#4:伊藤詩織さんと検事の対話音声が時を超えて明らかにする事──「逮捕が取り消され、刑事司法に問えなかった」のか?
「逮捕状が消えた」ことで失われたもの、とは──
第3回原稿で言及した、「伊藤詩織さんと検事とのやりとり記録」には、証拠の解釈以外にも、興味深い対話が多く存在する。「逮捕状差し止め」に関するものは、その一つだ。だが、その前に、伊藤さんが、逮捕状の取り消しについて対外的にどのような発言を重ねてきたか、まずは振り返ってみよう。
控訴審(高裁)の意見陳述では、「警察に届け出た段階で、刑事司法で裁いてもらうことを望んでいましたが、逮捕は直前で取り消しとなり、それはかないませんでした。刑事司法の不透明な対応に左右され、確かに存在していた性被害が、なかったことにされてしまうことに危機感を抱き、自分の顔を出し、そして名前を出して発信することを決意しました」と述べ、その言葉は東京新聞など様々な報道媒体に引用されている。
因果関係をぼかした言い方ではあるが、「逮捕が取り消され、それ(刑事司法でさばうこと)は叶わず」、「刑事司法の不透明な対応に左右され」、「性被害がなかったことにされてしまうことに危機感を抱き」というのは、要は警察と検察の「おかしさ」により、あるべき社会的な正義を奪われたために今日に至る、という主張だろう。
最高裁の判決が確定した後の報告記者会見でも、「いったいどういった理由で逮捕状が止められてしまったのかであったり(がわからなかった)」と述べ、また映画の記者会見をキャンセルした際に出した公式声明上でも、「もしも警視庁刑事部長が理由なしに逮捕をストップしていなかったら。(中略)私はこの映画を作っていなかったと思います。」と現在まで、重要な局面で「逮捕状の執行がいきなり止められた」という点に言及し続けていることを考えると、「逮捕状差し止め」への個人的な思い入れは相当に深いように見受けられる。
しかし、検察との録音音声からは、逮捕が中止されたことによる影響に関して、伊藤さんは驚くほど理性的な理解を持っているように見えるのだ。たとえば、以下のような会話がある:
「逮捕されても、結果は同じだったかもしれないとは思う」けど……
と率直に悔しさをにじませつつ、「まあ、逮捕していただくことがゴールじゃないですし」と言ったり、「もちろん、逮捕しても逮捕イコールではないですし、(逮捕の先の結果が)どうなるかは分からなかったですけど。ただ、私の中では逮捕していただきたかったところがあったので」と、逮捕は取り調べをするための刑事手続きの方法の一つであって、逮捕しても時間がくれば釈放され、逮捕自体は刑罰でも、何かを約束するものでもないという認識をにじませているためだ。
これは、「逮捕」に対して非常にまともな見識を持っているといえるだろう。2016年当時の強姦罪の起訴率は36%だが、起訴された場合、有罪判決が降りる可能性は、99.8%(刑事事件全体)というのだから、重要なのは逮捕されるか否かではなく、起訴されるかいなか、である。
ところで、昨年までの私のように、刑事手続?それは何という状態の人(私はここを想定読者にして書いている)のために記すが、警察以降の刑事裁判の判決に至るまでの流れをざっくりと図にすると、以下のようなステークホルダーが介在し、事件の処分が決まる。
まず左側から、これは誰でもイメージのつく「警察」。警察による一通りの捜査後、「送検」(検察に送る)という手続きにより、警察から検察に事件が引き渡され、刑事手続として次のプロセスへ移る。そして、検察が起訴した事件は、刑事裁判化するということだが、ざっくり言えば、人を刑事罰に問うためには、実は逮捕は必須ゲートではない、ということだけを頭に入れていただければ十分である。
たとえば、元自衛官の五ノ井里奈さんのセクハラ告発事件は、書類送検後(逮捕を伴わない送検)、「在宅起訴」(文字のごとく、家にいる状態で起訴)され刑事裁判化したため、加害者は逮捕されずに刑事裁判で強制わいせつ罪の有罪が確定した、という具合である。
しかし、財布をなくしたとき以外警察の世話になったこともないような私のような人間からすると、裁判も服役も、すべては「逮捕」後にあるような話に感じられるため、突如「逮捕が無くなった」、それも「上にそれを止められた」などと言われると、その向こうにあった「正義へと続くドア自体」が消えてしまったかのように感じられてしまう。
「そうするしかなかった」 have toナラティブ
伊藤詩織さんも、そういう「逮捕にまつわる大衆的なイメージ」を利用しているように見える。映画公開後の記者会見では、冒頭に「映画を作ることはファーストチョイス(第一選択肢)ではなかった」と述べ、「もし逮捕状が止められていなかったら……」と“権力的な不正義”がなければ刑事司法に一切を任せ、表現活動はしなかったかもしれないという以前からの論調を再度強調する姿勢を最前面に打ち出しているため、あたかも逮捕されなかったことで発生した不正義があったように、一般の人には感じられるだろう。
私はこれを“have to ナラティブ”と呼びたい。彼女のすることは、「するしかなかったのだ」と世間に解釈される(させることに彼女は長けている)という風潮だ。たとえば、「なぜ伊藤詩織は自分でドキュメンタリーを撮らなければならなかったのか」とか、「どこまで被害者にやらせるのか」というような日本語記事は、その最たるものだ。しかしながら、伊藤詩織さんは、米紙に対して、「ロンドンで、あなたのドキュメンタリーを作りたいと何度も言われたけど、彼らに撮られたくなかった。私は自分自身で語りたかったのだ」と語っている。
そこには、「自分以外誰もやってはくれない」から、仕方なく自らが……とは違い、そこにはその物語がどう映し出されるかのコントロールを他の誰にも渡したくないという自分の物語のナラティブと自己表象への強い支配欲が現れている。表現欲は作家の源泉であるから、それ自体は何も悪いことであるわけもないが、そこに当たり前に介在する「表現する」という欲を、「やるしかなかった」という特殊な切実さに周囲がすり替えて差し上げることには不思議さを覚える。
……と、話が逸れたが、伊藤詩織さんは、映画は前のめりに作りたくて作ったわけではなく、ファーストチョイスでもなかったけれどそうするしかなかったというようなニュアンスを全面的に記者会見でも打ち出し、そこでも「逮捕が止められていなかったら」という、逮捕状の不執行にまつわる被害者性は、そこでもまた強調される格好となった。
では、逮捕が行われなかったことで、伊藤詩織さんが侵害された権利とはなんなのだろうか。検察の説明は、そこに対する解説ともなっており、担当検事が、逮捕の中止とその後の警察の対応に関してどんな反応を見せているかも必読の部分だ。伊藤さんは著書『ブラックボックス』の中では3行でその様子を引用しているが(255ページ中の1ページ内の3行)、それ以外にも捨ててしまうには情報価値が高い要素がふんだんにあるためだ。
「逮捕はどっちでもよかった」話?
まず、そういう経緯があったと申告を受けた検事は、最初に率直に驚きを見せながらも、被害者心理へ寄り添い、そして謝罪をしていく(ここまでは伊藤著書でも記されている)。そして検事は、疑問が浮かんでは消えていきぐるぐるしてしまったという伊藤さんに対し、そんな経験をすれば猜疑心を持つのは当然だし、私の説明も疑ってしまうかもしれないが、自分は警察に何の入れ知恵も指図もされているわけではないので、もし捜査や証拠に対する考え方に納得ができないところがあればなんでも言ってほしいと伝え、そして後日でも不明な点や捜査方針や証拠解釈について、不審に思うところがあれば何度でも説明すると、検事直通の電話番号を手渡している(これは著書では記されていない)。
また、検事は、伊藤さんとの対話の中で、担当検事自身の私見としては、逮捕という手段は使っても使わなくても、どちらでもよかったのではないかと受け取れるような見解を見せている点も驚くべき情報だ。そんな重大な影響が及ぶ判断が、どちらでもいいということなどあり得るのだろうか……と私を含める一般人には思えそうだが、以下のような反応を見せている点が該当箇所となる。:
(逮捕が止められたことを打ち明ける伊藤さんに対して)
検事:「私が伝え聞いてるのはね、逮捕しなかったことについても、例えばTBSとか(から)圧力かかったとかね、そういうあっちの圧力がかかってやめた問題ではないみたい。警察の判断で慎重に捜査を進めるということでやったみたいなの。で、私にそれ(知らせが)来たんで、いや、逮捕はしないのはいいんだけど、まあ、私としてはね、逮捕しちゃえばいいのに、あ、もう、ここだけの話よ、逮捕しちゃえばいいのにっていうね、こともあってさ。」
そのように考える理由として、以下の2点が伝えられている。:
① 女性から申告があって、その嫌疑が認められる限りでは、警察は身柄を取る(=逮捕して取り調べをすること)のも一般的ではある
② ただ、身柄事件にせず(=在宅事件として捜査し)、取り調べの時間をあえて置くことで、供述の矛盾を見つけられる可能性がある
つまり、逮捕すれば良いのではないかと検事としては考えるが、仮に身柄事件にしても、明確な「違い」は出たのだろうか、と考えているということ。そして、その理由は、以前は取り調べが勝負だったが、時代が変わり、検事が激しく問い詰めるような取り調べはできないことと述べている。
検事:「強制わいせつとか強姦って、(以前は)取り調べが勝負だったんですよ。検事の調べが特に。検事の前で何しゃべればって、だからわれわれ、自白をとにかく取ることに集中したんですよね。でも今は、自白って信用できない、そういう形になってる。それに、録音してるときにね、(被疑者も)言わないですよね。だから、取り調べが、今はもうインタビューみたいに、相手の弁解を聞くような形で。もちろん追及はしますよ。でも多分、伊藤さんなんかがイメージしてるような本当に厳しい追及とかね、まあそういうイメージしてるか分からないけども、こう、検事がワーッとやってるような追及までは、なかなかできない」
伊藤:「変わりましたよね」
検事:「うん。そうなってくると、やっぱ、客観的証拠。」
また、検事は、「もうこれって、山口っていう人が、どれだけ本当に嘘をついてるか、嘘をついているとしたらそれを崩せるかどうかしか、もうないわけね」と言い、身柄事件(逮捕して取り調べる)の場合、拘留できる日数が20日と決まっており、その間連日取り調べをするため、オウム返しに返答させていくことがかえって被疑者の供述の固定化に繋がり、矛盾を見つけるのが難しくなる、とも述べている。取り調べと取り調べの間を開けて話を聞くほうが供述がズレる可能性があり、そしてそれは「しょっ引いたらできないこと」だとも。
検事:「通常であれば、被疑者になった男の人をね、一回呼んで話を聞いてまとめるんだけれども、間を空ければね、うそ言ってればね、記憶がずれちゃうんですよ。しゃべったこと忘れちゃうから。要するに警察でしゃべったことと、検事の前でしゃべったこととで、間が空くとね、話がコロコロ変わるの。いや、用意周到にやられてれば、われわれも分からないんですけど。で、身柄じゃない事件だと、そういうことがあるんだけど、身柄事件だと(そういうのが逆に)、無理なんです。それは10日間とか20日間の中で訊いていって、調べって連日やっていくので、変な話ですけど、教育効果じゃないんだけど、絶えずそれ聞いてると、本人もオウム返しに話すから、何ていうか、(供述を)すり込んじゃうんだよね。」
検事は、そうした理由で、通常は(在宅事件の場合)一回話を聞いてまとめて終わりだが、それを崩せないか意図的に間を開けてやっていたために時間を要した、と話している。
逮捕の中止後、「十分な捜査は行われなかった」のか──
担当検事(後任の検事)は、「起訴してほしい」という伊藤さんの気持ちを受け止め、「できることならなんとかしてあげたい」と、捜査一課と連携して補充捜査を行い、「普通はやらない」としている専門医の知見を聞くほか、少しでも間接事実の立証につながる見落としがないか、ホテルの部屋の清掃記録なども押収したと録音内で語っている。また、「ホテルの関係者・従業員・タクシー運転手・お寿司屋さん・串焼き屋さん・居合わせたお客さん」に起訴に有利な情報が出ないか確認したが、「なかなかそういった話(証言)が出ない」とも。
裁判資料と伊藤著書など事件関係の資料を総合的に理解すると、逮捕からの捜査方針の切り替え後、ポリグラフ検査(いわゆる嘘発見器)の実施や、山口氏の家宅捜索なども行われ、逮捕(身柄拘束)こそされていないが、被疑者の事情聴取は4回(警視庁捜査一課・検察併せて)と、専門医への知見伺い含め、人員を1名から5名に増やして1年以上捜査を継続したこともわかる。
また、伊藤著書に登場する弁護団のコメントは、検事の言葉がただのリップサービスでなく、検察によって開示されたものが充実したものであったことを窺わせるものとなっている。
「検察審査会に申し立てをすると決めてから、(検察に)証拠開示請求を済ませた。何も出してこないのではないか。あるいは、出て聞いてもすべて黒塗りの書類なのではないかと、期待はしていなかったが、数ヶ月後に開示された証拠を見て、(弁護士の)先生方が驚いていた。不起訴にしては多くの証拠を出してもらえた、と。」
伊藤さんは、「(最初に行った警察では)一週間経ってしまってからだったので、証拠がない、何もできない。そう言われてから、そこからこんなに調べていただいて、本当に。ありがとうございます」と検事にお礼を述べ、「いいんだけどさ、お礼はいいの」と返されるシーンもある。
また、録音音声の書き起こしでは、検察担当者らから伊藤詩織さんに向けられる誠意は(録音されていることを知らないために完全に無作為の状態である)、小説的とも言える情感をやりとりに与えている。
検事:「お話聞いていると、当然の心境だと思うし。うん。だから、もう疑問があれば全然、もし今日がが無理でも電話でも全然、構わないしね。また後日ね、設定してお話をね、したいって言われれば全然、応じる。疑問なところとかね、何とかあるなら。」
伊藤:「はい」
検事:「それ(不信感)を払拭する努力はしたいと思う。そういうね、扱いを受けて、疑問をお持ちならば。払拭し切れるか分からないけど、私が。どこに疑問に思って、証拠関係も含めて捜査の在り方についてもね、ここ、おかしいんじゃないかとかね、なんでそうなってるのかって。私がさっき説明したのは、もう私は別に警察から聞いたとかね、警察の入れ知恵だったりとか(じゃないから)。私が全部、証拠関係、見て、もうお話ししてることだから。だから、そこでね、何かこう、私の説明の中でもね、何か違うところがあるとかね、なんか、こうじゃないかとかね、そんなこと遠慮なく言っていただきたい。ちゃんと説明します、私。」
伊藤:「はい」
伊藤さんは、その日の終わりに、「何か疑問とか考えとかあったら、遠慮なく私の方に連絡して」と検事直通の電話番号を手渡されているのだが、検事室に控えて補佐をしている事務官は、性被害の訴えに加え、被疑者の逮捕の中止という経験をした伊藤さんの心情を慮ってだろうか、検事との話が長引き、表玄関が閉まってしまったために裏玄関から退出することになった伊藤さんを送る際、裏玄関まで送るエレベーターの中で、こんな言葉を遠慮がちにかけるのだ。
検察事務官:「同じ組織ですけれども、一緒の部屋で働いている者として、K検事、すごく真剣に仕事される方なので、本当に不安なこととかあったなら、何でも検事に言っていただいて構わないですし──」
伊藤さんは、人の親切に慣れているのか、あるいは権力がない者には興味が湧かないのか、ことさらその言葉に興味を示すこともなく、あっさりと「ここで大丈夫です」と見送りを断るのだが、録音を切るのを忘れている伊藤さんが、その後カフェでカフェラテのホットのSサイズを買い、中目黒行きの電車のアナウンスが流れ、ドアが閉まるところまでが書き起こしに入っているものだから、さながら対話録音記録を読んでいる方が、小説を読んでいるかのような気持ちになってくるほどの充実度の書き起こしである。
「真に客観的なジャーナリスト」が伊藤詩織さんの性被害について本を書くのであれば、私はこの検事との録音音声は、その中枢に据える要素になると思う。不起訴の理由は詳細に明かされないことの方が多い日本で、個別の事件に関して、担当検事がここまで解釈を丁寧に語るデータはそれこそ当事者ジャーナリストだからこそ取れるものであろうし、日本の刑事司法を問うというならば、彼の説明はその目的に対してあまりに有益であるからだ(伊藤詩織氏個人のケースを超えてなぜそれが有益かは、連載第6回で記していく)。
しかし、メディアを通しては、「検察には何も教えてもらえなかった」「私の件は不起訴だったけけれど、証拠や証言はいろいろあって、これで証拠が不十分なら何が十分なんだろうと。これが十分でないなら、何が十分なんだろうと」(※2)と語る伊藤ジャーナリストが、「真実はここにある」として出版した著書内では、検事の事件解釈・判断に関わる発言は9割以上が削られ、非常にミニマイズされた形でしか、言及されることがないのである(伊藤著書は255ページあるのだが、この書き起こしにして全長80頁相当ある検察の説明録音が登場するのは、伊藤著書内のわずか5頁程度で、全体に対してはわずか2%程度である)。
代わりに伊藤さんが著書で字数を割いて記すのは、「検察審査会」という、検察の流れの「あと」に制度として存在する、検察の判断が正しかったのかを、いわゆる「国民からランダムに選ばれたメンバーが審査する場所」の判断が適切に行われていたか、という非常に小さなドットの「あり方の正しさ」について、である。伊藤さんが検察審査会に対し、疑問に思っているとしているのは、以下のことである。
・審査会の男女比を半々にすべきではなかったか(伊藤さんの申し立てを扱った検察審査会の男女比は、男性7名・女性が4名だった)
・ホテルの車寄せからロビーにかけての防犯カメラの動画を見てもらいたいと念を押したが(コマ送りの静止画像ではなく)、実際に審査会で動画で見てもらえたのかは、不明な点(検察委員会には回答義務がない)
・検察審査会に証人や申立人の代理が呼ばれ、証言することがあるにもかかわらず、伊藤さんや彼女の弁護士も特段呼ばれなかった点
などである。これらを理由に、いったいどういった「事実」を基にその判断がなされたのかはブラックボックスだ、と。
伊藤著書には検事の言葉として逮捕中止への批判コメントは出てくるが、検察は在宅事件とするか身柄事件とするかにそこまで重きを見ていないことは綺麗に省略されている。代わりに、伊藤著書には、以下のような記述が並ぶ。:
“上層部の一言で、裁判所の決定が覆され、逮捕が行われず、捜査が闇に葬られてしまったのだとしたら、それは徹底的に問うべき問題であった。捜査当局がまともに機能していないのであれば、私たち一般市民は、何を信じ、どうやって生活していけばいいのだろう。”
“山口氏は、検事による聴取から4ヶ月ほど経った二〇一六年五月三十日、TBSを退社した。ひと月後、安倍首相について書いた『総理』(幻冬舎)と言う本を上梓し、コメンテーターとして、盛んにテレビに登場するようになった。こうしたことを私は、友人から聞いたのだが。新しいアパートに、テレビは置かなかった。極力、彼の顔を見ないで済むように。彼が今後どんな人生を送ろうと、私に関係はなかった。日本の法律がきちんと機能することを願うだけだ。”
機能することを願うだけ、というのは、「機能していないから」、機能することを願う、という意味だろう。
しかし、刑事司法が不透明だったというのであれば、問うべきは担当検事の判断とその説明であって、検察審査会という付属的な小さなドットを詳細に解剖することでも、そこのないものねだり(例:男女比が平等か)をすることでもないだろう。
仮に、百歩譲って検察審査会への疑問(男女比やビデオ)がもっともな指摘だとしても、検事の、証拠に対する具体的な見解という、いわば「本体説明」を隠している上に、「不起訴を覆す理由なし」とその審査を行った結論に対して、その男女比やビデオ鑑賞の有無を問うのは、あまりにチェリーピッキングというか、枝葉へのいちゃもん付けすぎないか。
「ストーリーテリングの力」と伊藤さんはよくメディアで語るが、その人は、事実のドットを集めてストーリーを紡いでいくのではなく、打ち出したいストーリーに合致するドットだけを拾っていく。
それは、私が連載第3回で書いた、“所与の前提化した「信頼」(つまり、伊藤氏の事実抽出・表現は公平でフェアな、ジャーナリスティックなものである)は、そもそも正しかったのだろうか”という問いへと回帰していく。(了)
ところで、以下は、伊藤詩織さんの著書の抜粋を文春が掲載しているものだ。ぜひ併せて読んでいただきたい。
※1 控訴審口頭弁論 意見陳述書
※2 中村かさね『HUFFPOST』「伊藤詩織さんの民事裁判で支援団体『Open the BlackBox』が発足 元TBS記者は反訴」、2019年04月10日
※検事録音は、会話の書き起こしである原文ママだと「えーと、あのー」「えーっと」といったフィラーや口語的な繰り返しが多く、また主語の省略なども手伝ってパッと理解しづらいため、本稿では、主語や目的語を()で適宜補足しつつ、趣旨に忠実に文章を読みやすくまとめています
連載バックナンバー『BlackBoxDiariesとはなんだったのか』
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・第5回 3/23日公開予定
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検事録音の会話の書き起こしが、凄く分かりやすかったです。感謝です。