求愛の食卓【槍弓】(再録)
2018年に槍弓アンソロに掲載させていただいたものです。主催者様、参加者様にはその節は大変お世話になりました。
生まれて初めて締切と文字数制限を設けて書いた文章です。締切大変ですね。
感想などあれば→https://marshmallow-qa.com/iburinnga
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俺は只、何処かに帰りたい。
特に残業する必要等無いだろうに、妙に居残る人間というのは何処にでも1人は居る。
今、クー・フーリン・ランサーの目の前に居る上司が当にそれだった。
繁忙期でもない今の時期なら皆定時で帰る。
生活残業という言葉もあるが…それは無いものとして扱わねばならない。
しかも一応肩書きを持つ者であれば皆の手本となるべきであろうに、上司は今日も何だかんだとデスクに齧り付いていた。
噂では、最近生まれた子供の育児の事で、妻にきつく当たられるのが嫌で帰らないらしい。
どうりで最近女性社員にはキツく当たられて居る。
つまりはあながち、噂でも無いのだろう。
男同士の愚痴大会になると良く聞く話だ。
只、ランサーはだからと言って上司も同級生も責める気にはなれなかった。
性別は関係無い。只々自分も同じ穴の貉だから言えないだけだ。
そんな事を考えて家路に着いて待って居たのは、ランサーをその貉たらしめる現象だった。
「おっかえりー。ご飯出来てるよー」
現在お付き合いしている彼女とは、ランサーの部屋で半同棲状態である。
勤務先からの距離もあるが、彼女の方が家に着く時間が早いので、此方に来てくれる時は簡単に夕食を作ってくれる。
ありがたい事ではあるのだが…
リビングからの声に「ありがとなー」と声をかけ、ダイニングテーブルにラップをかけ置かれたおかずの皿をレンジへ突っ込み、温めている間に炊飯器を開けた瞬間、強烈な匂いが立ち上った。
「っげっ、酸っぱ!お前、これ何?」
思わず炊飯器の蓋を閉めて問えば、リビングからきょとんとした顔を向けてくる可愛い顔。
可愛い。顔が好みで可愛いからナンパしたし、付き合って居るのだ。あと床上手だから。
「何ってー、最近バテ気味みたいだから、栄養詰めようと思って」
「思って?!」
「ポカリ入れてご飯炊いたの」
「…………」
数秒で、様々な考えが、ランサーの頭の中を駆け巡った。
だが仕事帰りの疲れた頭で考えても碌な結論は出なかった。
選択肢は幾つかあったのだが、ランサーはその中で一番安易な選択をした。
他の選択肢も不可能ではないが、労力と時間がかかりすぎて自分には向いていない。
「…あのさ、別れてくんね」
『いやあ、俺は考えられないね。仕事上がったらすぐ家帰りたいよ。だってうちの嫁さんメシ美味いもん!』
夜のラーメン屋のテレビでそんな事を話す某タレントは、上司にしたい芸能人の上位に食い込む愛妻家である。
この大御所タレントの云わんとしている事は、人は美味しいご飯が待っていれば大体は寄り道等しないという事だ。
焼豚増し増しのラーメンを啜っていたランサーは今しがたテレビから聞こえた声に心の中で「分かるっっ」と叫んでいた。
あの後、元彼女はビンタどころか拳でランサーを殴ってから部屋を出て言った。
元々料理慣れしていない人間ではあったが、今回の事は料理慣れとかそういうレベルではない。
只料理上手でないだけなら時間と経験が解決するが、ああいった発想は共感出来ない人間には恐怖だし、それを自分に矯正出来るとは思えなかった。
だから別れを切り出した。
炊飯器の中身だけをキッチンペーパーを敷いたビニール袋に入れ、24時間OKのマンションのゴミ捨て場に放り込んでこのラーメン屋に来て今に至る。
ラーメンはすでにスープまで飲み干してしまった。
会計を済ませ、店を出る。
そう遠くはないマンションに帰るだけなのだが、帰りたくないという気持ちが優った。
もうポカリご飯も、あの彼女も居ないというのにそう思ってしまうのは、ランサーの心には根本的に満たされていない場所があるからだろう。
それでも帰りたいと思わない部屋に帰り、風呂に入り、眠り、会社へ行く。
平凡なルーティンへ戻って行く。
今日もランサーは何と無く帰りたくないなという気持ちを抱えながら、残業をしていく上司へ声をかけてオフィスを出た。
電車の中で窓に映る自分の顔は冴えない。
外が雨のせいかもしれない。
どうせ家に帰っても何も無いしコンビニか外食だ。
偶には新しい店の開拓もいいかと最寄りの一つ手前で駅で降りてみた。
その駅は飲み屋の並ぶ商店街もあるが、一本道を逸れると隠れ家的な店も多い。
そういった店を開拓するのも酒飲みの楽しみだろう。
ビニール傘をさして、ふらふら人通りの多い道を歩き、さらにそれを横道に逸れる。
路地にはいい店が並ぶものだ。
「ん」
ふと、見慣れない店構えが目に入った。
おそらく古民家を改装をしたであろう見た目の入り口の小さな店。
さっぱりと白い暖簾には『弓月』の文字。
前に来た時には別の名前の蕎麦屋だったと思うのだが、いつの間にか入れ替わったらしい。
割烹か、小料理屋といった風情。
イメージとしては美人女将がお着物で迎えてくれそうな。
確実に新しい店だろうと、クーは興味を惹かれ、その日の腹を満たそうと暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
残念ながら、声は若い男のもので、メインは女将でなくて大将の様だった。