「300kmぐらい自分で運転しなきゃ」元F1ドライバー中嶋悟73歳、クルマと走り続ける人生 #つなぐ伝統
1987年はフジテレビがF1全戦中継をスタートした年だ。ホンダF1エンジンのワールドチャンピオン獲得に向けた活躍、日本人初のF1ドライバーという話題性もあり、日本ではF1ブームが巻き起こった。 中嶋さんは1年目のイギリスGPで4位入賞を果たし、初表彰台への期待が高まった。プレッシャーはなかったのだろうか。 「好きなことをやってるんだからね、応援されないよりされたほうがうれしい。だけど、外からのプレッシャーっていったって、何があるのって感じだよね」 F1ドライバーになり、世界を転戦し始めた中嶋さんには、もう一つの楽しみができた。 「世界中、旅をできたのはうれしかったね。知らない国に行けて、知らないものを食べて。1年目は特に楽しかったね」 大好きなドライビングでは、F1で走るのも、外国の一般道を走るのも心から楽しんでいたという。 春から夏にかけて世界を回り、当時は秋に開催されていたF1日本GPで日本に帰ってくると、中嶋さんを取り巻く環境は一変していた。 「僕がいない間に何か有名になっちゃった。帰ってきてから、周りがえらく騒がしくて。街を歩けなくなっちゃったんだから。鈴鹿の景色も違うし、お客さんの数もすごいし。びっくりしましたよ。うれしいな、こんなにみんなが興味持つようになったんだって」 世界を転戦している間に、F1や自分の存在が世間に知れ渡り、トイレにも行けなくなるほど有名になった。中嶋さんはそれを機に、ほとんど電車に乗らなくなった。
15万人の観衆が見守った日本ラストラン
F1ドライバーとして、5年間を過ごした中嶋さんは1991年にF1ドライバーを引退。すでに38歳のベテランではあったが、モータースポーツのパイオニアの引退を当時、日本中が惜しんだ。 「モチベーションはあったって、体がついてこんってやつじゃない。運転が好きだから、自分で動かしたいんだから、思うように動かなくなると嫌になる。前の年くらいから、もう無理だなっていうふうに思ってた」 日本のF1ブームのピークでもあった1991年、F1日本GPでは大量の「ありがとう、中嶋悟」のフラッグが掲げられ、鈴鹿サーキットには15万人の観客が詰めかけた。日本でのラストランはS字コーナーでサスペンションが折れて、クラッシュ。残念ながらリタイアに終わった。 当時、チーム(ティレル)が中嶋さん最後の母国レースを盛り上げようと6台ものシャシー(車体)を日本に持ってきたという。 「(チーム代表に)おまえ、好きなやつ乗れって。僕は今年1年で一番調子いいの、どれだっけって選んだのが、(サスペンションが)折れちゃったんだから、どうしようもないよね。完走したかったけど、本人は周りより分かってるからね。もういいわって」 5年間のF1ドライバー生活は、のちにF1ドライバーとなる息子の中嶋一貴さんら家族が見守る中、雨のオーストラリアGPで幕を閉じた。 F1など世界選手権レースを引退してから別のレースに出場するレーシングドライバーは多いが、中嶋さんはスパッと全てのレースから引退した。自分の理想とするドライビングができなくなったからだ。 「世界中で一番速い車に乗った後、何に乗るのっていう気持ちがあったから。自分が思ったようにならなきゃやめる。それでいいと思ったよ」