被害者ぶってんじゃないよ
「人生の主役はいつだって自分だ」
誰しもが知っていて、しかし、なかなか理屈で説明できない人生のルール。
人生の主役は自分であると仮定するならば、主役の座は他人に明け渡してはならない。だれにも座らせない。
しかし、我々は簡単に、自分の人生の主役の座を他人に明け渡してしまう。
ちょっとキツい話をするかもしれない。
しかし、納得のいく人生を考えるにあたっては重要な話だ。
人生の主役が自分であるならば、悲劇のヒロインじゃいられない。
いつまでも被害者ぶっていてはいけない。
悲劇のヒロインは被害者だ。
悲しい事件の被害者であり、みんなが憐れむべき存在。
被害者として、悲劇を悲劇のままにしておくことができる。
そういう人がわりといる。
そのような人はどのような生活を歩むだろうか。
被害者というレッテルを自ら貼り、そのレッテルに居続けることで、みんなが構ってくれる。
被害者であるという前提で優位に立って物事を進めることができる。
周りが下手に手を出そうとするとレッテルを印籠のように掲げ、手出しできなくすることができる。
被害者として、優位な立場に立ち続けることができる。
しかし、被害者は被害者だ。加害があって、その影として存在することになる。主役ではない。悲しいけれど物語を推進する力はない。
主役の座を他人に明け渡すことによって、利益を得ている。
例えば、
親から愛を十分に受けられなかったことを自分の欠点の理由にする。
任意の人間{友人との関係、学校生活、職場の上司}のせいで私はまともな人生を歩めなくなったという主張。
悲劇のヒロインの人生は、加害者である誰かや、起きてしまった出来事によって規定される。そのような出来事があって、今の人生がある。その人生を変えることなく、被害者であり続ける。
被害者であり続けるのなら、人はもはや自分の人生を歩いていない。
事件が起きたその地点から一歩も動いていない。
被害を受けた直後は当然苦しい。
被害者となり、傷つき、心が揺れ、葛藤の中に飛び込むことになる。
被害を受けたことを認めなければならない。傷がついていなかった状態にはもう戻れない。自分のせいではないのに。
しかし、葛藤と対面するかどうかは自分が決められる。
葛藤というのは、区切られた時間の中に存在するもののように思う。
その区切られた時間のあいだ、目まぐるしく相反する感情を経験し、自己の価値観が変容する。
区切られた時間の前後で別人となる。同じ人間だが、別人だ。
起きた出来事を乗り越え、もしくは乗り越えられず、自分の形が変わる。
それが物語であり、主役であるための必要条件である。
我々は、主役の葛藤に物語を見る。
決してその人物の魅力そのものだけで物語に惹かれるわけではない。
秀逸なキャラクターデザインがあっても、物語が陳腐な作品は山の数ほどある。葛藤による人物の変容が私たちの心を魅了するのだ。
苦しみ、葛藤、変容。それらが含まれるのが物語であり、そのただ中にこそ、主役が立っている。
もう既に自分は被害者ではないと分かっている。
区切られた時間をとうに過ぎてしまったことに気づいている。
にもかかわらず被害者面をする。あるいは、被害者というレッテルを剥がそうとしない。
被害者というレッテルを張っていると得をするからだ。
被害者という立場で蜜を吸う。
自分の手で人生を開拓するのではなく、与えられた蜜でなんとか生活をしのぐ。
これは、自分の人生を放棄している。
変容の可能性を閉じてしまっている。
既に区切られた時間はとうに過ぎ去ってしまっているのに、時間オーバーを無視している。
おそらく、死ぬまで続けるつもりなのだろう。死ぬまで、葛藤から逃げ続ける気か。
出来事が生じたそのときから、もう自分の人生を歩いていない。
これは、その出来事が起きたときに加害者が被害者の人生を奪ったのではない。
加害者はただ、人生を奪うきっかけを作った。
そして、被害者が人生を明け渡した。
人生を取り返す選択権を持っているのは、憐みを送る周りでもなく、加害者でもなく、被害者本人なのだ。
悲劇を悲劇のまま終わらせるかどうかは自分で決めるのだ。
悲劇のヒロインであり続けるというのは、
かさぶたを他人に見せびらかして、「私は傷つけられたんです」と何度もそのかさぶたを剥がしてしまうようなことだと思う。
たいていの傷は本来治るはずだ。しかし、その傷が消えてしまうと周りが憐れんでくれない。蜜が吸えない。だから、かさぶたを剥がして決して治らないようにする。
たいていの傷は治るが、しかし、綺麗になるとは限らない。
私は小さいころ、誤って包丁で自分の指を切ってしまった。そのときの傷はいまだに左手に残っている。しかし、傷自体は治っている。
左手に残っている跡は傷そのものではない。
人の心もそれに近いのではないか。
心の痛みは確かにあった。心に傷はついた。傷はふさがったが、綺麗な状態に、完全に元通りにはならないかもしれない。
しかし、傷はもう治っている。
左手の包丁の傷跡が消えないのと同じように、心の傷跡も消えるものではない。しかし、それは傷ではない。
傷跡がなかったことになることはないが、傷跡は傷そのものではない。
決して傷は残っていないし、心はまだ動いている。
葛藤を乗り越え、自分の辿り着きたい場所まで辿り着き、初めて「あの時の傷もこの旅に含まれている」と実感できるのだろう。
傷が消えるわけではない。けれど、それは物語の断絶ではなく、物語の一部なのだ。負傷したから、ゴールまでの道が見えたのかもしれないのだ。(そうだとは断定しないが。)
しかし、傷を抱えたまま、(いや、自分で傷を繰り返しいじくって)辿り着きたい場所にも進まず、「あの時あの場所」から動かない。それでは自分の納得のいく人生は歩めない。
「あの時あの場所」は納得のいく人生の辿り着く場所ではない。
苦しくともそこから足を踏み出さなければならない。
それは自分しかできないことだ。
傷跡が残ることと、傷を残すことは異なる。
これを間違えてしまうと、自らを永遠に痛めつける人生になる。
人生のビジョンを描く。
将来こんな姿になれたらかっこいいかもなと空想する。
そのビジョンに、傷はないかもしれない。
しかし、ビジョンというのはざっくりとした方向性であって、正確な座標ではない。人生は設計図通りに築けるわけではない。
思い描いていた線の上に、想定していなかった傷や、回り道や、挫折が加わり、自分が思ってもみなかった未来が生まれる。
その未来を認めることができるかどうかは物事の捉え方次第だ。
その傷も含めてあなただ。
傷跡を消すことはできない。強引に消そうとしても、見えないまま残っている。であれば、消すことを考えるのではなく、その傷を含めて未来のビジョンを修正する必要がある。傷を受けた後の自分が、なお、どこへ向かうのかを空想する。
誰の人生にも悲劇は起こりうる。
人は傷つく。深く傷つく。
(もちろん程度の幅もある。乗り越えるのがキツい傷もあり、トラウマやPTSDの類のものは専門家と伴走していくべきだ。)
しかし、基本原則は変わらない。
悲劇のヒロインではいられない。
主役はあなただ。
他人に明け渡した人生を取り返すには、被害者というレッテルを自分で剥がし、葛藤を乗り越えた人間として立たなければならない。
自らの足で、心で、世界に戻っていかねばならない。
「誰だってつらい出来事があったら立ち直れなくなるだろ。お前が本当の傷を受けたことがないからそういうことを言えるんだろ」
:それは違うと思う。
自分に「被害者」というレッテルを張るか張らないか。それは自分で決められるはずだって。
もちろん、最初は傷つくさ。しかし、その出来事の定義付けを他人や世間に任せてはダメだろ。
自分で決める権利がある。その権利を放棄したくない。
そもそも、君は私が受けた傷を認知できないじゃないか。
なぜなら私は君に傷跡を見せる気がないからね。
私は「被害者」でもなく「被害者ではない人」でもなく私でありたい。
「傷ついた人は美しいですよね!」
:本当にそうか?
傷ついた人が美しいかどうかは知らないな。
しかし、美しくなくとも、主役はお前だろ。
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