東日本大震災の翌日に起こった殺人事件で逝った娘…悲しみや怒り、後悔と向き合い「生きた証を伝えたい」と体験を語り続けてきた父の15年間
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徳島被害者支援センターで理事を務める徳島市の
「できたら日を改められませんか? ばあちゃんや母上も心配するよ。もちろん私も。頼んます」
15年前の3月12日午前2時、清家さんに長女・
「やれやれ安心しました。こちらは通常勤務です」
清家さんは車通勤の千鶴さんを案じ、「天変地異、なにがあってもおかしくない状態です。運転には気をつけてください」とメールした。千鶴さんにかけた最後の言葉になった。
翌13日、京都府警川端署に来署するよう親族を通じて連絡があった。駆けつけた同署で、前日に千鶴さんが亡くなったことを知らされた。部下の男(当時30歳)が職場で千鶴さんを刺殺した殺人容疑で緊急逮捕されていた。男は「世の中が嫌になって誰かを殺そうと思った。(千鶴さんに)恨みがあったわけではない」と供述したという。清家さんはその場に立ち尽くした。その後の経過はあまり覚えていない。
「鶴のように千年も幸せに」願って命名…いつも家族の中心にいた
千鶴さんは1974年に徳島市で長女として生まれた。「鶴のように千年も幸せに長生きしてほしい」との願いを込めた。幼い頃から活発な性格で、小学生の頃から合唱に打ち込み、リーダー役をよく務めてきた。3人きょうだいのまとめ役だった。
千鶴さんは「薬を作って人の役に立ちたい」と京都薬科大に進学した。卒業後は薬剤師として働き、薬局の店長を任されるまでになった。仕事に打ち込む姿に清家さんは結婚の心配をしていたが、2007年、職場の同僚と結婚した。
結婚してからも清家さん一家の中心的な存在だった。震災後に清家さんに宛てたメールは、広島行きの中止を説得するよう母親から相談されて送っていた。この頃、震災に心を痛め、薬を集めて夫とともに東北へボランティアに行く計画も立てていた。
司法解剖を終えた14日午後、川端署で再び対面した。千鶴さんは顔以外の全身を包帯で巻かれた状態で納棺されていた。現実と思えず、涙も出なかった。
警察官から司法解剖の結果を記した死体検案書を渡された。死因は心臓損傷。名前に込めた願いはかなわなかった。「なんで娘が。こんな紙1枚で千鶴の人生が終わってしまうことは絶対に許せない」。清家さんら遺族は、裁判で意見陳述などができる「被害者参加制度」を利用し、男に極刑を求めることを決意した。
遺影を抱えて臨んだ裁判…感じた限界
娘の無念を晴らしたい――。清家さんは2011年8月に男が殺人罪で起訴されたことを受け、裁判や刑事手続きに関する本を集めて読みあさった。公益社団法人「京都犯罪被害者支援センター」(京都市上京区)にも出向き、裁判の流れや受けられる支援を確認。弁護士とも入念に打ち合わせを行い、準備を進めた。
翌12年3月に京都地裁で始まった裁判には、遺族そろって出廷。清家さんは裁判所の許可を得て膝の上に千鶴さんの写真を抱え、傍聴席から公判を見守った。
法廷で改めて明らかになったのは、男の残忍な犯行と、娘の無念だった。
男は、大学院当時の指導教授や、親しくしていた女性との人間関係がうまくいかず、「生きていても仕方がない。誰でもよいから人を殺そう」と考えるようになった。包丁を持ち歩いて通行人や別の同僚の殺害も考えたが、上司の千鶴さんと偶然2人きりになったことから殺害を決意。背後から切りつけた。千鶴さんは「まだ死にたくない」と声を上げていたという。同月16日の判決は、こうした事実を認定した。
千鶴さんの夫と母親は意見陳述。遺族で極刑を求めていた。「誰が被害者になってもおかしくない無差別的な殺人事件で理不尽極まりない犯行」と判断した判決の主文は、無期懲役だった。
清家さんは事件を起こした理由を男が自ら語ることも望んでいたが、詳細は明らかにならず、反省や後悔の色は見えなかった。
「千鶴の命は被告より軽いのか。司法はただの相場でしかなかった」。刑事司法に限界を感じた。
求刑通りだった検察側は控訴せず、刑は確定した。
悲痛な経験を誰かのために…失意の後に始めた被害者支援
失意の中、転機となる出来事が3か月後にあった。徳島県警から依頼され、警察学校で講演を行った。人前でしゃべることは得意ではなかったが、「自分の経験が誰かの参考になるのなら」と引き受けた。
その後も毎年依頼が続き、警察官や学生、自治体職員などに向けて経験を語った。1年で10回近く講演した年もある。千鶴さんの生い立ちや事件の経過を写真付きで説明。家族が事件のショックで体調を崩して回復まで数年かかったことも打ち明け、被害者支援の拡充を訴えた。徳島被害者支援センターの理事にもなり、「つらいことはつらい。一人で悩まないで。相談する人はいくらでもおるよ」と語りかけた。
当時、裁判所の控室に軽食を用意するなどサポートし、講演を聴いたことがある「京都犯罪被害者支援センター」支援局長の冨名腰由美子さん(73)は「口調は静かだが、被害者支援への熱い思いが伝わった。当事者の生の声の影響力は大きく伝わりやすい」と話す。
事件を担当した川端署で、3年前に副署長として講演を聴いた府警の警察官の仲川直美さん(60)は「警察官は事件の知識や経験があるが、被害者にとっては全てが初めて。配慮の必要性を改めて感じた」と語る。部下に被害者の立場に立って仕事をするように指導している。
現場の警察官の心のあり方に変化が生まれていると知り、手応えを感じた。少しでも役に立つことを。ささやかな思いで始めた活動は着実に実っていた。
思わぬ知らせ、「事件は完全に終わったのか」…それでも
清家さんが被害者支援に取り組んでいたさなかの21年のことだった。事件から10年が経過していたが、思わぬ事実を知ることになった。無期懲役の判決を受けて服役している男についてのことだった。
男が同年、収容先で自殺したのだという。理由はわからなかった。事件から10年。なぜ事件を起こしたのかと、問いたいとの思いがあったが、その機会はついえた。「事件はもう完全に終わった」と感じた。
娘だけではなく、加害者もいなくなった。それでも支援活動の歩みを止めることはなかった。講演はこれまで一度も依頼を断らず、60回を超えた。
裁判のために集めた100冊以上の本を自身が理事を務める徳島被害者支援センターに寄贈。千鶴さんの名前から一字を取って「千の風文庫」と名付け、希望者に貸し出しを行っている。徳島県犯罪被害者等支援審議会に委員として参加し、意見を述べてきた。
自身の提案から犯罪被害者のためのノートを同センターが作成し、配布を始めた。犯罪被害者は捜査、役所の手続きなどで繰り返し被害の内容を説明する必要がある。精神的な苦痛を軽減するために被害に遭った時のことを記すページを設けた。逮捕から起訴・不起訴といった刑事手続きの流れや、支援制度も紹介した。
こうした活動は元々、「自身の経験が誰かの参考になれば」とのささやかな思いからだった。それがいつの頃からか、活動を通じて事件を知ってもらうことが「千鶴が生きた証し」と考え、「千鶴の事件だけは表に出て話す」と心に決めていた。
思い出を大事に…亡き娘と歩み続ける
「生きた証しを残す」――。こうした思いに至るまで長年、自身の心と向き合ってきた。
娘が生きていることが願いだ。それはかなわない。家族それぞれが前を向き、人生を進めていかないといけない。落ち込んでばかりではいられないと思った。
悲しみや怒り、後悔などがないまぜになった複雑な感情を時間をかけ、整理した。亡き娘との思い出を大事にして、生きていきたいと考えるようになった。
娘が京都の薬局で働いている姿を一目見たいと、徳島からこっそり見にいった。恥ずかしがられたのか、怒られ、追い返された。たわいもない日常の記憶が、いとおしく思える。
こう思えるまで、事件から10年ほどかかった。元々口下手だったが、今では講演で、涙を見せずに穏やかな口調で語ることができる。裁判で遺族代理人を務めた細川治弁護士は「活動が千鶴さんが
それでも毎年3月が来ると当時を思い出し、心が揺らぐ。事件から15年となった今月12日、自宅で手を合わせた。生きていれば51歳。どのような人生を歩んでいたのだろうか。考えても気持ちが「沈んでいく方向にしかならないから」と、今も家族と事件に関係する話をすることもない。それでも娘がいたことを社会に伝えていくのだ。
千鶴さんが高校まで使っていた部屋はそのままで、遺骨も自宅に置いてある。「少しでも近いところにおる方がええんちゃうかと」。体力が続く限り続けるという支援活動は、娘と一緒に歩んでいく。(京都総局 清水美穂)