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南部への旅、半世紀ぶりに再会したウェイン・パーキンス/最低で最高のロックンロール・ライフ(シンコーミュージック)

【読者のみなさまへ】

この記事は過去に発表されたものの再掲載です。当時執筆した内容をできる限り残しておりますが、一部は手を加えました。現在では不適切とされる表現や用語も、記事のオリジナル性と発表当時の時代背景を踏まえて掲載いたしました。人名などの固有名詞も当時のままにしてあります。時を経て、のちに明瞭になったこと、本人たちがインタビューで語って正確になったこと等々も、上書きはしておりません。どうかご理解ください。

アルバム・タイトルは『アルバム』と二重カギ括弧、シングル曲は「シングル」と統一してあります。


50年、つまり半世紀という長さがどれほどのものか、多分、お若い方には想像できないでしょう。

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マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ

1973年に初めて会って、それからきしくも50年後の2023年、私はひとりのミュージシャンに会うために、アメリカの南部を旅した。

2020年3月、コロナ禍が世界を覆う寸前、私は英国に行った。帰国すると、世界中の国境が次々と閉じられた。

私たちは3年間の冬を耐えた。アーティストの来日はすべてキャンセルされ、夏のフェスティバルも催されなかった。そして23年春、国々は国境を開き始める。私はパスポートを取り出して有効期限を確認し、性懲りもなくパソコンを叩いてアメリカ行きの飛行便を探し始めた。

後悔する前に会っておきたいアメリカの友人がいる。彼は優秀なギタリストだが、脳腫瘍を患い、何度か手術を受けているという。行くのなら今しかない。私も75歳で、健康状態もけっしていいとは言えなかったからだ。

彼の名前はウェイン・パーキンス(Wayne Perkins)。アラバマ州のバーミンガム(Birmingham)に住んでいる。ウェインとはきっかり50年前に一度会ったきりだ。1973年、私はシンコーミュージックで『プラスワン』という、『ミュージック・ライフ』のサブ・マガジンのような小雑誌を編集していた。『ミュージック・ライフ』と競っても意味がないし、独自の路線をめざしていたが、今になって目次を見ると、毎月、オールマン・ブラザーズ・バンド、レゲエ、マッスル・ショールズ、ボブ・ディラン、そんな記事が多かった。

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1973年の武道館公演からも収録されているLeon Russell Live in Japan

1973年3月、レオン・ラッセル(Leon Russell)が武道館で公演を行なった。そのときのツアー・プログラムを見て息をのんだ。ギタリストとしてウェイン・パーキンスが同行しているのを見つけたのだ。私はオールマン・ブラザーズ・バンドのデビュー以来、南部のバンドに興味をもち、ウェインの名前はロニー・マック(Lonnie Mack)、アラバマ・ステイト・トゥルーパーズ(新注:The Alabama State Troupers: Wayne Perkins, Don Nix, Brenda Patterson, Clayton Ivey, Bob Wray, Fred Prouty, Furry Lewis, Jeanie Greene, Marlin Greene)、そしてスミス・パーキンス&スミス(Smith, Perkins& Smith)などで知っていたし、彼がマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで(Muscle Shoals Sound Studio)デュアン・オールマン(Duane Allman)と前後してセッション活動をしていたともきいていた。

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THE ALABAMA STATE TROUPERS
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Smith, Perkins & Smith (Island Records 1972)

招聘元にインタビューを申し込み、ホテルの部屋で待っていると、憧れのウェイン・パーキンスが女の子といっしょに入ってきた。意外に小柄で、期待していたようなオーラもなく(当然だろう、まだ22歳だった)あまりメディア慣れしているとは言えないが、あがってしまったのは私の方だ。SNSの時代から遥か前のこと、彼に関する情報はたった五行しかなく、生まれたときからの質問を矢継ぎ早にしていった。

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1973年3月、レオン・ラッセルと来日時の取材

「バーミンガムで生まれて、カントリーやゴスペルが流れる環境で育った。両親共にギターを弾いていたので、夕方になると家のポーチで家族や近所の人たちとカントリーや讃美歌を演奏しながら過ごしたものさ」。これこそ私が夢に描いているサザン・ロックの家族の肖像である。彼の話し方にはサザン・アクセントがあり、真剣な表情で質問に答えてくれる。「父親からコードをふたつ教えてもらい、最初に弾いた曲は〈トム・ドゥーリー Tom Dooley 〉だった。本気でギタリストとして仕事をしたいと思ったのは十歳のとき。 しばらくするとビートルズが登場し、テレビで見ていてすごいショックをうけたよ。それ以来、ギターを手放したことがない。弟のデイルはドラマーで、いつか彼とバンドを結成するのが夢なんだ」

14歳で初めてバンドを結成し、16歳で高校をドロップアウトした。「周囲の人や家族からは、教育は大切だから高校だけは卒業しなさい、と言われたけれど、僕は別に学校教育だけでいい人間になれるか疑問だった。僕にとってはギターが学校であり、教会だ。今でもギターがないと頭がおかしくなるよ。 15歳のときにカリフォルニアに1週間ほど旅行したんだ。 アコースティック・ギターを持って行かなかった。そうしたら、わかってもらえるかなあ、ものすごくギターが弾きたくて弾きたくて、変になりそうだった。一種の中毒だね」

1960年代末の南部。74年にレーナード・スキナード(Lynyrd Skynyrd)が〈マッスル・ショールズにはスワンパーズ(Swampers)がいる〉と歌いヒットした「スイート・ホーム・アラバマ(Sweet Home Alabama)」。実際、若くて有望なミュージシャンたちがバーミンガムやシェフィールド(Sheffield)に大勢いた。

正式にスワンパーズと呼ばれているのはジミー・ジョンソン Jimmy Johnson(ギター)、デヴィッド・フッド David Hood(ベース)、バリー・ベケット Barry Beckett(キーボード)、ロジャー・ホーキンス Roger Hawkins(ドラムス)だが、ピート・カー (Pete Carr)、デュアン・オールマン、エディ・ヒントン (Eddie Hinton)、そしてウェイン・パーキンスもマッスル・ショールズでセッション・ミュージシャンとしてデビューする。

「14歳から16歳まで、バーミンガムのクラブで演奏し、5つか6つのグループを転々とした。1週間に100ドルを稼いで、あの頃にしてはまあまあの収入だった。 17歳のとき、友人からクインビー・スタジオのセッション・ マンにならないかと誘われ、オーディションを受けて合格した。朝の10時から夜6時までスタジオに待機していて、やってくるミュージシャンのバックで演奏するんだ。退屈な仕事ではあったけれど、ここでマーリン・グリーンやデュアンなどの友人にも恵まれた。

デュアンはアラバマ州ではすでに大スターで、レコード会社やマネージメントが群らがっていた。ブレイクするのは時間の問題だった。そしてあのウィルソン・ピケット(Wilson Pickett)の〈ヘイ・ジュード〉でギターを弾いたんだ。 アトランティックのアーメット・アーティガン(社長)やジェリー・ウェクスラー (副社長)に気に入られていた。

FAME(スタジオ)やマッスル・ショールズにはイギリスのミュージシャンもやってくるようになった。トラフィック(Traffic)やフランキー・ミラー(Frankie Miller)などがね。 いっしょに来たアイランド・レコードの社長、クリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)が僕たちのサウンドを気に入ってくれた。本当はスタジオごとイギリスに持っていきたかったんだろうけど、ちょうど友人たちとスミス・パーキンス&スミスというバンドを結成したばかりの僕たちに白羽の矢がたって、アイランド・レコードと契約した。アイランドで初めてのアメリカのバンドになった。

イギリスに住んでアルバムを一枚制作し、 アージェント(Argent)、ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)、ファミリー(Family)、フリー(Free)、フェアポート・コンヴェンション(Fairport Convention)、ヴィネガー・ジョー(Vinegar Joe)らの前座としてヨーロッパ中をツアーした」

アイランド・レコードというブランド力のあるレーベルから発売されたこともあって、デビュー・アルバムはそこそこ売れたそうだ。

「2枚目のアルバムをレコーディング中のスタジオに、クリスが顔をだして僕に言った。『ちょっとお願いがある。あるバンドのレコードを制作中なんだが、いまいちギターがしっくりこない。キミのギターならどうかなと思って。やってくれないか ? 』

ほかでもない社長のお願いだ。僕はバンドやレコードのことを知らされないまま、オーバーダブをした。バンドと会う機会もなかった。スタジオで演奏を終えるとクリスはとても満足げにうなずいていた。しばらくして、そのバンドはボブ・マーリー(Bob Marley)というジャマイカのミュージシャンだということを知ったんだ」

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのアルバム『キャッチ・ア・ファイアー Catch a Fire(73年)』で「コンクリート・ジャングル(Concrete Jungle)」「スティア・イット・アップ(Stir It Up)」「ベイビー・ウィーヴ・ゴット・ア・デイト(Baby We've Got a Date)」の3曲でウェインのギターを聴くことができる。

しかしさまざまな事情で、スミス・パーキンス&スミスの2枚目のアルバムは日の目をみることなく、ウェインはアメリカに帰り、再びマッスル・ショールズで仕事をする。

「友人のクリス・エスリッジ Chris Ethridge(元フライング・ブリトー・ブラザーズ)とレコーディングしていたとき、ロニー・ミルサップ(Ronnie Milsap)に会い、カリフォルニアに来ないかと誘われた。1970年末から71年8月まで、クリスとロスで共同生活をしていた。クリスはジョニー・バルバータ Johnny Barbata(元タートルズのドラマー。ジェファーソン・エアプレイン、ニール・ヤング、J・Dサウザー、CSN&Yらと仕事をする)、 ジョエル・スコット(Joel Scott)、レオン・ラッセル(Leon Russel)らと組んで『LAゲッタウェイ(LA Getaway)』というアルバムをレコーディングした。この時期にクラレンス・ホワイト(Clarence White)、ライ・クーダー(Ry Cooder)らと知り合い、エヴァリー・ブラザーズの『ストーリーズ・ウィ・クッド・テル(Stories We Could Tell)※』に参加した」

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Stories We Could Tell / Everly Brothers

それからはロスでの仕事も多くなったが、やはりアラバマ州が一番好きだし音楽の環境もいいと感じたそうだ。

「子供のころはマッスル・ショールズなんて場所が同じ州にあるなんて知らなかった。 エディ・ヒントン、ジミー・ジョンソン、デヴィッド・フッドらはみんないい友だちだけど、気が合うのはカウボーイのスコット・ボイヤー(Scott Boyer)かな。最良の友人だ。カウボーイのレコーディングでデュアンが演奏したとき、スタジオでずっと見学させてもらった。 デュアンはいつも僕を励まし勇気づけてくれた。フランクな性格ではあるが、音楽に対しては厳しい一面ももっていた」

リアルタイムでデュアンのそばにいた人の証言は貴重だ。

「デュアンが亡くなった夜のことだった。僕はショックをうけて、家のポーチにぼんやりと座っていた。すると、一時期、デュアンの恋人だった女の子がやってきて、何でもいいからギターを弾いてほしいと言うんだ。僕たちはそうすることがデュアンへの追悼になると思った。ギターを手に取って弾き始めた。一時間も弾いたんだけど、実際に覚えているのは15分くらいだ。彼女が言うには、そのときの僕は髪を振り乱して夢中でギターをかき鳴らし、夕もやの中でまるでデュアンが弾いているかのように見えたらしい。あのときはきっとデュアンがのりうつっていたんじゃないかと話した。

デュアンは何かほしいものがあると執拗にそれを追いかけて、必ず手に入れる男だった。女の子、オートバイ、ギター、とにかく熱心な性格だった。8時間も同じギター・フレーズをしつこく弾き続けるようなこともやってのける。周りがいいかげんにしろよと、ひきあげてしまってもね。現代のブルースを弾く偉大なパイオニアだった。彼を失ったことは僕らには計り知れない損失さ。実際に手を取ってギターのフレーズを教えてくれた兄のような人だった」

沈痛な表情で尊敬する先駆者のことを語る。

「僕は彼が使っていたストラトキャスターを持っているんだ。 デュアンがエディ・ヒントンに譲って、エディが僕にくれた。デュアンの手あかが染みついているようなそのギターが今でも宝物で、それを手に取るたびにあの励ましの声が聞こえてくるような気がする」

最近南部から次々と有望なバンドがデビューしているが、どう思っているのだろうか。

「マーシャル・タッカー・バンド(Marshall Tucker Band)はすばらしい。レーナード・スキナードとは無名時代からの友人で、ロニー・ヴァン・ザントから何度もバンドに参加しないかと誘われているけれど、トリプル・ギターのバンドにこれ以上ギタリストはいらないだろ、と断っている。南部にはもっとクレイジーなバンドがいっぱいいるよ」

ウェインはとてつもなく変わったセッションのエピソードで締めくくってくれた。

「僕はいろいろなミュージシャンとジャム・セッションをしてきたが、これは絶対に無理だっていうのがある。イエス(Yes)のクリス・スクワイア(Chris Squire)とアラン・ホワイト(Alan White)とジャムったときは、まるでピカソと演奏しているかのような気分だった(笑)。イギリスのミュージシャンにはキース・エマーソンとかキング・クリムゾンとか、クレイジーなバンドが多いね」

彼の言うクレイジーとは〈正気ではない〉という意味ではない。〈すばらしい〉という表現をすべてクレイジーで間に合わせてしまうミュージシャン独特の表現だ。

ウェインのギターは他にどんなレコードで聴けるのだろうか?

「もうすぐ発売されるジョニ・ミッチェルのアルバムで〈Car On a Hill 丘の上の車〉という曲でギターを弾いている(のちにわかるのだが『コート・アンド・スパーク』)。ロニー・マックやドン・ニックスの『Hobos, Heroes And Street Corner Clowns』にも参加している」

インタビュー中もギターを抱えており、女の子が打ち明けてくれたが、「昨日の夜も酔っぱらって、朝までギターを弾いていたのよ」とちょっと不満そう。 テキーラの小瓶を持参し、ちびりちびり飲んでいた。まだまだ南部人らしい豪快さはないが、その片鱗を感じさせた。

「そんなに不摂生をしていると、デュアンみたいに若死にするわよ」と冷やかすと、「大した仕事もしていないのに、そうやすやすと天国に行くわけにはいかないね」と答えた。

インタビューを終えて帰ろうとすると、「さあ、教会に行く時間だ」とギターを弾き始めた。自作の曲数曲と、ライ・クーダーの「マニー・ハニー」をサザン・アクセントで歌ってくれた。グレッグ・オールマンの声に似ている。イギリスで生活していたせいか、ブリティッシュ・フォークの味わいもある。「バート・ヤンシュ(Bert Jansch)に似ているわね」と言うと「これは僕の曲だ」とちょっぴり怒ったふりをした。


これが1973年の『プラスワン』に載った記事だが、今読み返してみると、結局はデュアンに近かったミュージシャンから生のデュアンの話をききたかっただけのように思える。しかしジョニ・ミッチェルのこのときは未発売だった『コート・アンド・スパーク』で一曲ギターを弾いていたのは驚きだった。ウェインは短期間、ジョニとも交際していた。

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ジョニ・ミッチェルとウェイン・パーキンス

レオン・ラッセル一行は大成功のうちに日本公演を終え、アメリカに帰った。でき上がった雑誌をアメリカに送り、私とウェインとの音信は途絶えた。

1975年、英米の音楽メディアがいっせいに伝えたニュースを見て、忘れかけていた南部の青年を思い出した。現在では『グレイト・ギタリスト・ハント Great Guitarist Hunt』という名前で呼ばれるイベントがミュンヘンで現在進行形だというのだ。そこにジェフ・ベックやロリー・ギャラガーらの名前と共にウェイン・パーキンスの名前が載っている。まさか、同名異人ではあるまい。

ローリング・ストーンズのミック・テイラーがバンド離脱を表明し、新しいギタリストを早急に見つける必要がある。 40年前の出来事であり、噂や想像が独り歩きし、ローリング・ストーンズ自身も秘密主義をつらぬいていたため、今では都市伝説として語られるセッションだ。

ウェインたちがレオン・ラッセルの家にいたとき、エリック・クラプトンがカール・レイドル(Carl Radle)のリクルートにやってきた。 そこでウェインはエリックと知り合い、いっしょにジャマイカに旅行したりする仲になったそうだ。ある日、エリックから「ストーンズが新しいギタリストをオーディションしている。キミのことも推薦しておいたから。 グッド・ラック」という電話がきた。

とてつもなく魅力的な話である。ウェインはストーンズと連絡を取り合い、セッションが行なわれていたドイツのミュンヘンに飛んだ。そこにはキャンド・ヒートのハーヴィー・マンデル(Harvey Mandel)もいたし、遅れてロニー・ウッドもやってきた。ウェインは数週間をスタジオで過ごし、キース・リチャーズやミック・ジャガーの指示にしたがって毎日、ギターを弾いた。セッションの後半になるとコントロール・ルームでテープが回るようになる。

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Black and Blues Session時のウェイン・パーキンスとキース・リチャーズ

結論から先に言えば、周知のとおりロニー・ウッドがミック・テイラーの後釜に収まったのだが、キースはウェインの才能を高く評価していた。

「当時ロニーと親しかったのは確かだが、うちのギタリストとしてかならずしも当確だったわけじゃない。ひとつはまだフェイセズの一員だったからだ。あいつの前に何人かほかの演奏者を試してみた。ウェイン・パーキンス、ハーヴィー・マンデルと。どっちも一流のギタリストだし、ふたりとも『ブラック・アンド・ブルー』に参加している。ロニーは最後のひとりとして登場し、正直言って見込みは五分五分だった。俺たちはパーキンスをすごく気に入っていた。腕のいい演奏者だし、スタイルも似ている。 ミック・テイラーのやっていたことから大きくそれやしないだろう。美しい旋律に、巧みな演奏だ。

あのときロニーはフェイセズとうまくいってないって話だった。だからウェインかロニーかだった。ロニーはオールラウンダーだ。いろんなものをちがったスタイルで演れるし、俺と何週間かいっしょにプレイしてきた。決まりだな。いざとなったら、演奏うんぬんじゃない。とどのつまりは、ロニーがイギリス人だったからだ。まあ、今ならそんな考えかたはしないかもしれないが、ストーンズはイギリスのバンドだ。当時の俺たちはみんな、バンドの国民性を維持すべきだって感じていた。 ツアーに出て、『これ聴いたことあるか?』 って話になったとき、同じバックグラウンドがあったほうが何かと具合がいいからな」
(出典 『ライフ  キース・リチャーズ自伝』 棚橋志行訳、楓書店刊)

このセッションで録音された3曲「ハンド・オブ・フェイト(Hand of Fate)」「メモリー・モーテル(Memory Motel)」「フール・トゥ・クライ(Fool to Cry)」はローリング・ストーンズの76年のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』に収録されており、ストーンズ・ファンたちをして「こいつは誰だ !」と驚かせたほど馴染んでいた。

1981年のアルバム『タトゥー・ユー』には、このときのテイク「ウォリッド・アバウト・ユー Worried About You」が収録されている。

『グレイト・ギタリスト・ハント』は今もミステリアスな話となっており、セッションに参加したミュージシャンはパーキンス、マンデル、ウッドの他に、ジェフ・ベック、ピーター・フランプトン、ロリー・ギャラガー、スティーヴ・マリオットなども候補にあがっていたと言われている。

私は一度だけインタビューしたミュージシャンがそのような場に召集され、メンバーにはなれなかったが名曲を録音したという事実を素直に祝福した。しかしながらキース・リチャーズがウェインに一目置いていたという記述は2011年にキースの自伝の翻訳版が出版されて初めて知ったことだ。

アメリカに帰ったウェインはある種の《ロス》に陥ったという。それもうなずける。だがたとえローリング・ストーンズという世界的なバンドにスカウトされたとしても、それほど長く在籍することはなかっただろうと察する。ウェインはあまりにもデリケートだったし、あまりにも田舎の若輩者に過ぎなかったのではと思う。

バーミンガムに帰ると弟のデイルたちとバンドを結成し、ローカルなクラブで演奏活動を続けていた。やがて、ローリング・ストーンズから立派なプラチナ・アルバムの盾が贈られてきた。《ロス》から立ち直るべくライブ活動や親しいミュージシャンとのセッション・ワークに情熱を注ぐ。ジョニ・ミッチェルの『コート・アンド・スパーク』もプラチナになり盾が贈られてきた。

その他、グレン・フライ(Glenn Frey イーグルス)のソロ、J・D・サウザー(JD Souther)、マイケル・ボルトン(Michael Bolton)、レヴォン・ヘルム (Levon Helm ザ・バンド)、ロジャー・マッギン&クリス・ヒルマン(Roger McGuinn & Chris Hillman)、アルバート・キング(Albert King)、スティーヴ・クロッパー(Steve Cropper)など、多くのレコーディングに参加し、美しいストラトキャスターの音色を聞かせていたが、ついに自分のバンドとして大成功を手にする夢はかなわなかった。

と、ここまではやっと序章が終わったところだ。私の南部への旅、そして半世紀ぶりに再会するミュージシャンとの話はここから本題に入る。なぜこれほどまでに、恋人ですらなく、1時間のインタビューをしただけの男に魅かれるのか。マジックとしか表現のしようがない。シカゴ経由でアラバマ州のバーミンガムに向かった。空港にはウェインのドキュメンタリー映画を撮影しているトミーという監督が迎えに来ていた。私は車が運転できないから、この旅はすべて人に頼らなければならない。

で、どうやって50年も経てウェイン・パーキンスとコンタクトをつけたかって?2000年初期、アメリカの中古CDショップで偶然、ウェインのソロCDを掘り当てた。

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Mendo Hotel  /  Wayne Perkins

今でこそウィキペディアなどで情報が簡単に入手できるが、まだウェインに関する情報は5行からせいぜい10行しかなかった。CDは1996年に発売された 『Mendo Hotel』 というタイトルで、ギターとボーカルを担当し、インディ・レーベルから発売されていた。

私は2009年にアメリカから帰国すると一計を案じた。どうすればウェインに辿りつくことができるか。SNSにウェインのファン・サイトを作ったのだ。 入手できる限りの情報を載せ、73年のいっしょに写っている写真も載せた。ビンゴだ!少しずつではあるがファンが集まり始め、ほとんどは南部のローカルなロック・ファンだったが、やがて友人や音楽仲間も加わった。彼の妹がアクセスしてきて「誰にも教えないでね、これがウェインの電話番号よ」というメッセージをもらった。 マッスル・ショールズ・スワンパーズのデヴィッド・フッドもアクセスしてくれた。

本当にか細い糸をたよりに私はウェインに電話をした。彼は私のことをとてもよく覚えていてくれて、最初は30分も話し込んでしまった。彼の声には張りがあり、病気を患っていることは微塵も感じられなかった。「僕は治療中のため、外国や遠くには行けない。 キミに来てほしい」

映画監督のトミーともそのファン・サイトで知り会った。「半世紀ぶりに再会するシーンをぜひ撮りたい」とオファーされ、その代わりホテルや空港などの送迎をしてくれるという条件で引き受けた。バーミンガム空港でトミーと落ち合い、そのまま一時間ほどのドライブでウェインが弟のデイル家族と暮らす家に着いた。

感動の再会は3月のやわらかい日差しに照らされた大きな家のポーチでのハグで始まった。思えば50年前にはハグも握手もしなかった。私より3歳若い72歳の初老のミュージシャンは、想像した以上に若々しく、病魔の気配などまったくない。肌の艶もよく、まだ黒い髪を後ろにまとめている。トミーは感激の瞬間を映像におさめていた。

たった1年前のことなのに、どんな話をしたかあまり記憶にない。要するに、あれからどのような人生を過ごしたか、ミュージシャンとしてどんな活動をしてきたか、ローリング・ストーンズとの日々はどうだったか、そんな話をした。ただ「いつ、誰から、キミは僕たちのバンドには必要ないと言われたか」、それを尋ねるほど私は鬼ではなかった。

トミーのリクエストに応じて次々にプラチナ・ディスクを見せてくれた。 ギターを弾いてほしいという私のリクエストにも応えて、聴きなれたフレーズの曲を次々に演奏した。 ギブソン製のフィンガーボードに星型のインレイがある特注の美しいアコースティック・ギターだ。穏やかな微笑を浮かべ、20時間を旅してきたファンのために3時間ほど話してはギターを弾いてくれた。

名残り惜しかったが、夕方、私たちはキャビンを去らなければならなかった。アラバマ州まで来た目的は達成できた。私とウェインはまた一分ほどハグし合って、再会を誓いあって別れた。

私の正真正銘の最後の旅は、憧れの南部で、半世紀前に1時間会っただけのミュージシャンに会う旅だった。たったそれだけのことだが、ひとりのギタリストとの3時間は、60年間、ロックを聴いてきた私に、ウェイン・パーキンスとは《実在》するのだ、ということを確認するための1週間だった。

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50年ぶりに再会を果たしたウェイン・パーキンスと筆者

2026年3月16日、多くのミュージシャンとファンに愛されたウェインは、74歳で波乱の人生に幕を閉じた

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Ramblin' Heart (2000)

さようなら、ウェイン。
Fly high, my friend.




(参照)Stories We Could Tell ※
エヴァリー・ブラザーズ(1972年)
Don Everly – guitar, vocals
Phil Everly – guitar, vocals

Delaney Bramlett – guitar, vocals
Bonnie Bramlett – vocals
Jeff Kent – guitar, vocals
Dennis Linde – guitar, keyboards
Geoff Muldaur – guitar
Wayne Perkins – guitar
John Sebastian – guitar, harmonica, vocals
Waddy Wachtel – guitar
Danny Weis – guitar
Clarence White– guitar
Ry Cooder – electric bottleneck guitar on "Green River" and "Del Rio Dan"
Buddy Emmons –slide guitar
Jerry McGee – slide guitar
Barry Beckett – keyboards
Michael Fonfara – keyboards
Spooner Oldham – keyboards
Warren Zevon – keyboards
Johnny Barbata – drums
Jim Gordon – drums
Russ Kunkel – drums
George Bohanon – brass
Tommy Johnson – brass
Chris Ethridge – bass
Jimmy Haskel – string arrangement
David Crosby – vocals
Doug Lubahn – vocals
Graham Nash – vocals

(この記事では「アラバマ州 バーミンガム」となっていますが、実際に現地在住の人たちは「バーミングハム」と発音していました)

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「最低で最高のロックンロール・ライフ」 シンコーミュージックより好評発売中

「最低で最高のロックンロール・ライフ」では今回の記事に掲載されていないウェイン・パーキンスの写真や、FAMEスタジオ、マッスル・ショールズ・スタジオの訪問記も載っています。

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元ミュージックライフ、Jam編集長(75年~79年)、80年代は欧州でフェス巡り。94年モスクワに語学留学。2002年~09年までアメリカ在住。noteでは、仕事を始めた1966年からの記事を主にアップします。最新「最低で最高のロックンロール・ライフ」
南部への旅、半世紀ぶりに再会したウェイン・パーキンス/最低で最高のロックンロール・ライフ(シンコーミュージック)|水上はるこ
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