは男の言っている意味がよくわからなかった。
「何を言っている」
「残念ながらオレにはわかるんだよ。テメェが今、1人でどうでもいいことをぐちゃぐちゃ考えて、思い詰めてることくらいな」
何故それを。
警戒するように身を固くするエミヤとは対照的に、男はやれやれと言わんばかりの肩をすくめた。
エミヤは隠し事が下手な方ではない。現に、さっき会ったマスター達はエミヤの言葉を疑いもしなかった。
それなのに、この男は何をもってエミヤの感情を見抜いたのか。
「そういう時のお前をひとりにして良かったためしがない。今までで一度もな」
もしかして本当にこの男には、隠し事をあっさり見抜けるくらいの親しい関係を、エミヤと築いた記憶があるというのか。
でも、だとしたら。
どうしてそれを今のエミヤには言わなかったのか。
エミヤの動揺など知らず、男は当たり前のように続ける。
「何を思い詰めてるんだか知らねぇが、冷静に考えろよ?食堂を預かるテメェに何かあったら、いろいろ面倒なんだよ。それくらいわかるだろ。この前の騒ぎもあったし。お前だって、マスター達を無駄に心配させたくないだろ?」
その瞬間、エミヤは唐突に男の行動の真意を理解した。
そうか、なるほど。
この男はエミヤと付き合っていた時の記憶を、カルデアの為に活用しているのだ。
だって、そうではないか。
もし、今でもエミヤに多少なりとも好意があるのなら、かつて恋人だったことをエミヤに伝えていたはずだ。
それをしていないのが答えだ。今の男の心に、エミヤはいない。
だけど、恋人だった時の記憶と経験がある。エミヤのことを誰よりも知っている。誰よりもわかっている。
だから。
「だから、そういう全部、オレが聞いてやるから吐き出せって言ってんだよ。溜め込んでても良いことねぇだろ。ほら、オレが朝まで付き合ってやるからさ」
この男は、エミヤのことが好きでもないくせに、かつてのエミヤの好意を利用して、今のエミヤを都合よく動かそうとしているのだ。
その仕打ちの残酷さに、エミヤが気付いているとも知らずに。
呆然としたまま、エミヤは口を開く。
「知ったような口をきくな。何も知らないくせに」
冷え切った声に、男の表情が固まったのが見えた。
エミヤは男から目を逸らし、霊体化をして姿を消した。
「っ、おい、アーチャー!」
後ろで、焦ったように呼び止める声が聞こえる。
その声音の中にエミヤの望むものがないことが腹立たしくて悔しくて、ただ悲しかった。
*
しょうがねぇだろ、前のことしか知らねぇんだから。
ランサーはガリガリと髪を掻きむしりながら、その場にうずくまった。
失敗した。
気を付けていたつもりだったが、何かがあの男の地雷を踏み抜いてしまったらしい。
正直、恋人だった時の記憶もあるせいか、あの男の扱いには慣れていると思っていた。
その自信が表に出てしまっていたのだろう。それを最悪な形で男に悟られ、その結果、男はランサーの前から姿を消した。
ランサーは、男が何かに悩んでいるのに気付いていた。
だから力になりたかった。そこに嘘はない。
ただ経験上、真正面から聞いてもあの男は素直に話さないだろうし、だから何らかの理由づけがあった方が納得してくれるんじゃないかと重い、色々付け足してみたが、結果としては大失敗だった。
だったら最初から変な小細工を弄せずに、そのまま言ったほうがよかった。
胸の中の後悔を吐き出すように、あぁぁ、と声を出してみるものの、その声に返ってくるものはない。
そんな時に頭をよぎるのは、いつかの召喚で、恋人として過ごしていた時の男の顔だった。
今のあの男には、自分と付き合っていた時の記憶はないようだった。
酒宴の場で何度か過去に関する話をしてみてが、出てくるのは槍捌きがどうとか、戦闘時の身のこなしがどうとかというものばかり。探りを入れても色っぽい話は一切出てこず、しまいには「あぁ、商店街で大層勤勉に働いていたな」と嫌味ったらしく言われた。
つまり、ランサーは認めなくてはいけなかった。
ランサーの目の前にいる男は、かつて自分と愛し合ったことを何も覚えておらず、今は愛していないということを。
正直なところ、ランサーはもし相手がかつて付き合っていたことを覚えてくれていたら、ここでその関係を続けるのも悪くないと思っていた。
記憶の中のランサーと男は、喧嘩することはあれど、恋人としては悪くない関係だった。
まどろむような平和の中で、古いアパート一室で男の料理を食べ、体を重ねて眠り、共に朝を迎える。あの世界で男と過ごした時間は、信じられないほど穏やかなものだった。
この男とだったら、ぬるま湯のような世界の中にズブズブと沈んでいくのも悪くない。
そんなことすら思った。
『君との時間は、まるで夢のようだった。目覚めるのが少し惜しいと思うほどに』
前の召喚の別れ際。男の部屋のいつもの布団の上。
消えかけのエーテルの体であの男は言った。
ランサーは最後の煙草に火を点け、口に咥える。
『まぁ、これもサーヴァントの定めだ。どうせまた会えるだろ』
『そうかもしれんな。その時はきっと敵同士だろうな』
『オレはそれでもかまわねぇが』
だろうな、と男は笑った。柔らかい、幼い笑みだった。
その顔を、ランサーはカルデアでは見ていない。
『そうだな。もし次があるのなら、次はもう少し紳士的なアプローチをしてほしいものだ』
そう言い残し、男の体は光に溶けた。
ランサーがゆっくり吐き出した煙も、ランサーの体も、まるで男の後を追うように空気の中に消えていった。
だが、カルデアで再会した伴侶は、ランサーと過ごした日々のことなど何も覚えていなかった。
サーヴァントとはそういうものだから仕方がない。もちろんランサーもそれはわかっている。
だからランサーは「しょうがねぇ」とわざと声を出すことで、自分を納得させようとした。
割り切るのは得意だったし、すぐに気ならなくなるだろうと思った。
だけど、あの男が誰かとにこやかに話している姿を見るたび、ランサーの中の獣が囁いた。
このカルデアで、あの男は誰かと恋仲になるかもしれない。かつての自分と同じように。
きっと自分しか知らなかったあの顔を、その相手にも無防備に晒すのだろう。
それをお前は許せるのか、と。
まさか。
ランサーは小さく笑い、自分のことを忘れた男に話しかけた。
子供じみた嫉妬で煮えたぎる腑を隠しながら。
『次は紳士的なアプローチを』
そんなランサーの耳の奥で、かつての男の最後の言葉が響く。
前に男と恋人になる時、当時のランサーはそれはそれは強引な手を使った。
酒に弱い男を酔い潰し、体から籠絡した。そしてそのまま男の家に転がり込み、拒否されないのをいいことに、毎夜毎夜男を抱き続けた。
告白して、言葉で互いの気持ちを確認する、という手順をランサーは踏まなかった。
だって、男はすでにランサーを受け入れているのだ。家から追い出されないのが何よりの証拠。
だから、その儀式がそこまで重要だと正直思っていなかったのだ。
それが間違いだと気付いたのは、初めて男と大喧嘩をした時だ。
そもそもランサーは男を恋人だと思っていたが、男はそうは思っていなかった。そのせいで男がひどく思い詰めていたことを、その時ランサーは初めて知った。
ランサーは慌てて強引に事を進めたことを男に謝り、自分の気持ちを正直に伝えた。
絶対に逃がしたくなかったから手段は選ばなかったのだと言えば、男は一瞬嬉しそうな顔をした後に、そういうのは良くない、と真面目ぶった顔でランサーに説教をしてきた。
だから、ランサーは前轍は踏まないよう、このカルデアでは慎重に男との距離を詰めることにした。
間違っても、体の関係に持ち込んだりはせず、顔見知りの同僚として、まずはゆっくりと良好な関係を築くことにした。
だが、前の平和な召喚と比べると、カルデアの生活は慌ただしいものだった。
突然敵襲があったり、マスターが目覚めなくなったり、微小特異点が発見されたりするのはもはやよくあることで。
のんきに恋愛にかまけている時間など、あまりない。
おそらく、前の召喚が特殊すぎたのだろう。
あんな平和な世界だったからこそ、あの生真面目な男が恋愛なんぞに現をぬかしてくれたのだ。
とはいえ、本当の聖杯戦争に比べたら、カルデアでの生活も随分平和な方だった。
だからランサーは空いている時間見つけては、不自然にならない程度に男を手合わせや酒宴に誘った。
男は予定が合えば付き合ってくれたが、忙しいと断ることもあった。
そんな3歩進んで2.8歩下がるような関係を続けていた時だった。
ある朝、突然マスターがあの男の顔を見て頬を赤らめたのだ。
ランサーは驚いて動けなかったが、その他のマスターに並々ならぬ想いを抱いている者達は、あっという間に臨戦体勢になり、即座にあの男に斬りかかった。
直後に入ったレオナルド・ダ・ヴィンチの放送のおかげで、男は余計な怪我を負わずに済んだが、ランサーは気が気ではなかった。
もしかして男とマスターとの間に、自分の知らないうちに何かが起こったのかもしれない。
そんなことを考えながら食べた朝食は、驚くほど味がしなかった。
その日の午後、一緒にレイシフトしたマスターはいつもと何も変わらなかった。
どうやら本当に夢見が悪かっただけらしく、その夢の内容を思い出した時にたまたまあの男が目の前にいたのだと、マスターは弁明した。
その夢のことは、ダ・ヴィンチに魔術処理を施してもらったようで、今となっては何も思い出せないらしい。
『エミヤには朝から申し訳ないことをしちゃったよ』
眉を下げて苦笑いする少女を、ランサーは黙って見つめる。
その言葉に嘘はないだろう。だってマスターの頭から、夢で見たものの情報はすでに消されている。今マスターを問い詰めても、何も得られない。
レイシフトを終えたランサーは、管制室にいたレオナルド・ダ・ヴィンチにもマスターの夢とやらについて聞いてみたが、プライバシーに関わるから何も言えない、と突っぱねられた。
悶々としながら夕食を終え、廊下を進んでいると、こっちの気持ちなど何も知らないあの男が前を歩いていた。
声をかけ、今朝のことを聞いてみるも、男の口は固く、ランサーが欲しい情報は得られなかった。
ついでに手合わせに誘ってみるも、そちらも今朝の災難で疲れているのか乗ってはこなかった。
男のとの間の距離は一向に縮まる気配はない。
それなのに時間だけは過ぎていく。
今朝のことは本当にただの事故だったとして、この次似たことが起こったとしても、また事故であるとは限らない。
本当にある朝突然、ランサー知らないところで、男が新しい恋人を作っている可能性もある。
そう思うと、ランサーの中でざわざわと焦りが生まれる。
前の時のように、さっさと手を出したほうがいいのか。
腹の中の獣が嗤う。
だが、あのやり方は性急だったと今のランサーは思うし、あの時はさすがに手段を選ばなさすぎたと少し反省もしていた。
だが、このまま毎日、声をかけるだけの日々を過ごしていても、何かが変わるとは到底思えない。
何か行動を起こさなくては。
アキレウスに手合わせに誘われたのは、そんな時だった。
断る理由などなく、並んでシミュレーターに向かっている時に、偶然、マスターとマシュと話しているあの男を見かけた。
振り向いたその表情で、男に何かあったことはすぐにわかった。
男は手合わせの誘いを断り、いつも通りの表情で去っていった。
だが、その背中はどこか弱々しく、ランサーには今にも崩れ落ちそうに見えた。
その瞬間、今のあの男をひとりにしてはおけないと思った。
それが恋人だった時の経験からくる直感だったのか、ランサーの恋心からきたものなのか、今となってはわからない。
ただ男を放っておくことはできず、ランサーはアキレウスに手合わせを断り、申し訳ない、次は必ず、と丁寧に謝罪した後、急いで男を追った。
だが、いざ男と対面し、言葉を交わしていくうちに、ランサーは遠くなってしまった男との関係をひどくもどかしく思った。
お前が思うよりも自分はお前のことを知っているし、前はそれが許される距離にいたのだと叫びたい気分になった。
いっそ全部ぶちまけてやろうかと思った時、その感情を最悪の形で男に悟られ、拒絶され、そして逃げられた。
自分の不甲斐なさ溜め息しか出てこない。
いっそ、前の時のように体から絡め取ってやろうか。
腹の中の獣がそう囁くが、それを振り払うようにランサーは勢いよく立ち上がる。
それはあくまで最終手段だ。
同じことをすれば、男はまた前の時のように思い悩むだろう。
ランサーだって、男を無為に悩ませたいわけではない。
しかし、このまま悩んでいる男を放ってはおけない。ひとりにしておきたくない。
純粋な心配だけではない。万が一、その悩みにつけ込んで、あの男を横から掻っ攫われでもしたら。あの顔を、自分以外の誰かに向けたら。
それこそランサーは、あの男を犯しかねない。
「……しょうがねぇ。いい加減、腹を括るか」
ランサーは気合を入れるように、両手で自分の頬を叩く。
そしてどこかにいる愛しい男を探すために、一歩、足を踏み出した。
*
男の前から逃げ出して2時間後。
エミヤはカルデアの空き部屋に、霊体化したまま閉じこもっていた。
胸の中に広がるのは自己嫌悪。一体何を1人で騒いでいるのか。本当に馬鹿馬鹿しい。
そう自分を罵ってみるも、嫌な気分が晴れるわけでも、やったことがなくなるわけでもない。
エミヤは深く息を吐いた。
冷静に考えれば、あの男は何ひとつ悪いことはしていない。
エミヤの様子が変だったから、同僚として気を回しただけ。エミヤが男の立場だったら、きっと同じことをするだろう。
それなのにエミヤは過剰に反応して、必要以上に拒絶するような態度を取ってしまった。
そんなことをしたら、自分の様子がおかしいと白状しているようなもの。なのになぜあんな態度を取ってしまったのかと、過去の自分を殴りたくなった。
しかも時が経ち、少しずつ頭が落ち着いてくると、まるで男が自分を追ってくると思っているような今の自分の行動が、無性に恥ずかしくなってきた。
きっとあの後、男はめんどくさそうな顔をして、あっさり自分の部屋に戻っただろう。
エミヤをわざわざ探し回ったりしない。それなのに、こんな隠れるような態度を取るなど自意識過剰が過ぎるのではないか。
そう思ったエミヤはすぐに霊体化を解き、自分の部屋に戻ることにした。
エミヤがいた空き部屋は管制室のすぐそばにあった。
空き部屋を出て、なんとなく廊下から管制室を覗くと、夜遅いにも関わらず、スタッフは昼間と変わらず忙しそうに動いている。そんな彼らの姿を見ていると、こんなことで悩んでいる自分がひどく情けなくなった。
さっさと部屋に戻って休もう。一晩寝れば、この気分も多少はマシになっているはずだ。
そう思い、管制室から離れた時だった。
「アーチャーじゃねぇか。こんな時間に珍しいな」
嫌と言うほど聞き覚えのある声に、思わず体が強張った。
そろりとエミヤが振り返れば、そこにいたのは水色のフードをかぶった男だった。
「キャスター」
エミヤはその名を口にした。
あの男と全くの同一人物であるはずなのに、あの男とはどこか雰囲気が異なる男。
それがクラスのせいなのか、霊衣のせいなのか、エミヤは判断できずにいる。
話せば、エミヤもよく知っているクー・フーリンなのだが、何かが違うのだ。
その証拠に、エミヤはランサーに恋をしたが、キャスターに対しては恋心を抱かなかった。
「そういや、槍持ちのオレが血眼でお前のこと探してたぜ。なんかやらかしたのか?」
その言葉に心臓が跳ねる。
あの男がエミヤを探している。あの後も、自分のことを追ってくれていた。
それに喜びそうになった心を、エミヤは即座に握り潰した。
そんなエミヤを、キャスターは杖を肩にかけてニヤニヤと見ていた。
フードの下から覗く赤い目が、愉しそうに歪んでいる。
きっとエミヤとランサーの諍いを面白がっているのだろう。
エミヤは小さく息を吐いた。
「別に。たいしたことではない」
「そうかい。まぁ、オレはお前らのことに口出すつもりはないが、仲直りするなら早い方がいいぜ。このカルデアだって、いつまでいられるかわからねぇんだからなぁ」
そう言って、キャスターはエミヤの横を通り過ぎた。
その時、ふとエミヤは思った。
このキャスターも、クラスや雰囲気は違えど、あのランサーと同じクー・フーリンである。
であるならば、この男の記憶がマスターに流れた可能性もゼロではない。
「キャスター」
「ん?なんだ?」
キャスターは足を止めて振り返った。
フードの下にある顔は、髪型こそ違えど、あの男と瓜二つだ。
「君は、かつてランサークラスだった時の記憶はあるのか?」
キャスターはエミヤの問いに、驚いたように目を瞬かせた後、何かを考え込むように腕を組んだ。
「うーんとな、そこんところが複雑なんだわ」
「複雑なのか?」
「ああ。詳しいことは言えねぇが、今のオレは本来のオレが持っていない力を他所から借りてる状態でね。そのせいで本来知るはずのないことまで見えちまうんだ。だが、それは記憶とや記録いう形じゃない。どちらかといえば、情報に近しい」
情報?とエミヤが聞き返す。
「簡単に言うと、記憶は主観で見る映像みたいなもんだろ?じゃなくて、オレのは文字情報に近い。体感はないが、そこで起こったことだけは知っている、みたいな」
キャスターの言葉を聞きながら、エミヤはかつて冬木であった大災害の光景を思い出す。
エミヤはあれを映像で覚えているが、経験したことのない人間はあの光景を知らず、『冬木で大きな災害があった』という文字上の情報しか知らない。キャスターが言っているのは、多分そういうことだろう。
「つまり、何があったかは知っているが、自分がそれを体験した感覚はない、ということか」
「そんな感じだ」
そう言ってキャスターは肩をすくめた。
ならば、やはりマスターの見た記憶はキャスターの物ではないのだろう。エミヤはそう結論付けた。
「なんだ?過去のことで気になることでもあったのか?」
「あぁ、君は」
そこまで口に出して、エミヤは動きを止めた。
これをキャスターに聞いてもいいものか。
聞いてどうしたいのか。エミヤにはわからない。
わからないが、ここで口を噤むのも不自然だ。エミヤはそのままキャスターに尋ねた。
「君は、かつて私がランサーと恋人だったことを知っているのか?」
聞いた瞬間、きっと引かれると思った。それを自分に聞いてどうするのだ、と問い詰められるのではないかと。
だが予想に反してキャスターは、ああ、そのことか、とさらりと答えた。
「さっきも言ったように、なれそめとか具体的なことはわかんねぇが、いつかの召喚で恋人だったのは知ってるぜ」
それがどうしたのかと言わんばかりの口調に、エミヤは思わず言葉を失った。
キャスターはその表情を違うように解釈したらしく、ニヤリと笑ってエミヤの顔を覗き込んだ。
「なんだ、槍持ちのオレがお前を探してんのはそれか。お前、あいつから付き合ってたことを聞いてビビって逃げたんだろ」
けらけらとキャスターはおかしそうに笑った。
だが、今ので確定した。やはりランサーは、エミヤと恋人だったことを知っているのだ。
「……ランサーは、いつからそのことを知っていたのかわかるか?」
「いつから?そんなの、あいつが召喚された時からに決まってんだろ。オレがそのことを知っているとわかるや否や、お前には絶対余計なことを言うなって、目ぇ吊り上げて釘刺してきやがったからな」
余計なこと。
やはり、あの男は自分にかつて恋人だったことを知られたくはなかったのだ。だからエミヤには言わなかった。
それは、今のエミヤと恋人になる気はないから。
ああ、なるほど。
勘違いでもなんでもなく、本当にエミヤはあの男に振られてしまったらしい。
その瞬間、体の真ん中にぽっかりと穴が空いたような気がした。
「ま、あいつだって悪気があって今まで黙ってたわけじゃねぇし、びっくりしたのはわかるが許してやれよ」
「許すも何も」
それらは全て、もはやエミヤには関係のないことだ。
中途半端に言葉を止めたエミヤを、キャスターは不思議そうに見る。
「お前、顔色悪いぞ。あいつと恋人だったのが、そんなにショックだったのか?」
「……そういうわけではない」
実際、恋人だったのは嬉しかったのだ。そんな世界もあったことを知って、もしかしたらと思ってしまった。
ショックだったのは、今の自分ではそれが叶わないこと。
向こうが、もうそれを望んでいないことがわかってしまったこと。
「もういいか?実は少し体調が優れなくて、医務室で診てもらった帰りなんだ」
「なんだ、そうだったのか。呼び止めて悪かったな」
キャスターはエミヤの嘘を全く疑わず、ゆっくり休めよ、と言って、今度こそエミヤに背を向けた。
どうやら管制室に向かうようだ。
「どこかにレイシフトするのか?こんな時間に?」
「ちょっと特異点Fにな。なに、ただの個人的な用事さね。お前さんはさっさと休むんだな」
そう言って、キャスターは片手をひらひらと振りながら、廊下の向こうに消えていった。
とどのつまり、エミヤはあの男に振られてしまったのだ。
自室へと向かいながら、エミヤはからっぽになった心のまま、そう結論づけた。
なら、これからどうしようか。
エミヤは黙々と足を動かしながら、ぼんやりと考える。
エミヤは失恋したが、これからもカルデアでの生活は続いていく。
男とは今後も、同僚として顔を合わせ続けることになるだろう。
だから絶対に、男との関係が気まずくなるようなことは避けたほうがいい。
間違っても、自分の気持ちに区切りをつけるために告白したり、過去に恋人だったことを男に聞いたりしてはいけない。向こうだって面倒だから言わなかったのに、その相手がわざわざ聞いきたら鬱陶しいことこの上ないだろう。
だから過去のことについてが、今後一切あの男に聞いてはいけない。
エミヤの片思いが終わろうが、あの男には全く関係のないこと。
あとはエミヤが、この腹の中で持て余している気持ちを処理するだけ。
まわりに悟られることなく、ひっそりと。
辛いのも悲しいのも、その発端となった愚かな恋心も、自分の中に全て埋めるのだ。
ふと、エミヤは見慣れた自室の扉の前で足を止める。
そうだな、だが、今日くらいは。
捨てるしかない恋を思って、ひとりで悲しみに打ちひしがれてもいいのかもしれない。
自嘲するように口の端を上げ、エミヤは扉を開けた。
「随分と遅いお帰りだな」
エミヤの部屋の中に、あの男がいた。
思わずエミヤは一歩下がり、そこが本当に自分の部屋か確認した。
壁に掲げられた部屋番号も、部屋の場所も、なんなら部屋の中の家具の配置も見覚えのあるもので、間違いなくそこはエミヤの部屋だった。
改めて部屋の中を見る。
男はベッドサイドに置いてある椅子に我が物顔で腰掛け、こちらに向かって軽く片手を上げていた。
なんだ、その態度は。
男のいつもと何も変わらない飄々とした様子に、なんだかエミヤは腹が立ってきた。
すぐさま部屋から出ていこうかと思ったが、そもそもここはエミヤの部屋だ。出ていくべきはこの男の方である。
そう思ったエミヤは、意を決して部屋の中に足を踏み入れた。
エミヤの後ろで、部屋の扉が静かに閉まった。
「入室を許可した覚えはない。さっさと出ていけ」
エミヤはきっぱりと告げた。
今は一人で静かに落ち込みたい気分なのだ。その元凶たる男が目の前にいては、おちおち沈んでもいられない。
「用が済んだら出てってやるよ」
喧嘩腰のエミヤに、男も挑むような目つきでゆっくりと腰を上げた。
ひとつにまとめられた青い髪が、さらりと男の体をなぞって落ちる。
その美しさすら、今はエミヤを苛立たせる材料でしかない。
「用とはなんだ。さっさと言え」
「ここで言ってもいいが、お前、なんでそんな離れたところに立ってんだ?ビビってんのか?」
揶揄うように言われ、エミヤの頭にカッと血が上る。
いつものエミヤだったら流せるような安い挑発。
だが、今のエミヤはいつものよりも感情的になっていた。
人の気持ちも知らずに好き勝手言いおって。
そこまで言うなら顔が近付くくらいまで距離を詰めてやろうか。
それで男が不快そうに顔を歪めてくれたら、少しはこの腹の虫もおさまってくれるかもしれない。
荒れ狂う感情に背を押されるように、エミヤは大股で男に近付いた。
そして嫌味なほどに整った男の顔が、エミヤの眼前に迫った時だった。
不意に、男の手がエミヤの胸元に触れた。
それは思わぬ距離感に驚いた男が、近付いてくる体を押し留めるために出したものだとエミヤは判断した。
ざまあみろとエミヤは唇を小さく歪め、さらに男に近付くために足を持ち上げた。
胸元に置かれた男の手に、ぐっと力が込められる。
そこまではエミヤも予想できたことだった。
だが、次の瞬間、地に着いていた足を払われ、そのまま隣にあったベッドに叩きつけられるなど思いもしなかったし、仰向けになったエミヤを押さえつけるように男が上に乗ってくるなど想像だにしていなかった。
しかも見下ろしてくる男の顔は、気味の悪いほどいつも通りだった。
怒りも苛立ちも不快感もない。そういや明日はロンドンにレイシフトするらしいぜ、といったごく普通の会話が始まってもおかしくない表情だった。
咄嗟に伸ばした手も男にベッドに縫い止められ、それでも無理矢理起こそうとした体は、男の膝で押さえつけられる。
何の意図を持ってこれが行われているのか、エミヤにはわからなかった。
男を下から睨みつけながら、エミヤは必死に思考を巡らせる。
もしかして、廊下で言い合った時のエミヤの態度に実はかなり腹を立てていたとか。よくも自分の気遣いを無下にしたな、と。表情がないのは怒りすぎているから。
だが、この男はそんなに狭量だっただろうか。
わからない。男の考えていることが驚くほど全く。
だって、エミヤは男と違って男と恋人だった頃のことなど何も覚えていないし、こういう時はこうしたらいい、なんて役立つ記憶があるわけではない。
だから。
「これは一体どういうつもりだ」
エミヤは真正面から聞いた。
これはもう聞くしか、この状況を打開する術はなかった。
男はエミヤを見下ろしたまま、当たり前のような口調で言った。
「別に?こうでもしねぇと、お前は逃げ出しそうだからな。話が終わるまで捕まえてるだけだ」
「ほう?ケルトでは相手を押さえつけないと話すらできないのか。随分と臆病なんだな」
「言ってろ。今度は逃がさねぇぞ。誰かさんがなかなか帰ってこなかったおかげで、仕込むには十分な時間があったからな」
男の言葉にハッとして、エミヤはすぐに霊体化を試みた。
だが、うまくいかない。まるでこの部屋に霊基が固定されているようだ。
手慣れた武器の投影すらできなくなっていた。
人の部屋に変な細工をしおって。
エミヤは舌打ちしたい気分になった。
「じゃあ、話をしようぜ、アーチャー」
男はエミヤを見下ろして、にやりと笑った。
いつもだったら多少はときめいたであろう顔だったが、この状況でそんな事を思う余裕はない。
「話すことなど何もない」
「オレにはある。テメェが今、何をぐちゃぐちゃ考え込んでるのか教えろ」
そう凄まれたところで、本当のことなど言えるわけがない。
ひょんなことから君と過去に恋人だったことを知ったが、君がそのことを言わないということは今は好きじゃないということで、それがショックで落ち込んでいた、などと口が裂けても本人には言えない。
かといって、押し倒されたままでいるわけにもいかない。
今エミヤの体に触れているのは、一応、思いを寄せている相手なのだ。こんな密着しているのは耐えられないし、至近距離でその整った顔を見ていたくはない。
何より、これ以上、男のことで心を動かされたくなかった。
「これが人に悩みを聞く態度かね」
「こうでもしねぇと、お前は素直に話さねぇだろうが」
その「エミヤのことをよく知っている」と言うような態度。
知っているくせに。よくわかっているくせに。
それなのに、この男は自分を選んではくれなかった。
ぎり、とエミヤは歯を噛み締める。
「うるさい。君が私を語るな。君が私の何を知っている」
その吐き捨てるようなエミヤの言葉に、男の目がわずかに揺れた。
それはこの部屋に来てから、男が初めて見せた動揺だった。
「……そりゃ悪かった」
自嘲するように男が口の端を歪めた。
その珍しい表情に、エミヤは思わず口を開く。
だが、なんと言っていいかわからず、そのまま口を閉じようとした時、男が言った。
「なら、教えてくれよ、アーチャー。お前が今、何を考えているのか」
男の目が、傷ついたように陰る赤色が、まるで縋るようにエミヤを見ていた。
やめろ、そんな顔をするな。
エミヤは必死に脳内で男を罵る。
そんな目で見ないでくれ。そんな顔をされたら、何もかもをぶちまけてしまいたくなる。
でも、そんなことをしたら、今まで通りではいられない。このカルデアでの男との関係は、あっさり壊れてしまうだろう。
生ぬるい片思いのままでよかったのに。
腹の底で、エミヤの恋が嘆く。
今ここで、エミヤが正直に付き合っていたことを知ったと男に白状して、それで男に、今は違うとはっきり宣告されてしまったら、エミヤの恋は本当に終わる。
その後、たとえ男の態度が今までと変わらなかったとしても、エミヤには男が気遣って表面上だけ今まで通りにしてくれている、ということがわかっている。そして、男にそんな面倒をかけさせてしまうような身勝手な選択をした自分を、エミヤはきっと呪うだろう。
自分のためにも男のためにも、そんな選択をするわけにはいかなかった。
だけど、男の目が訴えてくる。
言ってほしい、教えてほしい、と。
エミヤの胸がぎゅうと締め付けられる。
逃げようとするエミヤの足が、ひとつずつ潰されていく。
どうすれば。どうすればいい。
ああ、もう、一体どうしたら。
ただ恋をしていただけなのに。
どうして自分ばかり、こんなに悩まなくてはいけないのだ。
「くそ」
どうしようもない感情が、エミヤの口からこぼれ落ちる。
「くそ、くそ、くそ」
出てくるのはそんな単純な言葉ばかり。いつものように口が回らない。
言いたくない。言いたくない。
言っても何もならないし、エミヤにとっても向こうにとっても良いことなど何もない。
それが痛いほどわかっているのに。
ぎち、と奥歯が嫌な音を立てる。
だけど。
エミヤは自分の上にいる男を、これでもかと睨みつけた。
いつも飄々とした男。自信に満ち溢れている紅玉の目。
その目が、自分のせいで陰るのは耐えられない。
思いを寄せる相手に、こんな顔をさせたくはなかった。
「全部、君のせいではないか」
ぎちぎちと噛み締めていた歯の隙間から、悲しさと悔しさが織り混ざった声が溢れ出る。
「君が、おかしな記憶をマスター見せるから」
「マスターに?」
ランサーがきょとりと目を瞬かせた。
「なんだそれ。聞いてねぇぞ」
「君のものだと誰もわからなかったからな。おかげで私も頭を悩ませる羽目になった。私が思い詰めているように見えたのは、そのせいだ。まさか私が」
そこで一瞬言葉に詰まったのは、エミヤの恋心の最後の抵抗だったのかもしれない。
「君と、かつて恋人だったとは」
エミヤの言葉に、男の目が大きく見開かれた。
その驚いている顔すら無神経なものに思えて、エミヤはもう一度、くそ、と吐き捨てた。
手が自由だったら、間違いなく男を殴っていただろう。
「何故、無理矢理言わせるようなことをした!私が知らないふりをしていれば、今まで通り過ごせたんだ!君だって私が知らない方が都合がよかったんだろう。だから君は、私に恋人だったことを言わなかった!」
「違う!」
男の叫びが、エミヤの慟哭をかき消した。
静まり返った部屋に、エミヤの荒い息の音だけが響く。
少しの沈黙の後、男はもう一度、違う、と呟いた。
「……悪かった、アーチャー」
男の口から溢れたのは、ありふれた謝罪の言葉だった。
それが何に対してのものなのか、エミヤはもう考えたくはなかった。
「お前が隠そうとしていたものを強引に暴いて悪かった。オレが黙っていたせいで、過去のことでお前を必要以上に動揺させてしまったことも」
それはその通りだ、とエミヤは思う。
男がこんな強引な手法さえ取らなければ、明日も変わらずに過ごせていたはずなのに。
そんなエミヤの気遣いを、この男は無下にした。
「だが、言わせてくれ、アーチャー。オレがお前とそういう関係だったことを言わなかったのは、お前が思っているような理由じゃない。オレは」
一瞬の間。
覚悟を決めたように、男はエミヤを見つめた。
その目にもう陰はない。いつもの、憎らしいほど澄んだ赤色で。
「お前が望む方法で、もう一度お前に惚れてほしかったんだ」
想像もしていなかった答えに、今度はエミヤが目を見開く番だった。
言葉を失うエミヤに、男は押さえつけていた手を離し、エミヤの上から退いた。
しばらく呆然としていたエミヤだったが、はたと自身の体が自由になったことに気付き、上体を起こした。
ずっとエミヤを捕まえていた男は、エミヤと向かい合う形でベッド上に座っていた。
「お前、前のオレらがどうやって恋人になったのか知っているのか?」
少し考えた後、エミヤはふるふると首を横に振った。
エミヤが知っているのは、かつて恋人だった、ということだけだ。馴れ初めや詳しい話は誰からも聞いていない。
すると男は少し言いにくそうな素振りをした後、ゆっくりと口を開いた。
「きっかけは、オレがお前の住んでたアパートに酒を持って行ったことだ。ほら、戦いのない場に召喚されたのも何かの縁だ。せっかく同じ所にいるんだし、仲良くしていた方がお互い楽しいじゃねぇか。だから、お前を酒に誘った」
なるほど、この男が考えそうなことだ、とエミヤは頷いた。
「……というのは、お前の家に上がり込む建前。本当は下心があるから行った」
「下心?」
思わず聞き返す。
もしかして、それはエミヤのかつてのマスター、遠坂凛が目的だったという意味だろうか。
彼女のことは、この男も気に入っているようだった。だからエミヤと親交を深めることで、遠坂凛との繋がりを得ようとしたのではないか。
そう言うと、男は違ぇよ、と不満そうに口を尖らせた。
「オレの目的はお前だ」
「私が目的とはどういう……」
「そのままの意味だ。惚れたから抱こうと思って行った」
その言葉に、エミヤは頭を殴られたような衝撃を受けた。
「君は」
エミヤの頭は真っ白だった。
ただ口だけが勝手に動いた。
「君は、私のことが好きだったのか?」
「だから恋人だったっつってんだろうが!」
声を荒げる男に、いや、そうじゃなくて、とエミヤは口籠る。
「その、私の家に来る前から、という意味で……」
「あぁ、そういうことか。……そうだな」
至極あっさりとその事実を認めた男に、エミヤは呆気に取られた。
「な、なんで……」
「理由か?んー、腹立つところもいっぱいあるし、気に食わないと思うところもあるが、それらをひっくるめても、お前は良い男だと思ったからな。あと、意外とかわいいところもあるし、飯もうまい」
エミヤは自分が夢を見ているのではないかと思った。
男にベッドに叩きつけられた瞬間に意識を失い、現実のエミヤはまだ寝ているのではないか。
出なければ、かの大英雄で、エミヤが思いを寄せる相手が、こんなことを言ってくるはずがない。
言葉を失うエミヤを無視して、男は話を続けた。
「で、馴れ初めだったか。そういう下心を持ってお前の部屋に行ったオレは、お前に酒を飲ませて酔いでぼーっとしているお前に、今日付き合ってくれた礼に魔力を分けてやるよっつって、お前を抱いた」
「だっ、抱いた、のか……?」
恐る恐る尋ねるエミヤに、男は、おう、と軽い調子で答える。
「んで、次の日も丸一日だらだら寝て一緒に過ごした。この時点で、オレはお前に追い出されなかったから、受け入れられたんだと思って、そのままお前の部屋に住み着いた。つまり、めでたく恋人になったとオレは思ったわけだ。……だが、お前はそうじゃなくてなぁ。オレがいるっつーのに、ふらふら別の奴の誘いに乗ろうとするから、満足できてないのかと思ってもっと抱くだろ?で、そういうのを何回も繰り返した結果、ある日お前が突然、出てけってキレて、オレも急になんでだよってキレ返して大喧嘩して、その時初めてお前の方に付き合ってる認識がなかったことを知ったんだよ。いやぁ、マジでびっくりした」
男は懐かしそうに目を細めた後、エミヤの顔を見て気まずそうに視線をそらした。
「……つまりな、ちゃんと付き合うまで結構ゴタゴタしたんだよ。付き合ってからもお前にチクチク言われるくらいにはな」
それはそうだろう、とエミヤは思う。
話を聞く限り、男は前のエミヤに決定的な言葉を言わなかった。だから、当然エミヤは体だけの関係だと思った。
そしておそらく、前の自分もきっと男に恋をしていたのだ。
だから、体だけの関係というなら、自分も男に依存しないように他の相手とも関係を持とうとし、それを男に邪魔され、相手の意図も自分の感情もわからなくなり、最終的に爆発したのだろう。
でな、と男が続ける。
「前のお前が座に還る寸前にオレに言ったんだ。『次はもう少し紳士的なアプローチをしろ』ってよ」
「私が?」
「ああ。だから、ここじゃ強引に抱いたりせず、そういう下心も見せず、紳士的に誘っていたんだぜ?」
そう言って、男がエミヤを見た。
その視線には、今まで男から感じたことのない色が含まれていて、思わずエミヤの喉がごくりと鳴った。
「……まぁ、今日は勢いで押し倒しちまったが、それはそのくらいお前のことで必死になっていたということで許してくれ。オレがお前に過去のことを言わなかったのは、そういうわけだ」
『お前が望む方法で、もう一度お前に』
少し前に男が言っていた言葉が頭を過ぎる。
それはつまり。
エミヤは震える喉を叱咤して口を開ける。
「君は、私のことが好きだったのか……?」
先程と同じ問いかけ。
エミヤの言葉に、男は答えた。
「おう、好きだぜ」
当たり前と言わんばかりのさらりとした男の態度。
その瞬間、エミヤの腹の底からぶわりと何かが込み上げてきた。
嬉しいという言葉では収まりきれないような感情の塊が、出口を求めてエミヤの体の中を暴れ回る。それを堪えようと、エミヤは必死に唇を噛み締めた。
「で、オレの記憶をマスターが見たっつーのはどういうことなんだよ」
男が平然とそんなことを聞いてきたので、エミヤは慌ててマスターの夢に端を発した一連の出来事を説明した。
ふんふんと頷きながら話を聞いていたランサーは、あの騒動の真相を知り、そんなことになっていたのか、とひどく驚いたようだった。
「なるほどなぁ。それであの朝の騒ぎに発展したわけか。……え、でも、それオレのせいか」
「……サーヴァントである以上、仕方のないことと言ってしまえばそれまでだが、それで私だけ殺されかけては文句のひとつくらい言いたくはなるだろう」
「まぁ、それもそうか。それにしても、マスターにはちょっと刺激が強かったか」
けらけらと笑う男を、エミヤはぎろりと睨みつける。
「そもそも君が私と過去に恋人だったことを前もって言っていれば、今日だってこんな揉めずに済んだのではないかね」
「しょうがねぇだろ。こっちだっていろいろ事情はあったんだよ。だいたいお前の方こそ、オレが恋人だって知った時点でオレに素直に聞きにこればよかっただろうが」
「それは」
エミヤは思わず口籠る。
それは多分、男の言う通りだ。
ただ、エミヤは男が過去のことを言わなかった理由を邪推し、何も聞かないことを選んだ。それが今後、カルデアで男と今まで通り過ごすためにも1番良いと思っていた。
「……私にも、いろいろ事情があったのだ」
「ふぅん、事情ねぇ」
男が疑わしげに目を細める。
「というか、お前、オレと前に付き合ってたって聞いて、今もオレがお前に惚れてるとは思わなかったのかよ」
「思うわけないだろう。君は惚れたらすぐに手を出すタイプだということは知っていたからな。私の貞操が無事な時点で、その可能性は除外されている」
「お前なぁ、前科があるとはいえ、オレだってそこまで節操なしの阿呆じゃねぇぞ。この今のカルデアの状況で、お前に襲いかかるわけねぇだろ」
「そうなのか?」
「そうだよ!それとも何だ?お前はオレに襲ってほしかったのかよ」
「ああ」
簡潔なその言葉で、部屋の中の時間がぴたりと止まったような気がした。
男の赤色が、信じられないものを見るようにエミヤに向けられる。
「……お前、今の状況わかって言ってんのか」
男の喉から出たのは、唸るような低い声だった。
閉鎖された空間で、霊体化を封じられ、魔力も制限されている。間違っても、この男に力で勝てる状況ではない。
そんな状況で、自分を誘うような言葉を吐いていいのか、と男は問うてきた。
エミヤは男の目を見て、平然と答えた。
「ああ」
男は、ふぅぅ、とゆっくり息を吐き、苛立たしげにがりがりと髪を掻いた。
「お前の意図がわからん。なんだ、とりあえずオレの機嫌を取って、この状況を乗り切ろうとしているのか?だったら、随分と舐められたものだ」
じわりと男から溢れ出す重い殺気と共に、男の目が鋭く冷たいものに変わっていく。
それでもエミヤは怯むことなく、いつもの皮肉めいた笑みを口元に浮かべる。
「おや、わからないのか?君も随分と察しが悪くなったものだ」
「察しも何も、テメェが意味のわからないことを言うからだろうが」
「わかりやすく言ったではないか。襲ってほしかったと」
「この状況でそれを言う意味がわからんと言っている」
「なぜ?」
エミヤは見せつけるように、ゆっくり首を傾げてから言った。
「ずっと好きだった相手にそう言って、何が悪い」
男の驚いた顔が見えたのは一瞬だった。
エミヤの体が勢いよくベッドに沈む。男の手がエミヤの手首に触れる。指が絡まる。2人分の重みで沈んだベッドが弾む。イヤリングがぶつかる音。足の間に男の体が入ってくる。
青色が揺れる。
「アーチャー」
荒い息の合間に、男の声が聞こえた。
唇に感触。焼けるような熱。ぬるりとした塊が口の中に差し込まれる。
飲み込まれる、とエミヤは思った。
それは男にとっては久しぶりの、エミヤにとっては初めての、愛しい相手との口づけだった。
終わり
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前の召喚時のひどい馴れ初めをいつか書きたいと思うにゅーいやー