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ある幸福な男の一日/Novel by gyoree

ある幸福な男の一日

3,732 character(s)7 mins

やまもおちも意味もない、ただ幸福な槍弓のお話。

以前UPした、ロマンスのカケラもない

novel/10291044

のランサー視点のお話です。

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 ランサーは毎朝、トントントンときざまれるネギの音で目を覚ます。

 覚醒したまぶたの内側を、遮光カーテンの隙間から差しこんだ光が明るく照らした。
 眩しさに寝返りを打ち、枕に顔を埋めると大きく息を吸う。そうしてぼんやりとしたまま枕元に手を伸ばし、手にした携帯で時間を確認する。
 ああ、もうこんな時間か。布団の中で大きく伸びをして、気合を入れて何とか上半身を起き上がらせた。

 キッチンに顔を出すと、炊き立ての米の香りがした。
 大きなあくびと共にその香りを吸いこんで、ぼさぼさの頭を掻き毟る。
「……はよ」
「ああ、おはよう」
 同居人は、ランサーを一瞥だけして、すぐに朝食づくりに向き直った。
 ランサーはキッチンの入り口の壁にもたれて、数秒、せわしなく動く背中を眺めた。浮き上がった肩甲骨が灰色のシャツの下を左右に動いて、止まって、また動く。
「ふぁ……」
 再度大きなあくびをして、顔を洗うため洗面所に向かった。
 伸びた無精髭を剃って、髪を整え、冷や水で顔を洗う。鏡にうつった自分の顔はまだ眠そうだ。毎朝目覚めるたびにあと1時間長く寝られればいいのにと思う。
 そうしてぼんやりとした思考を引き連れたままキッチンに戻ると、机の上に並べられたほかほかの朝ごはん。グラスに注がれた冷たいお茶を飲んで、ようやくランサーは目を覚ます。
「いただきます」
 声を揃えて手を合わせて、朝のニュースに耳を傾けながら、昨日の残り物のお浸しと、だし巻きに味噌汁の朝食を平らげた。
 食べ終えた食器をシンクに置くと、同居人が洗い物に取り掛かる。同居人は料理教室の講師をやっていて、サラリーマンのランサーよりも時間に余裕がある。特に取り決めはしてはいないが、本人の趣味嗜好も相まって家事全般を請け負ってくれている。
 机の上にはきれいに布で包まれた弁当が一つ。
 ランサーはそれを傾かないようにカバンの中に仕舞うと、皿を洗っている同居人の背後に忍び寄った。
「いってくる」
 自分よりほんの少し高い位置にある相手の頬にキスをする。
 これはランサーからの感謝のしるしだ。この男と一緒に暮らし始めてから一度たりとも欠かしたことは無い。たとえ喧嘩をした翌日だって、絶対に忘れはしないとランサーはひそかに心に誓っている。
 毎日の行為であるにもかかわらず、同居人はいつも恥ずかしそうに目を細める。
「ああ、いってらっしゃい」
 言葉に送り出されて、ランサーは家を出る。
 駅まで徒歩10分、電車に揺られて15分。
 会社についてタイムカードを切ると、ランサーはすぐさま資料を持って得意先へと向かう。
 ランサーは営業職だ。訪問や打ち合わせで社内にいることはあまりない。午前中をあくせく働いて、一息ついたところで目についた公園のベンチに腰を落ち着ける。
 自販機で買ったお茶を脇に置き、手にした鞄から弁当を取り出して包みを解いた。今日の弁当はなんだろう。蓋を開ける前に想像して喉を鳴らす。
 営業なら外食の方が楽じゃないか?
 そう同居人に言われた時、ランサーは強く否定した。
 お前の弁当よりうまい飯なんてあるかよ。
 作るのが面倒なら無理にとは言わないが、できるならば弁当がいい。そんなランサーのわがままをずっと守り続けてくれている。
 蓋を開けると内側には小さな保冷剤。
 二段重ねの弁当箱にはマカロニサラダと卵焼きにプチトマト、それと唐揚げがぎっしりと詰まっている。
 この唐揚げは冷めても美味しいのだ。ランサーは口いっぱいに唐揚げと白米を頬張った。冷めているのに肉汁が染み出して、思った通りの美味しさだった。これなら午後も頑張れそうだと思ったし、事実、頑張れた。
 
 外回りの仕事を終えて、ランサーがようやく事務所に帰った頃、同居人からメールが来た。
『今夜は何が食べたい?』
 それだけの質問に、ランサーはパソコンの前でうんうんと唸った。同僚たちから見れば、今作成している見積もりの金額で頭を抱えているように見えただろうが、ランサーの頭の中は食べたいものトップ10の表彰会で大騒ぎだった。
『トンカツ』
 散々悩んだ末にメールに一言そう返した。
『わかった』
 簡潔な言葉が返ってくる。
 トンカツだ。とんかつとんかつ。
 帰りにロング缶を買って帰ろう。
 ランサーはご機嫌で見積もり作成に取り掛かった。

 定時になり、切りよく仕事を終えてすぐさま帰路に着く。
 頭の中はトンカツのことでいっぱいだ。
 電車に飛び乗り、駅前のスーパーに寄ってよく冷えたビールのロング缶を二本買う。
 駆け足気味でタイル張りの歩道を進んで、年季の入ったマンションの階段を駆け上がる。
「ただいま!」
 帰宅に声を張り上げると、キッチンからジューッと揚げ物を揚げる音がする。
 洗面所よりも先に冷蔵庫に向かって、買ったばかりの缶をしまい、ビールのグラスを冷凍庫に入れた。
「おかえり、ランサー……先に手を洗えといつも言ってるだろう」
「へいへい」
 母親のようなお説教に背を向けて、洗面所で手洗いうがいをする。スーツを脱いで家着に着替え、同居人の背後からトンカツが揚がっている様子を覗く。
 綺麗な狐色。
 上機嫌のまま戸棚から必要な食器を出して並べた。ビールの用意も完璧だ。
 同居人の背中から、揚がった衣を切るサクサクという音がする。
 ワクワクが止まらない。
「さあ、できたぞ」
「待ってました!」
 たっぷりの千切りキャベツの上に盛られた出来立てのトンカツに、口の中がよだれでいっぱいだ。まずはそれを肴にビールを一息。
「あーっ!うめえ!」
「おっさんだなあ」
「うるせえ、おっさんなんだよ」
 同居人のからかいに一言返して、ずっと楽しみにしていたトンカツを一切れ。
 ソースをつけて一気に一口。
「……うめえ」
 ビールが進む、箸が進む。
 ランサーは半分をソースで食べて、もう半分をおろしポン酢で食べた。
 同居人はそんなランサーの様子を嬉しそうに見ていた。

 食事を終えると、同居人はまた洗い物に取り掛かる。ランサーは風呂へと向かうと、湯船を洗ってお湯をためた。
 そのまま服を脱ぎ、湯に浸かる。
 肩までザブンと沈めると、1日の疲れが水の中に溶け出していくようだ。
「あ〜〜〜〜」
 こんな声を聞かれたら、またおっさんだと揶揄われるだろう。
 同居人とは大学で知り合ってもう10年、一緒に住み始めて6年経った。気が付けば年齢は三十路の一歩手前。
 もうずいぶん長く一緒にいる。
 ランサーは左手を掲げて浴室のライトにかざした。
 何もない左手だ。もっとこう、薬指のところにこう、いい加減、あってもいいんじゃないだろうか。
 なんとなく先延ばしになっている現実をどうにかしたいと最近とくに思っている。
 それっぽいことを言ってみてもいいんじゃないか。
 例えば、毎朝俺に味噌汁を作ってくれ。とか。いや、毎日食ってるけど。味噌汁。
 浴槽に顔をつけてぶくぶくと泡を立てる。
 お湯だから頭は冷えなかった。

 ランサーが顔を洗って風呂から上がると、同居人が入れ違いに風呂に入っていく。
「髪、ちゃんと乾かすんだぞ」
「わーってるっつうの」
 面倒だなと思っていたのを見透かされている。ランサーは渋々ドライヤーを手に取った。なんとなく願掛け程度に伸ばしている髪だが、こういう時はバッサリ切ってやろうかとおもう。
 テレビのバラエティを流し観ながら髪を乾かす。適当なところで切り上げて、携帯でゲームをしたり、ネットショップで新しい釣竿が欲しいな、なんてことを思いながらダラダラと時間を潰した。
 同居人は風呂から上がると、洗濯物を畳み、明日の朝の仕込みを始めた。
 ずっと働き詰めのように見えるが、アレが同居人の趣味なので、ランサーは間違っても手伝おうかなどと言わない。人の趣味に口を出すなと噛みつかれるのが目に見えている。
 ふと時計を見ると22時を過ぎたくらいだ。
 そろそろ寝るか、とランサーは畳の上で伸びをして寝室へ向かった。
 暗い部屋の中、小さなライトだけをつけてキングサイズのベッドの右端へ潜り込む。布団に入ると、営業で歩き回ったからか、足の先が少し怠い。
 10分ほど目を閉じていると、寝室のドアが静かに開いた。ランサーは目を開けて、布団を押し上げてベッドの左側の空間を開けた。
「起きてたのか」
「そんなにすぐには寝れねえわ」
 そうか。
 同居人は小さく答えて布団の中に入った。
「おやすみ」
「ん、おやすみ」
 同居人が小さなライトの灯りを落とす。真っ暗になった部屋。綺麗な姿勢で眠りに入る同居人の隣で、ランサーは再び目を閉じた。すー、と聞こえてくる寝息に、もう一度目を開けて、暗がりの中にぼんやりと浮かぶ横顔の輪郭を眺める。

 オレって、幸せだなあ。

 そんなふうに思って、うとうとと目を閉じた。
 そうしてまた明日の朝、ランサーはトントントンときざまれるネギの音で目を覚ますのだろう。
 これは、ある幸福な男の、いつも通りの一日のこと。

 

Comments

  • sazabi

    読んでるこちらが幸せな気分になりました。 ありがとうございます

    July 27, 2020
  • そー
    July 20, 2020
  • ねいねい
    July 20, 2020
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