「まだ居るのね、この無駄飯食らい」
すれ違いざまに、美しい女性が囁いた。
その言葉に何の反応も寄せることなく、アーチャーは静かに会釈して廊下を歩く。
ここはハレム。地を統べる権力者の耽溺する後宮だ。
本来ならば男であるアーチャーが足を踏み入れることどころか、眼にすることすら出来ないこのたった一人のための郭で、彼は孤独に生きている。
もともとアーチャーは戦士だった。
諸国を放浪し、あてもなく旅し、誰かと自分のために戦う、任侠とでも言うべきか。
そんな彼を一体どうして見初めたのか、この国の王は強引な手段と権力で無理矢理にその床に引きずり込んだ。
アーチャーにしてみれば迷惑この上なく、しかもただ単なる王の気まぐれによる戯れ。
しかし戯れであろうと何であろうと、王が手をつけたのは確かだった。
お手つきである以上、それが女だろうが男だろうが、老人だろうが幼児だろうが、全て後宮に留め置かれるのがこの国の常識であり、法だ。
気がついたときには、冷や汗が浮き出るような身体の痛みと、頭の重さ、そして幾重にも囲われた、後宮の奥殿が彼に与えられていた。
そしてそれきり今に至るまで、アーチャーはこの建物の中から外へ出たことはない。
何度か出ようと役人たちに掛け合い、寵姫と呼ばれる女性たちとも話したが、その度に鼻で笑われるだけで彼が省みられることはない。
役人にしてみれば、働かずして生きていける彼の立場は恵まれたものにしか見えないし、彼女たちにしてみれば、男の癖にたとえ一夜とはいえ王の寵を受けたという事実が赦しがたい。
後宮に、彼の味方は一人としていなかった。
誰も彼もが侮蔑と嫉妬と嘲弄の目で彼を見る。それでなければ無視だ。
やがて彼は出て行くことを諦めた。少なくとも、合法的に出て行くことは。
いつか脱走することも考えはしたが、何しろここは後宮。
幾重にも敷かれた警備が、外からの侵入も中からの脱出も全てを閉ざしている。
脱出するにしてもタイミングと道具と人の協力が絶対的に必要だった。
道具は自分の手先が器用であることもあり、時間を掛ければ作れなくもないだろう。
タイミングも、根気強く調べていけば、警備の穴くらいは見つけられるかもしれない。
だが協力者は? これを考えるたびに、アーチャーは絶望的な現実を直視せざるを得なくて、いつもがっかりする。
男性として立派な体格を持つ彼は、少なくとも哀れんでもらえるような対象としては見られない。
更に、協力すれば何か見返りがあるかもしれないと思わせるにしても、あまりにも後ろ盾がなさ過ぎる。
これが女性であればまだしも王の精を受け懐妊ともいうことになって、少しは寄って来る官吏の一人や二人くらいいそうなものなのだが。
鬱屈とした退廃と華美だけが目に付くこの建物で、まるで宝重が納められるかのようにただ呼吸だけをして暮らす日々。
たまに出歩けば、ああして顔も知らない美女たちに嘲りと侮蔑を投げつけられる。
彼女たちは出て行けという。しかし、出たいと願ったアーチャーを無視したのも彼女たちだ。
この素晴らしい―――少なくとも対外的には後宮は女にとっての楽園と呼ばれている―――場所から、出て行きたいなどと、何と我侭な!
つまり、結局のところ彼女たちがアーチャーに言いたいのは一言だけなのだ。「早く死ね」と。
目障りな者は早々に消えるが良い、と。
重い溜息をついて、アーチャーは与えられた自室で、押し付けられた役目以上のことはしようとしない世話役の女たちに監視されながら、窓辺に腰掛けて遠い空を仰ぐ。
三年前、戦場に居たころには常に当たり前のものとして頭の上にあったはずの青が、今は酷く遠い。
その夜、後宮に入れられて初めて、アーチャーは王の酒宴に呼び出された。
「いや、流石は中つ国でも名を知られた御国だ。これほど見事な装飾は、他の国ではそう眼にすることも出来ないでしょうな」
心にもない賛辞を口にしながら、赤い眼を微かに眇め、ランサーは表面上友好的にゆるませた。
その正面、少し高い位置に腰掛けた小太りの男は、その賛辞を心地良さそうに頷いて聞いていた。
「いや、まこと羨ましい。王は国一番の美女たちをも独占なさっているとか。まさしくこの世の春でございますな」
一緒について来ていた小役人が、揉み手でそう語りかける。
いかにもわかりやすいおだてだが、気分の良くなった王は笑って首を横に振る。
「なに、美女だけとは限らん。珍しいものは全て手に入れることにしている。そう……朕の後宮には男だっているのだ」
「ほう!」
それはさぞかし線の細い、いかにもな美形なのだろうな、とランサーは顔も知らぬその男を嘲った。
彼の認識において、色を売るような男にろくなものは居ない。
せいぜい、努力したところで宦官と手を組んで後宮を牛耳れる程度の、器の小さい者ども。
興味の全くない彼の様子を逆に取ったのか、王は笑って「本当だという証に、今宵の宴で見せよう。酌の一つでもさせれば、信じるだろう」と哄笑した。
その王に愛想で笑って見せながら、ランサーはこっそりと今夜の宴をいかにして中座するかに頭を働かせるのだった。
何が悲しくて好きになれそうにない男との酒宴で、気に食わなさそうな野郎の酌など受けなくてはならないのか。
せめて他の後宮にいる寵姫たちなら、まだしも酒の味がわかるだろうに。
気の利かない王に対する評価をどんどん下げながら、隣国の特使としての立場を忘れることなく、ランサーは最後まで礼節を保ったまま、謁見の間を退出したのだった。