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オレンジの星をかぞえて/Novel by まいた

オレンジの星をかぞえて

18,781 character(s)37 mins

さいごに書いた作品です。
そろそろアカウント消します。ありがとうございました、さようなら。特に他でも活動はしていません。

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彼女は言った。

「潮時だ」

少女が聞いていた。
擦り切れたカセットテープを再生したみたいなその声に、黒髪の少女は顔を上げなかった。肩で息をして、歯を食いしばる。乳歯の抜けた歯列の隙間からふう、ふう。吐息が漏れて、そのたび、乾いた地面に黒い斑点が増えていく。斑点は歪な丸い形をしていた。力尽き、膝に手をついてしまっても、少女は頑なに顔を上げようとしなかった。

遠く、近く、遠く。土を蹴る蹄鉄の音が聞こえている。少しずつ異なる個性ある音が、この場所、この瞬間、重なり合ってこだまする。こだまする。こだまする。額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げて、少女は自分の足が履くシューズを忌々しげに睨みつけた。ツクツクボウシの鳴き声が、今年はやけにやかましい。少女は誰にも見られないように、そっと、伏せた顔を顰める。夏休み、小学校のグラウンド。今年もまた夏が終わる。少女の草臥れたシューズには、鈍色に光る蹄鉄が打たれていない。腕を組んで見下ろす彼女はもちろんそれを知っていて、そんなだから『潮時だ』と、言ったのだ。少女が校庭に唾を吐き捨てた。彼女――、ナカヤマフェスタは笑った。

「いい加減に教室ここは辞めて、よそへ行ったほうがいい」

低くて、穏やかで、優しい雨のような声が降る。その言葉は鮮やかなオレンジの光を纏っていて、しかし、少女にとって聞き慣れたもので、聞き飽きたもので、もう聞きたくなくなったものだったから、幼い意志は無視を決めた。口を結び、鼻の穴から荒い呼吸をして、ぎゅっと目を瞑る。ナカヤマフェスタは眉を下げて長く、長く、息を吐き、また同じ声色で「休憩してこい。水分と塩分摂って、その間抜けな息が整うまで走るのは禁止な」と、少女に背中を向けた。蹄鉄の音の群れにその姿は紛れていく。現役を引退したナカヤマフェスタのシューズにも蹄鉄はまだ打たれていて、彼女が一歩進むたびにオレンジを反射した鈍色が光る。こっそりと顔を上げた少女はその光に目を細め、震えている自分の膝をパシン、と叩いた。そんなことをして震えがおさまるわけがないし、乱れた呼吸が整うわけもないし。「やっぱり私は駄目なのかな」。少女は呟く。踵を返し、木陰に向かって間抜けな足を引き摺っていった。

あれは眩しい、目を覆いたくなるほどに。
だから、少女はそれを嫌うようになった。

不平等だ。
オレンジの朝陽が、夕陽が反射するのは彼女たちのシューズだけ。そこに見える光はひどく美しいのに、日本とパリくらい遠くにあって、少女の手には届かない。少女の足には灯らない。木陰に足を踏み入れる。青草は柔らかい。今日の夕陽がだんだん遮られていって、少女は初めて汗を拭った。


少女は人間ヒトだった。

そしてこの場は、凱旋門賞を勝ったあのナカヤマフェスタが先生をしている、ウマ娘のレース教室だった。少女は徒競走で負けたことが無かった。少女は足が速かった。男の子よりも速く走ることができた。しかし、ここでは一番鈍臭いウマ娘にすら、一度だって勝てたことがない。少女は人間だ。項垂れた背中を振り返り、ナカヤマフェスタは目頭を押さえる。

「先生。先生、ねえ!」
「ん、なんだ。サボっていいなんて、先生は言ったか?」

汗っかきでお節介な黒鹿毛のウマ娘が、練習用のコースに戻ったナカヤマフェスタのジャージを引いた。低い声で、わざとおどけたふうに問いただしてやると、小さなウマ娘は汗の玉を散らして「ううん、先生は言ってなかった!」。ぶんぶんと頭を横に振る。虹が出来てしまいそうだ。と、思わず笑みを漏らすナカヤマフェスタ。それくらい陽射しの強い、ある夏の日が暮れるときの出来事。

名残を惜しむツクツクボウシのオスが、延々と鳴き続けている。かつて菊を争った京都ほどではないにせよ、東京の夏は蒸し暑い。今年が一番蒸し暑いと感じても、来年にはその蒸し暑さを超えていく。どんどんあつくなる。再来年も、きっとその先も。ツクツクボウシが鳴き続けている。今年の夏が終わるまでにメスと巡り会えなければ、彼らは生きた証を残せないまま死んでしまうからだ。

「ねえねえ、先生。あの子、辞めちゃうの?」

短い指先から、汗が滴り落ちる。その指は木陰で膝を抱える少女に遠く重なり、優しく労っているように見えた。ナカヤマフェスタは溜息を吐こうとして、やめた。息を吸って胸を膨らませ、止めた。子供たちはどうしてこれほど鋭いのだろう、と彼女は胸のうちで驚いていた。「ねえ、せんせえ?」。

「さあな」

汗で体操服が張り付いた肩を掴んで、小さな身体が小さなコースへ戻るように促す。あの子に告げてきた言葉は、似た夢を見る子供に対して、二度と、二度目さえ、口にしてよいものではないと彼女はわかっていたから。「サボるなよ」「先生のいじわる、おに」「鬼で結構だ」「じゃあ、おにね!」。

小さなウマ娘が走り出す。
ナカヤマフェスタはその背中を追わなかった。

土日、平日の放課後、長期休暇など。小学校のグラウンドを借りて運営しているレース教室は、ラインパウダーでミニチュアなコースの形を描いて行われる、お粗末なものだ。ウマ娘たちが数時間走れば、ラインパウダーはあっという間に消え失せる。一番にグラウンドへやって来て、二輪のラインカーを引き摺り、決まって消え失せてしまうラインパウダーを描くのは、木陰で膝を抱えているあの子。荒れた手のひらを握り締め、歯を食いしばり、不細工な顔で走って、いつだって最後にゴールするあの子。ひとり、必ず、大差で負けるあの子。風に吹かれ、まだ幼いとはいえウマ娘たちの脚力で何度も蹴り上げられ、今日もラインパウダーは消えかかっている。あの子の運動靴では、ラインパウダーを消せない。ナカヤマフェスタは汗っかきでお節介な黒鹿毛のウマ娘が蹄鉄の音の群れに紛れていくを見送ってから、いつものようにラインカーのハンドルを手に取った。炭酸カルシウムの白い粉が、既に詰め替えられていた。いつものように、いつものように。

トレセン学園を卒業したナカヤマフェスタが先生の『親父さん』から受け継いだレース教室は、ちびっ子ウマ娘徒競争大会で優勝を目指すより、中央のトレセン学園に入学させるより、子供たちに走ることの楽しさとか、本能を満たす喜びを教えるとか、そういうことを第一に運営されている。もちろんあのナカヤマフェスタが教えているのだから、大会で一着を獲ってくる娘もいるが、そしてナカヤマフェスタはその努力を誰より大袈裟に称えるが、人間の少女はいつもその輪の中にいなかった。ちびっ子『ウマ娘』徒競争大会に、人間は出場できないからだ。クラシック三冠にも、トリプルティアラにも、宝塚記念にも、有馬記念にも―――、凱旋門賞にも。たとえウマ娘より(生物学的に有り得ない話だが)(あのアグネスタキオンが好きそうな話だ)足が速くなったとしても、人間の少女はその全てに出場することすら許されない。叶わない。人間とウマ娘では、そもそも種族が違う。人間とゾウとか、ウマ娘とサメとか、それくらい違う。

あの子の夢はバカげているのだ。今のナカヤマフェスタはレース教室を預かる『先生』なのだから、誤魔化したままではいけない。いつか、鬼にならなければいけない。

ちびっ子ウマ娘たちのバ群が十分に通り過ぎたことを確認して、ナカヤマフェスタはラインカーを引き始めた。予想していたよりもそれはずっと重くて、思わず木陰を振り返った彼女は唇を擦り合わせ、癖の強い鹿毛を掻き毟る。それからほんの十数センチ引かれた白線に視線を落として、複雑で、ひどく心細くて、どうにもままならない想いに囚われてゆく。



「先生! こんにちは、ナカヤマ先生!」

そのとき。
校門の方角から、女性の声が響いた。

顔を上げたナカヤマフェスタは自分に手を振る女性の姿を捉え、湿気を吸った鹿毛を自分の手で撫でつけてから、ラインカーをその場に立たせて会釈をする。もう一度と顔を上げる一瞬、彼女は下がっていた左右の口角をグッと持ち上げて、最後に笑顔を作った。女性も笑った。遠く女性が歩き出す。なにかが足りないと思っていた。先生になったナカヤマフェスタはもう、ニット帽をかぶらなくなった。

「お久しぶりです」

女性は言った。
早足で近づいてきて、嬉しそうに挨拶をした。

仮設のテントの下、ナカヤマフェスタは紙コップに揺れる麦茶の表面をひどく神経質に見張りながら歩き、目線は上げないまま女性に近づいて「お久しぶりです」と返す。麦茶を受け取った女性は黄ばんだブラウスの袖を捲り、紙コップを逆さにしてビールみたいに飲み干した。ナカヤマフェスタはお代わりを、と申し出る。促すように、縋るように、手を差し出す。女性は首を横に振って「もう、いいのよ」と、眩しそうに目を細めた。眩しいのなら、似合わないサングラスでも掛けてしまえばいいのに。と、ナカヤマフェスタは思う。紙コップを握る女性の手は迷わなくて、宙ぶらりんになったナカヤマフェスタの手だけが震えていた。

「あの子、どうですか」
「……そうですね、」

女性の視線の先には、人間の少女がいる。
ナカヤマフェスタの視線の先にも、黒髪の少女がいる。

ウマ娘と同じメニューをこなす(厳密にはこなせていないのだが)人間の少女は、疲労感に根負けしたのか、木陰の下で仰向けに寝転がっていた。仮設テントから少女まではかなり遠く離れている上に、少女は顔に白いタオルをかぶせていたから、女性にも、ナカヤマフェスタにも、その表情を窺い知ることはできなかった。しかし、二人にとって想像することは容易だった。ナカヤマフェスタは少女の先生であり、女性は少女の「……お母様、その」であるから。女性はナカヤマフェスタを真っ直ぐに見て、怯えの無い目で、続きを促すように頷く。

「正直に申し上げますと」

眼鏡を押しつける音。
砂嵐を巻き起こす、蹄鉄の音。

「これ以上は、厳しいかと」
「そう、そうですよねえ。うん、うん」

女性はナカヤマフェスタの言葉に耳を傾けながら、眼鏡の奥の瞳の色をころころ、きらきら変えている。昔を懐かしんでいるような、今を哀しんでいるような、愛娘を愛おしんでいるような、己を後悔しているような、娘のバカげた夢を吟味しているような。ただ、諦めた色だけはしていなかった。風に仮設テントが揺れても、女性の瞳は少しも揺るがなかった。微笑みを浮かべる彼女が非常に聡明な女性であることを、ナカヤマフェスタはよく知っていた。

自分の心の奥底から取り出して、手元を離れてゆき、輪郭を得てしまった言葉。『これ以上は、厳しいかと』。元に戻らない言葉。取り返しのつかなくなった言葉。世界中の誰より知っているからこそ、悔しさを掻き立てられる。悔しさを掻き立てられるという自覚があるだけで、もうどうにもならないことは理解をしてしまっているから、無闇矢鱈に悔しくなった。

空っぽになった紙コップを見下ろした女性は、それをくるくると回して年甲斐もなく手遊びを始めた。女性の歳の頃は三十代後半で、ふたりが出逢った頃に比べると確かな老いを感じさせる。手のひらには皺が増えて、手首が細くなって骨が目立ち、ほうれい線が伸び、白髪も増えた。小学三年生の娘を育てる母親のすがたをしていた。が、家庭では見せない(であろう)無邪気で、能天気で、落ち着きのないすがたはナカヤマフェスタを安心させてくれる。女性の目には紙コップの底の白が映り込んでいて、真っ白なキャンバスにはまだ、これからも変わらず、なんだって描ける予感がしてくる。バカげた夢であっても、描くことを許されるような気がしてくる。諦めずにいられるのではないかと、また夢を見てしまいそうになる。

「あの、」
「……はい?」

ナカヤマフェスタが沈黙を破ると、可能性を見ていたその瞳は『ナカヤマフェスタ』を映した。そんな当たり前の現象に驚いた彼女は、続けるはずだった言葉も忘れて『ナカヤマフェスタ』に魅入る。そして、女性の中の自分があのニット帽をかぶっていないことに気づいた。背筋が伸びるような心地がした。ナカヤマフェスタを閉じ込めた女性はまだ、手元で紙コップを弄っている。女性の手の中で、紙コップはベコベコと形を変え続けている。ナカヤマフェスタはようやっと呼吸を思い出して、それから、今伝えるべき言葉を思い出した。

「……あの。話を、少し。していきませんか?パイプ椅子でよければ、すぐに持ってきますので」
「そうね、せっかくの機会だもの。長話になりそうだから、お言葉に甘えて、おばさんは座らせていただこうかしら」

まだ。

ナカヤマフェスタは胸の奥底に立派な根を張ってしまったわがままみたいなものを隠して、へらへらと笑いながら、そのくせ女性の返事を待たずにパイプ椅子を取りに向かう。グラウンドの土の上に積み重ねられたパイプ椅子は当然、乾いた土埃にまみれていて、持ち上げただけで「ゴホ、ゴホッ」咳が止まらなくなる。現役のときはダートでもトレーニングをしていたから、こんな醜態を晒すこともなかった。彼女は背中を丸め、空いた片手で口に蓋をして、止まらない咳が止まるときを待つ。「ゴホ、ごほ」。仮設テントの下、妙に熱のこもった咳が響く。女性は小さなウマ娘たちの練習風景を熱心に眺めていて、間抜けなナカヤマフェスタの姿を振り返りもしなければ、気にかける素振りも見せなかった。時折、夏陰に横たわる愛娘に視線をやっていた。たったそれだけのことに、ナカヤマフェスタはむず痒い胸を撫で下ろす。ああよかったと。何度も胸を撫で下ろして、肩で息をして、鼻の穴から下手くそな呼吸を繰り返している。まるで——、

まるで。初めて本気で走ったときみたいだ。
夏の熱気を孕む呼吸に、遠い、遠い昔のことを思い出している。

時間をかけて咳を止めたナカヤマフェスタは汚れたパイプ椅子を二つ抱えて、女性のもとへ駆けた。「ありがとうございます、先生」「いえ」。二人揃ってパイプ椅子を広げると、ギィギィと赤褐色に錆びた声でそれは喚き、まるで砂時計のように細かな砂を落とした。ナカヤマフェスタが落ちていく砂を見ていると、女性はどうかしましたか、と問うてきた。答えに迷ったあと、顔を上げて「古くなったな、と。そろそろ寿命ですかね」。女性は広げたパイプ椅子の汚れた座面をギィギィと押しながら、勿体無い、まだまだ現役ですよと笑った。砂が落ちる。砂が落ちる。砂が落ちる。パイプ椅子が鳴く声は、ウマ娘たちの蹄鉄の音に掻き消されていく。

練習風景がよく見える方向にパイプ椅子を置いて、女性は腰を掛け、スラックスを履いた脚を組む。神経質に砂を払ったりするひとじゃないから、古びた砂時計はまだ、さらさらさらと時間を刻み続けていた。ブラウスと同じく、黒いスラックスも薄汚れている。ナカヤマフェスタが再び麦茶を運んでくると、女性はベコベコになった紙コップに新しいのを無理矢理押し込んで、ふたつ重ねたそれを両手で包み込んだ。まるで私と、女性の娘みたいだ。と、見下ろすナカヤマフェスタは自分たちのことを重ねた。そして心から、言葉があふれる。

「……力及ばず、申し訳ございません」
「とんでもない。先生があの子を受け入れてくれて、わたしは幸せ。きっと、あの子も同じ想いのはず」

女性はまた眩しそうにそう言ったあと、重ねた紙コップに口をつける。口紅が色移りして、繋がった模様ができる。誰に似たのか手癖の悪い女性はまた紙コップを弄んで、くるくるくるくる、模様を二つに断った。くるくるくるくる、二度と元には戻らないというのに。くるくるくるくる、二度と取り返しがつかなくなるというのに。時間は常に一方通行だ。


三年前の夏だった。


人間ヒトの少女は母親に手を引かれ、ナカヤマフェスタの教室にやってきた。初回は見学、という決まりがあった。今よりも幼くて、人見知りの激しかった娘に代わり、母親は胸を張って話す。「凱旋門賞で勝ちたいんですって、この子」。

人間なのに、と付け加えて首を傾げた母親の瞳の奥は、あんまり笑っていなかった。娘が抱いた夢を、母親だけはバカにしていなかった。挑戦させる前に、現実を見ろと諭して、諦めさせたりしていなかった。最初からウマ娘として生まれ、紛れもなくウマ娘であり、最後はウマ娘としてヒリつく勝負をしたいという本能を認めて凱旋門賞に挑んだナカヤマフェスタとほとんど同じように、母親(と、少女)は世界有数の大バカ者だった。ナカヤマフェスタの目にはそういうふうに二人の姿が映って、それからとても嬉しくなった。あの気持ちは今でも鮮明に覚えている。覚えていて、思い出したからこそ、

「でも、」
「でも?」

膝の上、ナカヤマフェスタは拳を握り締める。

『これ以上は、厳しいかと』
『力及ばず、申し訳ございません』

彼女は、彼女自身の言葉に怒りを重ねた。
人間の少女は、女性の愛娘はまだ、凱旋門賞への挑戦を真面目に検討してもらったことがなかった。藁にもすがる想いで彼女が師事した先生は、ナカヤマフェスタは、私は。死ぬほど努力したところでしょせん人間なのだから。だから、無理。だから、無意味。口に出さなかっただけで、少女の先生は脳味噌の奥底でずっとそう考えていたのだ。真剣に指導をしているふりだけはしておいて、少女の夢を真剣に考えられなかったのだ。彼女は気づいてしまった。「……でもっ、私は」。そこに続くものへ、次こそ輪郭を与えたくないとナカヤマフェスタは思っている。隣に座る女性を、今でも眩しそうに自分を見てくれる女性を、幻滅させたくないと思っている。そうして裸の言葉を飲み込んで、カラカラに乾いた喉から吐き出すのは曖昧に、適当に、お茶を濁した言葉。


「……………………………………私は。私は、わがままです」


ちゃぷん。麦茶の表面が揺れた。

ウマ娘たちの練習風景をにこやかに眺めていた女性はふと息を止め、しんと瞬きを止め、隣のパイプ椅子に座るナカヤマフェスタだけを見た。一度断たれた口紅の痕が残る紙コップを握り締め、また、ちゃぷん。麦茶の表面が揺れた。真剣な表情で、静かに、真っ直ぐに見つめられるなんてことはだいたい十数年ぶりだったから、ナカヤマフェスタは気恥ずかしくて目を逸らそうとする。重ねられた紙コップ。ぬるくなった麦茶の揺れる音だけが世界に響いていて、ウマ娘たちが走る蹄鉄の音は遠のいてゆく。いくつもの蹄鉄が反射した夕陽の色は薄くなり、真っ黒な瞳から目を離せなくなった。

女性はゆっくりと瞬きをする。汗に滲んだマスカラが目元に黒い影を散りばめる。夏の影は女性の視線をより濃く、より鋭くして、ナカヤマフェスタを射抜いている。ちゃぷん。麦茶の表面がまた揺れて、女性の口元が意地悪く笑った。

「先生がわがまま? 一体、どういうことですか」
「わかってるくせに。わざわざ私の口に言わせてやろうって魂胆でしょう。アンタも、大概性格が悪い」
「あら、やめてくださいよ。ええと、先生?」

剥げた口紅で、暗い目元で、崩れた化粧で、汚れたスーツで含み笑いをするその姿は、あの頃の『ナカヤマフェスタ』を呼び起こす。バカげた夢だと世間に揶揄されながらも、恩師の命を、パリの勝利を、ヒリつく賭けを諦めなかった、あの。手玉に取られたことに溜息を吐いて、彼女は話し始めた。


「たとえアンタの娘だろうと、」

いつの間にか。

パイプ椅子から零れ落ちる砂の行列は、途切れていた。時は止まっている。時は巻き戻る。ナカヤマフェスタの敬語が崩れ、女性はパイプ椅子から身を乗り出すようにして彼女の話を聞く。黒いスラックスに似合っていないスニーカーが交互に揺れ始めて、年甲斐もなく古いパイプ椅子をギィギィ喚かせる。必死に走る小さなウマ娘たちはナカヤマフェスタと女性のやりとりなど耳に入っていない様子で、女性の娘は白いタオルをかぶって寝ていた。だから、ナカヤマフェスタは少しの間、女性の前で『先生』であることをやめられる。

「人間の娘を凱旋門賞に出そうなんて、私は一度だって本気で考えられなかった。そりゃあ真剣に指導はしたさ。でも、人間はウマ娘じゃない。人間はウマ娘にはなれない。あの子は私如きのレース教室で、今でもドンケツを走り続けてる」
「うん」
「無謀なだけの賭けじゃあ面白くない。奇跡は誰の身にも、平等に、偶然に降りかかるものじゃなくて、真っ当な積み重ねがあって初めて、起こることを祈る権利が発生する。アンタの娘と、アンタと……私に、その権利は無いんだ。どれだけ厳しく指導しても、人間をウマ娘には変えられないんだから。つまり賭けの前提すら成立しない。血の滲むような努力をたとえば百年続けたとして、これは変えられない事実だよ」
「うん」

告白だった。

「でも?」

レース教室の先生ではなく、酸いも甘いも噛み分けてきた勝負師ナカヤマフェスタによる告白。あるいは本音。あるいは判断。あるいは結論。あるいは――、現実。

穏やかに相槌を打ちながら、娘の母親はナカヤマフェスタの告白や、その他様々に定義できる言葉を聞いて、その全てを受け入れていた。文章を噛み締め、言葉のひとつひとつを抱き締めるようにして受け入れていた。大切に、大切に受け入れているのか、丁寧に想いを馳せ過ぎているのか、女性はナカヤマフェスタに微笑むだけで言葉を返そうとしない。斜め下から彼女の顔を覗き込み、歯を見せずに笑顔を見せている。昔よく見た景色だった、ナカヤマフェスタにとって。こういうふうに笑うときの女性は、一度だって自分から話を始めたことがなかった。と、思う。ナカヤマフェスタに続きを促しているときの笑顔だった。と、彼女は思い出に入り浸っている。

「でも、」

ナカヤマフェスタは息を吐いて、その前に、懸命に走るウマ娘たちを見た。どこにでもある小学校の狭い校庭と、嘘みたいに広いグラウンド。年齢を加味したって速くもなければ遅くない脚と、化け物みたいな速度で駆け抜ける脚。粗末な砂が撒かれただけの校庭と、毎朝、授業の合間、整備される美しいターフ。全然違うものを見ているはずが、ナカヤマフェスタの目にはあの頃が映し出されている。

女性の娘にかつての自分を重ねている所為だと、彼女の脳味噌は理解をしていた。だって彼女は今、先生ではなくなっているのだから。ふと、女性もあの頃を見ているのではないかと思い当たって、彼女は再び女性を見下げた。女性の真っ黒な瞳には『ナカヤマフェスタ』だけが映っていた。背景もなにもなかった。やはりニット帽はかぶっていない。女性はあの頃のナカヤマフェスタを呼び起こしたくせに、目の前のナカヤマフェスタを見ている。そう、彼女は思った。麦茶の表面を揺らして、二つの紙コップをくるくる弄って、二度と思い出の二人には戻らないけれど、今更、今を生きるナカヤマフェスタから言葉を引き出そうとしている。根負けだった。

「アンタの娘を走らせて、勝たせてやりたかった。凱旋門賞で。私自身が、アンタに勝たせてもらったんだから。この気持ちだけは嘘じゃない。この気持ちだけは、まだ。私の小さな脳味噌は『無理だ』『無意味だ』って訴え続けてきたがね。それでもアンタの娘の夢だから、誤魔化し続けてきたんだ。私の夢を支えてくれたアンタに、大人になった私の、不甲斐ない姿を見せたくなかった。……ほらな、ずっと、わがままだった」

ずっとナカヤマフェスタを覗き込んでいた女性はえくぼとほうれい線を深くして、満足したように笑った。それはさっきまでとは同じようで違う笑顔で、吹っ切れたような、悪い方向に捉えるときっぱり諦めたときの笑顔だった。娘の夢を『先生』に否定された、当然だった。ナカヤマフェスタは奥歯を噛み締め、膝の上の拳を握り直し、俯く。俯いた視線の先には皺の増えた手があって、前に見たときより形の崩れた紙コップがその中に優しく包み込まれている。まるで己のわがままを認めた私と、木陰に眠る女性の娘みたいだ。と、俯くナカヤマフェスタは今、どうでもよくて、なんでもないことしか考えられないみたいだった。いや、今は考えたくなかった。


居残った夏は暑い。走っているときよりも地面が近い。髪の生え際からじわりと滲み出した汗が、乾いた地面に黒い斑点を描く。ぽつぽつと増えていく黒い斑点はあの子が落としていったものと同じで、しかし、こうして視点を変えて見ていると涙だったのかもしれないと思う。ナカヤマフェスタはそう思うだけで、夏は暑いから、深く考えることはできない。隣で女性がハンカチを取り出して、額の汗を拭った。それはトリコロール柄のタオルハンカチーフ。女性の足元に汗模様は一滴たりとも描かれていなかった。既に顔を上げていた女性の口元は弧を描いて、走るウマ娘たちを眺めている。

「ごめん」
「本当に。わがままですね、先生は」

食い気味にナカヤマフェスタが謝ると、女性は「ふふっ」と吹き出すようにして笑う。薄くなった肩を揺らし、ギィギィとなくパイプ椅子に座って、走る小さなウマ娘たちを嬉しそうに眺めながら笑う。ナカヤマフェスタの教え子たちがふたりの目の前を走り過ぎていくから、泣き出しそうなほどに笑っている。「ごめん」。ナカヤマフェスタが言葉を重ねると、女性はゆっくりと首を横に振った。優しい仕草だった。溢れた感情を掬うように一度俯き、またゆっくりと顔を上げる。違いますよ。と、呟く。言葉の示すところがわからないから、ナカヤマフェスタは瞬きのスピードを上げて、恥ずかしくなるほどにわかりやすく困惑した。失望した。と、いう意味ではなかったのだろうか。少女の先生として、謝らなければならないのではなかったのだろうか。思考があやふやに絡み合った結果、出力されるのは阿呆みたいなおうむ返し。

「ちがう?」

沈黙。ややあって。

「それはもう、わがままじゃない。って、こと。母親のわたしに、先生は本音と現実を話してくれました。……ね?」

そう答えた女性は、眩しそうに目を細めていた。ウマ娘たちの蹄鉄が沈みゆく夕陽を反射して、きらりきらり、オレンジに輝いている。眩しいのなら、似合わないサングラスでも掛けてしまえばいいのに。と、ナカヤマフェスタは思う。二度目にそう思ってから、彼女がグラウンドでサングラスを掛ける姿を見たことがないと思い出す。彼女の真っ黒な瞳を縁取るのはいつだって透明な丸眼鏡で、きっと、死ぬまでそう振る舞いつもりなのだろう。きらりきらり。蹄鉄に乱反射するオレンジがその目を焼き潰したとしても、ウマ娘たちが、そして愛する娘が走ったグラウンドを見つめ続けるのだろう。

「ああ。……そう、か」

ナカヤマフェスタは、女性が呟いた『違いますよ』の正体がわかったような気がした。大人だからとわかったふりをしているだけで、本当はわかっていないのかもしれない。ふたりはどうしたってウマ娘と人間で、ふたりが同じになれることはないのだから。それでも、わかったような気がしていた。遠く、女性の娘を見る。

少女は相変わらず顔に白いタオルをかけていて、だが、その表情を推し量ることはやはり容易だった。夏陰の下、小さな胸が上下している。規則的、規則的、不規則的、規則的。少女に買い与えられた、人間用の、高価で品質の良い運動靴。努力の証として使い込まれた靴裏は、偶然、ナカヤマフェスタたちの方へ向けられていて、しかしオレンジに輝くことは決してなかった。そして母親に似て、少女もよく目を細める。ドンケツを走りながら。母親に似ているが、少女のそれは目が眩むからと苛立っているような視線。似て(まだ)非なるもの。

「……そうだな。夏休みのうちに、せめて私の口から、アンタの娘にきちんと伝えておく」

ようやく自然と出てくるようになったナカヤマフェスタの言葉に、女性はうんうんと繰り返し頷く。首を縦に振る。そうやって女性が優しく肯定するから、大人の台詞の続きだってスラスラと話せてしまう。へらへらと話してしまう。あくまでこれは告白で、そして現実だった。大人がふたりで行う、現実の再確認のはずだった。そこが会話の終着点、目標地点になるのだと信じていた。ナカヤマフェスタの口が、再び開く。密かに拳を握り締めた少女の胸が不規則に上下を始めて、眩しい夕陽が最後の力を振り絞り、くろぐろとした影を落とする。少女の小さな拳が地面に振り下ろされる――。


「『夢を諦めろ』なんて、残酷で、二度と取り返しのつかない言葉だ。それでも、伝えなきゃならないときがある。先生ってのは、ほんとうに、難しい役目なんだと思う」


ちゃぷん。麦茶の表面が揺れた。

終着点にて。女性はなにも答えなかった。ナカヤマフェスタは同意を期待していたから、口を閉ざすほかなかった。

ウマ娘たちの練習風景をにこやかに眺めていた女性はふと息を止め、しんと瞬きを止め、隣のパイプ椅子に座るナカヤマフェスタだけを見る。一度断たれた口紅の痕が残る紙コップを握り締め、また、ちゃぷん。麦茶の表面が揺れた。真剣な表情で、静かに、真っ直ぐに見つめられるなんてことはだいたい十数分ぶりだったから、ナカヤマフェスタは気恥ずかしいという理由だけで目を逸らすことができなかった。重ねられた紙コップ。ぬるくなった麦茶の揺れる音だけが世界に響いていたが、ウマ娘たちが走る蹄鉄の音が近づいてくる。いくつもの蹄鉄が反射した夕陽の色は濃くなり、その光に魅せられた真っ黒な瞳から目を離せなくなった。

女性はゆっくりと瞬きをする。汗に滲んだマスカラが目元に黒い影を散りばめる。夏の影は女性の視線をより濃く、より鋭くして、ナカヤマフェスタを射抜いている。ちゃぷん。麦茶の表面がまた揺れて、女性は薄い唇を噛んで、含んで、話す。

「違いますよ」

終着点にて。
静かに、女性が言った。

「ねえ、ナカヤマ。どうすればあの子は、わたしの娘は、凱旋門賞で勝てると思う?」
「え、いや。……だから、それは」

ナカヤマフェスタは答えられなかった。
ついさっきまでスラスラ、へらへら動き回っていたはずの舌がもつれる、痺れる。教え子であるウマ娘たちの蹄鉄の音に四方八方を囲まれたまま、先生は唾液を嚥下する。終着点にて、■■■にて。しかし、彼女たちの人生は続いている。


「ナカヤマフェスタは凱旋門賞を勝った」


静かに、女性が言った。
躊躇いがちに、ナカヤマフェスタは頷く。


「あなたの先生は凱旋門賞を勝った」


静かに、女性が言った。
躊躇いがちに、ナカヤマフェスタは頷く。


「あなたの――いえ、もう言わなくてもわかるはず」


力強く、女性が言った。
ナカヤマフェスタは頷こうとして、躊躇う。彼女を真っ直ぐに見つめていた女性は、それ以上なにも言わずにただ微笑むだけだ。たくさんの、幼い蹄鉄の音。その中心にいるナカヤマフェスタは今、レース教室の先生だった。先生だった。こんな私が「先生」になれるのだろうか。ナカヤマフェスタは肯定を躊躇い続けている。『もう言わなくてもわかるはず』。彼女はわかっていた。が、ひどく眩しく見えていた。蹄鉄に乱反射するオレンジの光。目が眩んで苛々してしまうから、ナカヤマフェスタは目を細める。その姿を隣で眺めていた女性は、うんうんと首を縦に振って、優しく肯定をしてくれていた。だから躊躇いがあっても、ナカヤマフェスタは口を開こうとする。

「でも、」
「でも?」

しどろもどろ。上手く言葉を続けられないでいると、遠くで少女が身体を起こす。疲労も抜け切っていないくせに、真っ白なタオルを顔から払い除け、立ち上がる。真っ赤に火照った頬を手のひらでパシンと叩いて、彼女は穏やかで居心地の良い夏陰から飛び出していった。乱反射するオレンジの光に目を細め、ふらりと足元を踊らせたかと思えば、光をギロと睨みつけて走り出す。光を灯さない足で、眩しいオレンジの光の中へ果敢に飛び込んでゆく。

夢追う少女の姿を眺めていたふたりの大人は、それから顔を見合わせる。口にした言葉の通り、頑固な女性は、自分から話を始めようとしない。穏やかで居心地の良い笑顔を浮かべたままで、ナカヤマフェスタの言葉を待っている。バカげた夢を諦めようとしない、一人休憩したばかりだというのに集団のドンケツを走り始めた少女に視線をやってから、ナカヤマフェスタはぽつりと呟く。オレンジの輝きに焼き尽くされてしまいそうな、消えてしまいそうな、まだ頼りない声で。

「もし、あんたの娘がそれを望んだとして、だ。私に、ウマ娘として走っただけの私に、その夢を支える力なんて、」
「だめ。簡単に終わらせないで、ナカヤマフェスタ」

穏やかで居心地の良い笑顔を浮かべたまま、女性は首を横に振った。目を瞑って、口角は上げて、ゆっくりと首を振ってナカヤマフェスタの終着点を否定した。ナカヤマフェスタがナカヤマフェスタを否定する言葉を、否定した。許してはくれなかった。それが光栄な否定であり、肯定であることを彼女は理解をしている。彼女たちの人生は続いてゆく。

「でも、」
「ナカヤマ先生」

女性は、初めて遮った。あるいは背中を押して、きっぱりと突き放した。何度でも「でも?」と、尋ね返し、導いてくれた女性だが、今度ばかりはそのつもりがないようだった。力強い口調で、食い気味に、隣に並ぶナカヤマフェスタを「先生」と呼んだ。世界にありふれたその単語は、今のナカヤマフェスタと女性を引き剥がすに十分だった。でも、でも、でも。 

困り果てたナカヤマフェスタは頭を掻き毟り、自分があのニット帽をかぶっていないことに気づく。背筋が伸びるような心地がしたから、夏陰を生み出す木々に倣って、すくっと背筋を伸ばしてみた。ある夏の日が、暮れるときの出来事。 

名残を惜しむツクツクボウシのオスが、延々と鳴き続けている。かつて菊を争った京都ほどではないにせよ、東京の夏は蒸し暑い。今年が一番蒸し暑いと感じても、来年にはその蒸し暑さを超えていく。どんどんあつくなる。再来年も、きっとその先も。ツクツクボウシが鳴き続けている。今年の夏が終わるまでにメスと巡り会えなければ、彼らは生きた証を残せないまま死んでしまうからだ。諦めるということは、すなわち、生きながらにして死んでいることと「……」同義だからだ。 

「この頃、ツクツクボウシが五月蝿いですね。お母様の言葉も時々、あんまり聞こえなかった。申し訳ない」
「ふふ。ナカヤマ先生に、失礼なことを言ってしまった覚えがあります。ツクツクボウシには、感謝をしないと」
 
そんな大人同士の世間話も、ツクツクボウシの合唱に掻き消されてしまいそうになる。遠く、近く、蹄鉄が地面を蹴る音に負けてしまいそうになる。それでいいのだと、それが正しいのだと、ナカヤマフェスタは思って、笑う。うずうずして走り出したい気分になって、蹄鉄を打った自身のシューズに視線を落とすと、茶色い蝉の抜け殻が転がっていた。まさか、校庭の固い土から這い出してきたわけではないだろうから、夏には柔らかい土に青草が生い茂り、冬には落ち葉に覆われる腐葉土が豊富な場所でこれは育ち、夏風に飛ばされてここまでやってきたのだろう。などと、どうでもよくて、なんでもないことを考える。いや、もはや、難しく考える必要はないのだと前を向いた。 

ドンケツを走り続ける少女の背中は、黒に近い茶色の土で汚れ、湿っている。枝葉を広げた木々が濃い影を落とす場所に視線をやってから、ナカヤマフェスタは立ち上がる。

「私はそろそろ指導へ戻ります。あのチビどもは放っておくとすぐにサボりますから」
「ええ、わたしもそろそろ。担当が海で遊び始める頃でしょうから。今日はありがとうございました、先生」 

パイプ椅子に座ったまま、女性は軽く頭を下げた。ナカヤマフェスタも姿勢を正し、会釈を返す。ニット帽を取ろうとする昔の名残を引き摺らずに頭を下げることができた、初めての瞬間だった。初めての日だった。初めての夏だった。ナカヤマフェスタは鼻の頭を擦って、はにかむ。なんにも乗っていない自分の頭を自分の手で撫でるという仕草は、昔々のナカヤマフェスタを知らないひとが見れば全くもって意味がわからないだろうし、なにより格好が悪いから。 

ナカヤマフェスタを見上げる女性は、ベコベコになった紙コップに新しいのを無理矢理押し込んで、ふたつ重ねたそれを両手で優しく包み込んでいる。まるで昔の私と、女性の愛娘みたいではないか。と、ナカヤマフェスタは自分たちのことを重ねて、苦笑を漏らした。いつの間にか、紙コップは空っぽになっていた。「最後に一杯、汲んできましょうか?」。ナカヤマフェスタが問うと、女性も嬉しそうにはにかんで、今日はもう結構ですよと答え、すくっと立ち上がった。二人の身長は同じくらいか、ナカヤマフェスタの方が指一本高いくらいだ。

「祈って、繋げて、育んで。先生はそういうウマ娘ひとだから」 

終着点は存在しない。
二脚のパイプ椅子が隣り合っている。風に吹かれて、土埃に飲み込まれ、さらさらさら。砂は再び落ち始める。 




少女はレース教室を去った。夏が終わる頃の出来事だった。

「今までありがとうございました、先生」
「ああ。これからも頑張れ、腐るんじゃねえぞ」 

はい、と少女が力強く頷く。走るとき、邪魔にしかならないから。と、最近では絶滅しかかっているタフな思想で短く切り揃えたショートカットの毛先が揺れて、夕陽を掠めるたびにちらちらと輝いた。今年も夏を乗り越えた少女の黒髪は、夏を迎える前と比べて、ほんの少し、襟足が伸びている。量も多くなって、真夏の熱気の残り滓を取り込み、ふわふわと膨らんでいる。言葉にすれば野暮ったくなってしまって、しかし丸みを帯びたシルエットが年頃の女の子らしさの片鱗を覗かせる髪は、レース教室の見学にやってきたかつての人見知り少女を想起させた。想起させられた。 

「……先生。私の夢をバカにせずにたくさん教えてくれて、こうして送り出してくれて、ありがとうございました」 

そうやって、言葉を紡いで、少女が勢いよく頭を下げる。少女が背負ったリュックの中から、からんからん、と音が響く。空になったペットボトルと、アルミの筆箱に入ったシャープペンシルと消しゴム、定規、それから電卓、それからノート。ウマ娘が鳴らす蹄鉄の音ではない。ナカヤマフェスタは音の正体を知っている。 

遠く、近く、少女の黒髪が揺れる。ゆっくりと頭を上げた少女の真っ黒な瞳には、オレンジの夕陽が映り込んでいた。若く、青い色をしていた。名残を惜しむようにナカヤマフェスタの前に立つ少女は、そっと、眩しそうに目を細める。少女の目を焼き潰してしまいそうなほどに鮮烈なオレンジと、それをくり抜いたナカヤマフェスタの穏やかな黒い影。二人は長い間——いや、短かったかもしれない——お互いの瞳の奥まで見つめ合って、探り合って、確かめ合って、なにも言わなかった。世界を交換していた。「 」と、嬉しそうに、少女の口がなにかを呟く。ナカヤマフェスタが聞き返すよりも早く、少女は踵を返してしまった。

「…………」

オレンジに輝く太陽がやけに眩しく見えるから、ナカヤマフェスタはしきりに目を擦った。家路に着いた少女の背中がぼやけていく。遠ざかる。ぼやけていく。遠ざかれ。ぼやけていく。早く、早く遠ざかってしまえ。 

振り返ってくれるな。ナカヤマフェスタは何故かそういうことを祈っていた。しかし、人生において、祈りなんてものはいつもっぽけだった。そういうものだった。少女は振り返る。白い歯を見せ、ウマ耳の無い黒髪の少女がはにかんだ。愛らしい笑顔だった。夏の太陽が沈んでゆく。やかましかったツクツクボウシがなきやんで、きっと子孫を残して、今年もまたひとつの夏が終わってゆく。日焼けした顔で手を振って、彼女の前から立ち去ってゆく。 

「ふふ。先生って、きれいな……夕陽が似合いますよね」
「は、」
「さよなら」
 
さようなら。

「アンタの未来が、どうか、美しくありますように!」
「……なにそれ、せんせ」
「それじゃあ、またな」 

祈るようにやさしく手を振って、ナカヤマフェスタもまた踵を返す。もう振り返らないと決めて、歩き始める。まるで嘘みたいにきれいな夕陽は、潮時を迎え、教室ここを去っていく少女によく似合っていた。 




「——先生! こんにちは、ナカヤマ先生!」

そのとき。
校門の方角から、女性の声が響いた。

顔を上げたナカヤマフェスタは自分に手を振る女性の姿を捉え、湿気を吸った鹿毛を自分の手で撫でつけないで、ラインカーをその場に立たせて会釈をする。もう一度と顔を上げる一瞬、彼女は左右の口角をグッと持ち上げて、最後にとびきりの笑顔を作った。女性も笑った。遠く女性が歩き出す。なにかが足りないだとか、なにかが欠けているだとか、そういうことは思わなくなった。ナカヤマフェスタはニット帽をかぶらずに過ごした時間の方が長くなっていた。 



「お久しぶりです」 

女性は言った。
早足で近づいてきて、嬉しそうに挨拶をした。

仮設のテントの下、ナカヤマフェスタは紙コップに揺れる麦茶の表面をひどく神経質に見張りながら歩き、目線は上げないまま女性に近づいて「久しぶりだな」と、返す。麦茶を受け取った女性は真っ白なブラウスの袖をジャケットごと捲り上げ、紙コップを逆さにしてビールみたいに飲み干した。ナカヤマフェスタはお代わりを、と申し出る。もてなすように、手を差し出す。女性は首を縦に振って「それでは、お言葉に甘えて」と、眩しそうに目を細めた。眩しいのなら、似合わないサングラスでも掛けてしまえばいいのに。と、ナカヤマフェスタは鼻を鳴らす。紙コップを返す女性の手に迷いはなくて、受け取るナカヤマフェスタの手と、ふたりは紙コップ越しに握手を交わした。おおよそ十数年ぶりの再会だった。 

「先生。私、合格しました」
「そのピカピカのバッジを見りゃ、誰でもわかるよ」
「一発合格です」
「優等生様だな。私の教え子らしくもねえ」 

ふふん。と、女性も鼻を鳴らした。

ナカヤマフェスタの皮肉を全て無視して、女性は皺ひとつ無いブラックスーツの襟を何度も引っ張っては桜のような笑顔を咲かせる。一張羅が皺になるぞと呆れても、女性はまるで気に留めない。どうせダートの砂まみれになるのだから、言うだけ無駄だろう。ナカヤマフェスタは呆れることを諦めた。麦茶を注いだ紙コップを渡して、女性の胸元にきらめくバッジを、蹄鉄を模ったバッジをしげしげと眺める。そこに灯る光はひどく美しくて、眩しかった。桜の蕾が頬を染める。草花はうららかに歌う。とある春が、始まる頃の出来事。 

「先生のおかげです」
「まあ、そうさな」
「先生が、私の夢を諦めないでくれたから」
「って、おいおい。まだ、叶ってないだろう?」
 
沈黙。ややあって。

「違いますよ。叶えます、絶対。これから」 

そう答えた女性は、眩しそうに目を細めていた。小さなウマ娘たちの蹄鉄が、成長した女性のトレーナーバッジが、沈みゆく夕陽を反射して、きらりきらり、オレンジに輝いている。眩しいのなら、似合わないサングラスでも掛けてしまえばいいのに。と、ナカヤマフェスタは思う。そう思うのはもう何度目だったか忘れてしまったが、彼女・・がグラウンドでサングラスを掛ける姿を見たことがないなと思い出す。彼女の真っ黒な瞳を縁取るのはいつだって透明な丸眼鏡で、きっと、今、目の前にいる彼女もその透明なレンズを通して夢を見る。きらりきらり。蹄鉄に乱反射するオレンジがその目を焼き潰すのだとしても、彼女らみたいな変わり者はウマ娘たちが、自分自身が走る生きるグラウンドを見つめ続けるのだろう。 

違いますよ。

通過点にて。女性はなにも答えなかった。ナカヤマフェスタは大いに同意をしたから、敢えて口を閉ざした。
 
ナカヤマフェスタは、女性が呟いた「違いますよ」の正体がやっとわかったような気がした。大人だからとわかったふりをしているだけで、本当はわかっていないのかもしれない。私たちはウマ娘と人間で、私たちが同じになれることはないのだから。それでも、ようやく、ようやくわかったような気分になってもいいと思えた。 

通過点にて。
静かに、女性が話し始める。

「ねえ、先生。どうすれば私は、私の担当を凱旋門賞で勝たせられると思いますか? 先生が示してくれた道を、最短距離で駆け抜けたい。私は勝つんだ、凱旋門賞で」
「え、いや。……だから、それは」 

通過点にて。
彼女たちの人生は続いてゆく。

「担当、いんのか?」
「あっ、……まだ、いないですね」
「ハッ。いいぜ、アドバイスをくれてやる。……アンタと同じくらい、まずは、ブッ飛んだヤツを探してくることだ」
「わかりました! じゃあ、先生の教室でスターだったを私に紹介してください!」

「確かに、いくつか目星めぼし奴はいるがな。中央のトレーナーになったんなら、自分の目で見てつけてみせろ。なあ?」 

終着点は存在しない。名前の無い通過点だけが星の数ほど存在する。教え子が引き摺ってくるパイプ椅子がギィギィと喚いて、さらさらさら。さらさらさら。さらさらさら。砂が落ちる。砂が落ちる。砂が落ちる。 


通過点にて。きらめきをかぞえてめぐる春、砂が落ちる。 


通過点にて——

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