三国志・後漢書の同人物の伝記を載せているものもある。そのなかで荀彧伝がもっとも取り沙汰されるものではないだろうか。
その両伝の全体にわたってのテキストの異同をとりあげ、三国志後漢書(范書)の比較をしてその相異を明らかにしたいと思う。
基本的に范書の方が成立が遅いので、范書を軸にみていく。


字句の追加は、赤文字で示す
相異におのおの対応関係があると認められる場合、おのおの緑文字で示す。
下線を引いて注釈をする。


三国志
荀彧、字は文若、潁川潁陰の人なり。祖父の淑、字は季和、朗陵令たり。漢の順、桓の間に當たり、當世に名を知らる。八人の子有りて、號して八龍と曰う。彧の父の緄、濟南相たり。叔父の爽、司空たり[1]
彧の年少き時、南陽の何顒これを異とし、曰く
「王佐の才なり」と

范書
荀彧、字は文若、潁川潁陰の人、朗陵令の淑の孫なり。父の緄、濟南相と為る[1]
緄は宦官を畏れ憚り、乃ち彧の為に中常侍の唐衡の女を娶る[2]
彧は少きを以て才名有り、故に譏議より免れ得[3]。南陽の何顒に人を知るの名あり彧を見てこれを異とし、曰く
「王佐の才なり」と

[1] 范書が父祖の紹介を簡略に済ませているのは、同書中には荀淑・荀爽の伝が立てられているからだろうか。
[2] 范書は、三国志が採用しなかった唐衡の娘との結婚の記事を採用している。(裴注:典略にある)
[3] 范書は、党錮時代における動向を小さく記す。范書が重要視しているところなのだろうか。



三国志
永漢元年[4]、孝廉に舉げられ、守宮令を拝す[5]董卓の亂るるや、出でて吏を補さんことを求む。亢父令に除せられ遂に官を棄てて歸り、父老に謂いて曰く
「潁川、四戰の地なり。天下に變有らば、常に兵衝と為る。宜しくすみやかに之を
去り久しく留まること無かるべし」と
郷人多く土に
懷きて猶豫したまたま冀州牧の同郡の韓馥は騎を遣りてこれを迎うも、隨う者有る莫く彧は獨り宗族をひきいて冀州に至る

范書
中平六年[4]、孝廉に舉げられ、再び遷りて[5]亢父令となる。董卓の亂るるや、官を棄てて郷里に歸る同郡の韓融は時に宗親千餘家をひきいて、密の西の山の中に亂を避く[6]。彧は父老に謂いて曰く
「潁川、四戰の地なり。天下に變有らば、常に兵衝と為る。
密は小固なりといえども、以て大難をふせぐに足らず、宜しくすみやかに之を避くべし」と。
郷人は多く土に懷きて去る能わずたまたま冀州牧の同郡の韓馥は騎を遣りてこれを迎え、彧は乃ち獨り宗族をひきいて馥に從う留まる者後に多く董卓の將の李傕に殺略さるる所と為る[7]

[4] いずれも同年(189年)のことである。
[5] 三国志は官歴を記録し、范書ははぶく。
[6] 韓融の避難は、范書にしかない。190年6月以降に、韓融は朝廷から使者として関東へ派遣されている(献帝紀)。
[7] 郷里の人々が李傕に殺略される記事は、范書と三国志で位置が大幅に前後している。下段へ。


三国志
而して袁紹は已に馥の位を奪い、上賓の禮を以て彧を待す。彧の弟の諶及び同郡の辛評、郭圖、皆な紹の任ぜらる所と為る[8]彧は紹のついに大事を成す能わざるをはか[9]
時に太祖は奮武將軍と為り、東郡に在り[10]、初平二年、彧は紹を去りて太祖に從う。太祖は大いに悅びて曰く
「吾
子房なり」と。
以て
司馬と為し、時に年二十九なり。
是の時、董卓天下に威陵し、太祖は以て彧に問い、彧曰く
「卓の暴虐已に甚しく、必ずや亂を以て終え、能く為すこと無からん。」
[11]
卓は李傕等らを遣りて關東に出ださしめ、過ぎる所を虜略し、潁川、陳留に至りて還る。郷人の留まる者多く殺略せらる[7]
明くる年、太祖は兗州牧を領し、後に鎮東將軍と為り彧は常に司馬を以て從う[12]

范書
彧の冀州に至るにおよびて、而して袁紹は已に馥の位を奪い、紹は上賓の禮を以て彧を待す。彧は明らかに意數有りて、漢室の崩亂するを見、每に匡佐の義を懷く[9]
時に曹操は
東郡[10]に在りて彧は操に雄略有るを聞き而して紹のついに大業定める能わざるをはか[9]。初平二年、乃ち紹を去りて操に從う。操はともに語りて大いに悅びて、曰く
「吾が子房なり」と
以て奮武司馬と為り、時に年二十九なり。
明くる年、又た操の鎮東司馬と為る[12]

[8] 荀諶・辛評・郭図について、范書は削除する。
[9] 范書は「度紹終不能定大業(成大事)」の文言を分割し、「彧明有意数~懷匡佐之義」の文言を挿入している。
[10] 范書は、奮武将軍を削除する。のちに「奮武司馬」となったことから推測しろということか。
[11] 范書は、荀彧の董卓評を削除する。
[12] 三国志は、「いつも司馬として従った」とにごす。
  范書は、「鎮東(将軍)の司馬」とはっきり紹介する。


三国志
興平元年、太祖は陶謙を征し、留事を彧に任す。
たまたま張邈、陳宮は兗州を以て反き、潛かに呂布を迎う。布は旣に至り、邈は乃ち
劉翊をして彧に告がしめて[15]曰く
「呂將軍は來りて曹使君の陶謙を撃つを助けんとす。宜しくすみやかに
其の軍食を供すべし」と。
衆は疑い惑う。彧は邈の亂を為すを知り、即ち兵をろくし備えを設け、馳せて東郡太守の夏侯惇を召すも[16]兗州の諸城皆な布に應ず[14]
時に太祖の軍の悉くは謙を攻め、留守の兵少なく、而も督將大吏の多くは邈、宮の通謀に與る。惇は至りて、其の夜謀叛する者數十人を誅し、衆乃ち定む[17]
豫州刺史郭貢は衆數萬を帥して来たりて城下に至り、或るもの言えらく呂布と謀を同じくすとし、衆甚だ懼る。貢は彧に見えんことを求め、彧は將に往かんとす。

范書
興平元年、操は東のかた陶謙を撃ち彧をして甄城を守らしめ[13]、以て留事を任す。
たまたま張邈、陳宮は兗州を以て操に反きて、潛かに呂布を迎う。布既に至り、
諸城悉く之に應ず[14]。邈は乃ち人をして彧を譎かしめて[15]曰く
「呂將軍は來りて曹使君の陶謙を撃つを助けんとす。宜しくすみやかに
軍實を供すべし」と。
彧は
邈に變有るを知り、即ち兵をろくし備えを設け、故に邈の計行われず[17]
豫州刺史の郭貢は
兵數萬を率いて來たりて城下に到り、彧に見えんことを求め、彧は將に往かんとす。

[13] 范書は、荀彧の居城をあきらかにする。
[14] 范書は、早めにネタバレする。
[15] 范書は、荀彧をだまそうとした手下人をはぶく。
[16] 范書は、夏侯惇の召還をはぶく。
[17] 范書の「邈の計行われず」とは、夏侯惇らがおこなった足元の謀叛を防いだことをいうのだろうか。


三国志
惇等曰く
君、一州が鎮なり。往かば必ずや危うからん。可からず
彧曰く
「貢と邈等と、分として素より結ぶには非ざるなり。今來りて速やかなるは、計必ずや未だ定まらざるがためなり。
其の未だ定まらずに及びて之を説く。に用いること為さざれど、中立さしむる可し。し先ずこれを疑わば、彼の將は怒りてを成す」
貢は彧の懼意無きを見、謂えらく鄄城未だ攻めるに易からずとし、遂に引きて兵を去る又た程昱と計り、說かしめ、范、東阿、卒に三城全うし、以て太祖を待つ。太祖は徐州よち還りて濮陽に布を撃ち、布は東のかたに走る。
二年夏、太祖は乘氏に軍し、大饑ありて、人相い食う[18]

後漢書
東郡太守んの夏侯惇等これを止め、曰く
何ぞ貢の呂布の同あずからずを知りて、輕く之と見えんと欲すか今、君は一州の鎮為り。往かば必ずや危うからん」と。
彧曰く
「貢と邈等と、分として素より結ぶには非ず。今來りて速やかなる者、計必ずや未だ定まらざるがためなり。其の猶豫に及び、宜しく時に之を説くべし。縱に用いること為さざれど、中立さしむる可し。し先ず疑嫌を懷かば、彼の將は怒りてを成す。往くに如くはなきなり」と。
貢はあ既に彧の懼意無きを見、城攻む可からざるを知り、遂に引きて去る彧乃ち程昱をして説かしめ、范、東阿をして其の守りを固めさしむ。卒に三城全うし、以て操を待つ。

[18] 范書は、飢饉を記さない。


三国志
陶謙死し、太祖遂に徐州を取らんと欲し、還りて乃ち布を定む。
彧曰く
① 昔、高祖は關中を保ち、光武は河內に據る。皆な根を深くし本を固くし、以て天下を制す。進みては敵に勝つを以て足り、退きては堅く守るを以て足り、故に困敗有りといえども、而してついには大業をす。
② 將軍は本より兗州を以て首事とし、山東の難を平らげ百姓は心を歸して悅びて服さざるもの無し。且つ河、濟[19]天下の要地なり。今殘壞すといえども、猶お以て自ら保つこと易く是れ亦た將軍の關中、河內なり
 先んじて定めざるを以て可からざるなり
 今、李封、薛蘭を破るを以て、し兵を分かちて東のかた陳宮を撃たば、宮は必ずやあえて西のかたを顧みざらん。
 以て其の閒に兵をろく熟麥をとらえ、食を約し穀をたくわ一舉して布を破る可し[20]布を破るや、然る後に南のかた揚州と結び、共に袁術を討ち、以て淮、泗に臨む
⑥ し布舎て東するに、多く兵を留むれば則ち用うに足らず少なく兵を留むれば則ち民皆な城を保ち樵を採るを得ず。
⑦ 布は虛に乘じて寇暴し、民心ますます危うくし唯だ鄄城、范、衞のみ全うする可し其の餘は己有するに非ず、是れ兗州無からんやし徐州定めざれば、將軍當にいずくの所にか歸るべき乎。
⑧ 且つ陶謙は死すといえど徐州未だ亡び易からざるなり。彼は往年の敗に、將に懼れて親しく結び、相い表裏を為すべし。
⑨ 今、東方皆な麥をとらうを以て必ずや壁を堅くし野を清くし、以て將軍を待たん。將軍はこれを攻めて抜けず、これを略して獲るもの無く、十日[21]を出でず、則ち十萬の衆未だ戰わずしておのずからくるしむのみ[22]
⑩ 前に徐州を討ち威罰は實に行われ、其の子弟父兄の恥をおもい、必ずや人自ら守を為さん降心無くんば就きて能くこれを破れども、尚お有する可からず
⑪ 夫れ事なるものもとより此れを棄て彼れを取る者有り、大を以て小に易うは可なり、安きを以て危うきに易うも可なり。一時の勢いにはか本の固まらずを患えずも可なり。今、三者に利莫く、願わくば將軍これを熟慮せんことを」と。
太祖乃ち止む
大いに麥をとらえ、復た布と戰い、
兵を分かちて諸縣を平げ、布敗走し[23]、兗州遂に平らぐ。

後漢書
二年、陶謙は死し、操は遂に徐州を取らんと欲し、還りて呂布を定む。彧諫めて曰く
① 昔、高祖は關中を保ち、光武は河內に據る。皆な根を深くし本を固くし、以て天下を制す。進みては敵に勝つを以て可なり、退きては堅く守るを以て足り、故に困敗有りといえども、而してついには大業をす。
將軍は本より兗州を以て首事とし、故に能く山東を平定し此れ[19]實に天下の要地なれば、而も將軍の關河なり
③ し先んじて之を定めざれば根本としてた何にか寄らん乎?
④ 宜しく急ぎ分かちて陳宮を討ち、虜をして西のかたを顧みるを得ざらしむべし
⑤ 其の閒に乘じて熟麥をとらえ、食を約して穀をたくわ以て一舉に資せば、則ち呂布破るに足らずなり[20]
⑥ 今、これ舎て東するに、未だ其の便を見ず。多く兵を留むれば則ち力は敵に勝たず少なく兵を留むれば則ち後えは固くするに足らず
⑦ 
布は虛に乘じて寇暴し、
人心を震えゆるがし縱い數城或いは全うすれど其の餘復た己が有するに非ず、則ち將軍は尚おいずくにか歸らん乎?
⑩ 且つ前に徐州を討ち威罰は實に行われ、其の子弟父兄の恥をおもい、必ずや人自ら守を成さん。就きて能く之を破れども、尚お保つ可からず。
⑨ 懼れて相い結び、共に表裏を為し、壁を堅くし野を清くし、以て將軍を待たば、將軍これを攻めて抜けず、これを掠めて獲るもの無く、一旬[21]を出でず、則ち十萬の衆未だ戰わずしておのずからくるしむ[22]
⑪ 
夫れ事なるものもとより彼れを棄て此れを取ること有り、以て一時の埶をはかる。願わくば將軍は慮らんことを」と。
操は是に於いて大いに麥をとらえ、復た布と戰い、布は敗走し、因りて分かちて諸縣を定め[23]、兗州遂に平らぐ。


[19] 范書は、具体的な地名を「此れ」としてはぶく。
[20] 三国志は、「曹操が一挙すれば呂布を破ることができるだろう」
  范書は「一挙のもとでとすれば、〔兵糧がなくなって〕呂布が我が方を撃破できなくなるだろう」とする
[21] 一旬は、十日のこと。
[22] 三国志は、「必ず~のみ」と断定する。范書は、「若し~」と柔らかくする。
[23] 范書は、因果関係を反対にする。


三国志
建安元年、太祖黃巾を撃破す。
漢獻帝河東り洛陽に還る。太祖議して奉迎して許に都せんとす或るもの未だ山東の平がずを以て、韓暹、楊奉新たに天子をひきいて洛陽に到り、北のかた張楊と連し[24]、未だにわかに制す可からずとす。
彧太祖に勧めて曰く

「昔、晉文公は周襄王をれ、諸侯はかげのごとく從い、高祖は東のかたを伐ち義帝の為に縞素して、天下心を歸す。天子播越して[25]、將軍おびととなりて義兵を唱え、徒だ山東の擾亂を以て、未だ能く遠く關右に赴かず[26]然るに猶お分かちて將帥を遣り、險を蒙り使を通わし、外に難をふせぐといえども、乃ち心王室に在らざること無し。是れ將軍の天下をただすの素志なり
車駕[27]よこぎめぐらし、東の京は榛蕪なり、義士本を存せんの思い有り、百姓舊を感じて哀を增す[28]
誠に此の時に因り、主上を奉じて以て
が望に從うは、大順なり。至公をりて以て雄傑を服さしむは、大略なり。弘義をたすけて以て英俊をまねくは、大德なり。天下に逆節有りといえども、必ずやわずらいを為す能わざるは、明なりや
韓暹、楊奉其れ敢えて害を為さんか。し時に定めざれば、四方心を生み、後に之を慮るといえども、及ぶこと無し」と。
太祖遂に洛陽に至り、天子を奉迎して許に都す。

後漢書
建安元年、獻帝河東り洛陽に還る。操議して車駕を奉迎し、許に都を徙さんと欲す衆多くは山東の未だ定まらずを以て、韓暹、楊奉功を負いて恣睢なれば[24]、未だにわかに制す可からずとす。
乃ち操に勧めて曰く
「昔晉文公周襄王をれて、諸侯かげのごとく從い、漢高祖義帝の為に縞素して、天下心を歸す。天子蒙塵して[25]、將軍おびととなりて義兵を唱え、徒だ山東の擾亂を以て、未だ遠く赴くいとまあらず[26]、外に難をふせぐといえども、乃ち心王室に在らざること無し。
鑾駕[27]よこぎめぐらし、東の京は榛蕪なり、義士本を存するの思い有りて、兆人舊を感じるの哀を
懷く[28]
誠に此の時に因り、主上を奉じて以て
が望に從うは、大順なり。至公をりて以て天下を服さしむは、大略なり。弘義をたすけて以て英俊をまねくは、大德なり。四方に逆節有りといえども、其の何をか為す能うか。
韓暹、楊奉、安んぞうれえるに足るかな。
し時に定めざれば、豪桀をして心を生ましめ、後に為に慮るといえども、亦た及ぶこと無し」と。
操之に從う。

[24] 范書は、韓暹楊奉の具体的状況をはぶく。
[25] 三国志「天子播越」:左伝 昭公二十六年より。
  范書「天子蒙塵」:左伝 僖公二十四年より。
[26] 三国志は「関右」と具体的な地域を示す。范書は、「とおいところ」という。
[27] 車駕鑾駕も、同義である。
[28] 百姓兆人も、たくさんの人。范書は、対句をつくる。


三国志
天子太祖をして大將軍を拝さしめ進めて彧を漢侍中、守尚書令と為す。
常に中に居り重きを持ち太祖征伐し外に在るといえど、軍國の事、皆な彧のさくあずかる。太祖彧に問いて
「誰か能よく卿に代わり我の為に謀る者ありや」と。
彧言う
「荀攸、鍾繇なり」と。

是れより先、彧言えらく策謀の士とし、戲志才を進む。志才卒し、又た郭嘉を進む。太祖彧を以て人を知ると為し、進達する所の諸皆な職にかな、唯だ嚴象楊州と為り、韋康涼州と為り、後に敗亡す

後漢書
帝許に都するに及び、彧を以て侍中、守尚書令と為す。
操征伐し外に在るごと、其の軍國の事、皆な彧のさくあずかる。
彧又た操に
計謀の士を進めて從子の攸、及び鍾繇、郭嘉、陳群杜襲司馬懿、戲志才ら、皆なその舉にかな、唯だ嚴象楊州と為り、韋康涼州と為り、後に並びに負敗す






三国志
太祖の天子を迎えてり、袁紹內に不服を懷く。紹旣に河朔を并せ天下其の彊を畏る。太祖方に東のかた呂布を憂い、南のかた張繡を拒み、而して繡宛にて太祖の軍をして敗けさしむますます驕り、太祖に書をあた其の辭悖慢なり[29]。太祖大いに怒り、常の出入動靜に變あり、衆皆な謂えらく張繡に利を失うを以て故なりとす
鍾繇以て彧に問い、彧曰く
「公の聦明なるは、必ずや往事を追咎せざらん。ほとんど他慮有らん」

則ち太祖見えて之に問い[30]太祖乃ち紹の書を以て彧に示し、曰く
「今將に不義を討たんとせしも、力敵わず。何如いかん?」[31]
彧曰く
「古の成敗なる者、誠に其の才有り、弱といえども必ずや彊となり、いやしくも其の人に非ざれば、彊といえども弱に易う。劉、項の存亡、以て觀るに足る。今公と天下を爭う者、唯だ袁紹のみ。
紹の貌外寬にして內忌なり、人に任せて其の心を疑い、公明達にして拘わらず、唯だ才のみを宜しき所とし、此れ度の勝れるなり。
紹遲重にして決少なく、在るを失い機に後れ、公能く大事を斷じ、應變にして方無く、此れ謀の勝れるなり。
紹軍を御すに寬緩なり、法令立たず、士卒衆しといえども、其の實用い難く、公法令旣に明らか、賞罰必ず行われ、士卒寡しといえども、皆な爭いて死を致す、此れ武の勝れるなり。
紹世の資にき、從容として智を飾り、以て名譽を収え、故に士の能寡なく問うを好む者多く之に歸し、公至仁を以て人を待し、誠心を推して虛美を為さず、己を行うに謹儉なれど、功有る者にあたうに恡惜する所無く、故に天下の忠正效實の士な為に用いられんことを願う、此れ德の勝れるなり。
夫れ四つの勝れるを以て天子を輔し、義をたすけ征伐せば、誰をか敢えて從わんや。紹の彊其れ何をか能く為さんや」と[32]

太祖悅ぶ。彧曰く
「先ず呂布を取らざれば、河北亦た未だ図るに易からずなり」と[33]

太祖曰く
「然り。吾の惑う所の者、又た紹の關中を侵擾し、羌、胡を亂し、南のかた蜀、漢を誘うを恐る。是れ我獨り兗、豫を以て天下六分の五を抗うなり。為に柰何いかん?」と。
彧曰く
「關中の將帥十數以て、能く相い一する莫く、唯だ韓遂、馬超最も彊し。彼の山東方に争うを見るや、必ずやおのおの衆を擁し自ら保たん。今し恩德を以て撫し、使を遣りて連和し、相い持たば久しく安らぐ能わざれど、公の山東を安定するころおいには、動かざるを以て足る。鍾繇以て西事をたくす可し。則ち公憂うこと無からん」と[34]


後漢書
袁紹既に河朔の地を兼ね、驕氣有り。而も操の張繡に敗れるや、紹操に書をあたえるに甚だ倨なり[29]操大いに怒り、先ず之を攻めんとするも、而るに力敵わずをうれえ、以て彧に謀る[31]。彧量りて紹強しといえども、ついには操の制する所と為り[32]乃ち先ず呂布を取り、然る後に紹を図らんと説く[33]。操之に從う。
三年、遂に呂布をとらえ、徐州を定む[35]


[29] 内容が前後する。
[30] 范書は、諸将が疑う逸話を削除する。
[31] 范書は、会話をはぶく。
[32] 范書は、四勝論をはぶく。
[33] 范書は、発言をはぶく。
[34] 范書は、荀彧の関中論を削除する。
[35] すこし位置がずれている。


三国志
三年太祖旣に張繡を破り東のかた呂布を禽え、徐州を定む[35]
遂に
袁紹ともに相い拒む。孔融彧に謂えらく曰く
「紹の地廣く兵彊く;田豐、許攸、智計の士なり、
為に之を謀る。審配、逢紀、盡忠の臣なり、其の事を任す。顏良、文醜、勇三軍に冠たり、其の兵を統ぶ。ほとんど克ち難し乎」と。
彧曰く
「紹兵多しといえどども法整わず。田豐剛にして上を犯し、許攸貪にして
治まらず。審配專らにして謀無く、逢紀果にして自ら用う。此の二人留めて後の事を知らしむ、し攸の家其の法を犯さば、必ずやほしいままにする能わずや、ほしいままにせざれば、攸必ずや變為さん[37]。顏良、文醜、一夫の勇のみ、一戰して禽う可しなり」と。

後漢書
五年、袁紹大衆を率いて以て許を攻め、ともに相い距み紹の甲兵甚だ盛んなり、議する者咸な惶懼を懷く[36]少府孔融彧に謂えらく曰く
「袁紹の地廣く兵彊く、田豐、許攸、智計の士、
為に其れを謀る。審配、逢紀、盡忠の臣、其の事を任す。顏良、文醜、勇三軍に冠たり、其の兵を統ぶ。ほとんど克ち難し乎」と。
彧曰く
「紹兵多しといえどども法整わず、田豐剛にして上を犯し、許攸貪にして
正しからず、審配專らにして謀無く、逢紀果にして自ら用い、顏良、文醜、匹夫の勇、一戰して擒う可しなり」と。
後に皆な彧のさくのごとくす[38]事袁紹傳に在り。

[36] 范書は、袁紹軍に対する恐れを追加する。
[37] 范書は、許攸に関する予言を削除する。
[38] 位置がズレている。下段へ


三国志
五年、紹と連戰す。太祖官渡を保ち、紹之を圍む。太祖の軍糧方に盡きんとし、彧に書をあたえ、議して許に還るを以て紹をまねかんと欲す。彧曰く
「今
軍食少なしといえども、未だ楚、漢の滎陽、成皐の間に在るがごとくならずなり。是の時に劉、項先ず退くをがえんずる莫きは、先ず退く者勢を屈するなり。公以十分にして一居るの衆を以て、地をかぎりて之を守り、その喉をおさえて進むを得ず、已に半年なり。情あらわになり勢き、必ず將に變有らん。此れ奇を用うの時、失う可からずなり」と。
太祖乃ち住く。
遂に奇兵を以て紹の別屯を襲い、其の將淳于瓊らを斬り[39]紹退きて走る審配許攸の家の法ならずを以て、その妻子をとらえ、攸怒りて紹に叛く。顏良、文醜陣に臨み首を授け;田豐諫めを以て誅せらる皆な彧の策する所のごとし[38]

後漢書
操官度を保ち、紹と連戰し勝つといえど軍糧まさに盡きんとし、彧に書をあたえて議し、許に還し以て紹の師を致かんと欲す。彧報じて曰く
「今穀食少なしといえども、未だ楚、漢の滎陽、成皋の閒に在るがごとくならずなり。是の時に劉、項先ず退くをがえんずずる莫きは、
以為おもえらく先ず退かば則ち埶を屈するとなり。公十分にして一の衆を以て、地をかぎりて之を守り、其の喉をおさえて進むを得ず、已に半年なり。情あらわになり埶き、必ず將に變有らん。此れ奇を用うの時、失う可からずなり。」
操之に從い、乃ち壁を堅くし之を持つ遂に奇兵を以て紹を破り[39]、紹退きて走る。
彧を萬歲亭侯に封じ、邑一千戶とす[40]

[39] 范書は、「奇兵」の内容をはぶく。
[40] 位置が少しズレている。


三国志
六年、太祖東平の安民の穀に就くも、糧少なく、河北を相い支うにあずるに足らず因りて紹新たに破るるに因りて、以て其の間に劉表を擊討せんと欲す。彧曰く
今紹敗れ、其の衆の心離る宜しく其のくるしみに乘じ、遂に之を定むべし。而して兗、豫背き、遠く江漢に師し、し紹其の餘燼を
收め虛を承け以て人の後ろに出づれば、則ち公の事去れり[41]」と。
太祖復た河のほとりやどる。紹病もて死す。太祖河を渡り、紹の子譚、尚を撃ちて、高幹、郭援河東を侵略し、關右震動し、鍾繇馬騰らを帥し之を擊破す。語るは繇傳に在り。
八年、太祖彧の前後の功を錄し、表して彧を封じて萬歲亭侯と為す[40]

後漢書
六年、操紹の新たに破るを以て、未だうれいを為す能わず、但だ兵を留め之を衛すを欲し、自ら南のかた劉表を征さんと欲し以て計を彧に問う。彧對えて曰く
紹既に新たに敗れ、懼れて人さわ今因らずして之を定めずして、遠く江漢に兵さんと欲す。し紹離るを收め散ずるを糾い虛に乘じて以て出づれば、則ち公の事去れり[41]」と。
操乃ち止む。

[41] 文章の区切り方が違う。



三国志
九年、太祖鄴を抜き、冀州牧を領す。或るもの太祖に説きて宜しく復たいにしえの九州を置き、則ち冀州の制する所の者広大とし、天下服さしむべしと。
太祖將に之に從わんとし、彧言いて曰く
し是れ、則り冀州當に河東、馮翊、扶風、西河、幽、并の地を得んとすれば、奪う所の者衆し
前の日に公袁尚を破り、審配をとら[42]、海內震駭す。必ずや人人自ら其の土地を保ち、其の兵衆を守り得ざることを恐るなり。
今分ち冀州にぞくさしむれば、將に皆な心ゆるがん 且つ人多く說きて關右の諸將を以て關を閉めるの計せんとす今此れを聞き、以為おもえらく必ずや次を以て奪われんとす
一旦變生ぜば、
善く守る者有りといえども、うたた相い脅して非を為し、則ち袁尚其の死をゆるされて、袁譚貳を懷き、劉表遂に江、漢の閒を保ち、天下未だ圖り易からざるなり。
願わくば公急ぎ兵を引い先ず河北を定め、然る後に舊京を脩復し、南のかた荊州に臨み、の入らざるを責めんことを。則ち天下な公の意を知り、人人自ら安んず。天下大いに定まり、乃ちいにしえの制を議す、此れ社稷長久の利なり」と。
太祖遂に九州の議を寢「や」む。

後漢書
九年、操鄴を抜き、自ら冀州牧を領す。操に宜しく復た九州を置くべしと説く者有り、以為おもえらく冀部の統ぶ所既に広ければ、則ち天下服さしむに易しと。
操將に之に從わんとす。彧言いて曰く
いにしえの制に依らば、是れ冀州の統ぶ所のものと為るは、悉く河東、馮翊、扶風、西河、幽、并の地有るなり。
公前に鄴城をほふ[42]、海內震駭す。おのおの其の土宇を保ち、其の兵衆を守るを得ざることを懼る
し一處侵を被らば必ず謂えらく次を以て奪われんとす 人心ゆるぎ易し。
一旦變生ぜば、天下未だ圖る可からざるなり。
願わくば公先ず河北を定め、然る後に舊京を脩復し、南のかた楚郢に臨み、王貢の入らざるを責めんことを。天下な公の意を知り、則ち人人自ら安んず。須らく海內大いに定まり、乃ち古の制を議す、此れ社稷長久の利なり」と。
操報じて曰く
「足下の相い難ずることかりせば、失う所多し」

遂に九州の議をむ。

[42] 范書は、「袁尚・審配」を屠ったという内容をはぶく。


三国志
是の時、荀攸常に謀主と為る。彧の兄の衍監軍校尉を以て鄴を守り、河北の事を都督す。太祖の袁尚を征するや、高幹密かに兵を遣りて謀りて鄴を襲い、衍あらかじめ覺え、之を盡く誅し、功を以て列侯に封ぜらる。
太祖女を以て彧の長子の惲にめあわせ、後に安陽公主を稱す。彧及び攸並びに貴重となるも、皆な謙冲節儉なり、祿賜之を宗族知舊に散じ、家に餘財無し[43]
十二年、復た彧の邑千戶を增し、合せて二千戶とす[44]
太祖將に劉表を伐たんとし、彧に
いずくにか出づるかの策を問い、彧曰く
今華夏已に平らぎ、南土くるしむを知る。宛、葉に出づるを
顯らかにし輕進して行き、以て其の不意をおそう可し」
太祖遂に行く。たまたま表病死す。
太祖直ちに宛、葉にはしりて彧の計のごとくし、表の子の琮州を以て逆降す。

後漢書
十二年、操上書して彧を表して曰く
「昔袁紹逆をし、兵を官度に連ね、時に衆寡なく糧わずかに、圖りて許に還らんと欲す。尚書令荀彧深く宜しく住くべしの便りを建て、遠く進討の略を
おおいにし、臣の心を起發し、愚慮はあらためめ易わり、營を堅くし守りを固め、其の軍實をさえぎ、遂に大寇をくだち、危うきしをすくいて以て安んず。紹既に破敗し、臣の糧亦た盡き、將に河北のはかりごとて、改めて荊南の策に就かんとす。彧復たつぶささに得失を陳べ、用て臣の議を移し、故に冀土にはたひるがえし、四州に克ち平ぐを得。向に臣をして軍を官度に退かしめば、紹必ずや鼓行して前み、敵人利を懷き以ておのずから百たり、臣の衆怯えひるみ以て氣を喪い、必敗の形有り、一捷の埶無し。復たし南のかた劉表を征し、兗、豫を委棄し、飢軍をもて深く入り、江、沔を踰越せば、利既に要し難く、將に本據を失わんとす。而して彧二策を建て、亡を以て存と為し、禍を以て福となし、謀殊にして功異なり、臣の及ばざる所なり。是の故に先帝指縱の功を貴び、搏獲の賞を薄んず。古人帷幄のはかりごとを尚び、攻拔の力を下とす。其の績效をたずねれば、高爵を享くるに足る。而して海內未だ其の狀をさとらず、受く所のもの其の功にひとしからざる、臣誠に之を惜しむ。乞うらくは平議を重ね、戶邑を增して等しくしくせんことを」
彧深く辭讓す。操之を譬して曰く
「昔介子推が言うこと有りて『人の財を竊む、猶ほ之を盜と謂う』と。況や君奇謨拔きん出、興亡の係わる所なれば、專ら之を有する可けんや。魯連の沖高の跡を慕うといえども、た聖人の節に達するの義を為さんか」

是に於いて封を增して千戶とし、前と并わせて二千戶とす。又た正司を以て授けんと欲し、彧荀攸をして深く自ら陳讓さしめ、十數に至り、乃ち止む[44]
操將に劉表を伐たんとし、彧の策する所を問う。彧曰く
今華夏平ぐを以て、荊漢亡ぶを知る。
宛、葉に出づるを聲してし輕進して行き、以て其の不意をおそう可し
操之に從う。會表病す。

[43] 范書は、荀彧と荀攸と荀衍の逸話を削除する。
[44] 范書は、三国志がはぶいた上書を載せる。裴注:荀彧別傳にある


三国志
十七年、董昭ら太祖に謂えらく宜しく爵國公、九錫備物を進め以て殊勳を彰すべしとし、密かに以て彧に諮る。
以為おもえらく太祖もとより義兵を興し、以て朝をただし國をやすんじ、忠貞の誠をり、退讓の實を守る。君子人を愛すに德を以てし、宜しく此くのごとくすべからずとす。
太祖是れに由りて心平らぐ能わず。
たまたま孫權を征し、表して請うらく彧をして譙に軍をねぎらわしめ、因りてすなわち彧を留め、以て侍中光祿大夫持節とし、丞相軍事に参ず。
太祖の軍濡須に至り、やまいもて壽春に留まり、以て憂薨す。時に年五十なり。謚して曰く敬侯と。
明くる年、太祖遂に魏公と為る。

後漢書
十七年、董昭ら共に操に爵國公、九錫備物を進めんと欲し、密かに以て彧に訪ぬ。彧曰く
曹公もとより義兵を興し、以て漢朝を匡振し、勳庸は崇著なりといえど、猶ほ忠貞の節をる。君子人を愛するに德を以てし、宜しく此くのごとくすべからず」と。
事遂にむ。
操の心平らぐ能わず。
たまたま
南のかた孫權を征し、表して請うらく彧をして譙に軍をねぎらわしめ、因りて表して彧を留めて曰く
「臣聞くならくいにしえの將を遣るや、上は監督の重きを設け、下は副二の任を建つと。國命を尊嚴とし、謀りて過ちすくなき所以ゆえんの者なり。臣今當に江をわたり、辭を奉じて罪を伐つべし。宜しく大使のつつしみて王命をおこなうもの有るべし。文武並びに用うるは、いにしえり之有り。使持節侍中守尚書令萬歲亭侯の彧、國の重臣にして、德華夏にあまねし。既にして軍のやどる所に停まり、臣と俱に進み、國命を宣示し、威もて醜虜を懷かしむるを便宜とす。軍禮速やかなるを尚び、先ず請うに及ばず、臣すなわち彧を留め、依りて以て重しと為す」と。
書奏し、帝之に從う。[45]
遂に彧を以て侍中、光祿大夫、持節と為し、丞相軍事に参ず。
濡須に至り、彧病もて壽春に留まる。
操之に食をおくり、ひらきて視るに、乃ち空の器なり。是に於いて藥を飲みて卒す[46]。時に年五十なり。帝之を哀惜し、祖日に之の為に讌樂を廃す[47]謚して曰く敬侯と。
明くる年、操遂に魏公を稱すとう。

[45] 范書が追加する文章である。裴注にもない。
[46] 范書は、採用した。裴注:魏氏春秋にある。
[47] 范書が追加したエピソードである。裴注にもない。