アーチャーのポストに、淡い緑色の封筒が届いたのは、火曜日の午前十時だった。
差出人は、U.S. Department of Homeland Security。愛や努力より「国土」と「安全」を優先する役所からの通知。
封筒を手に取る。重さで、だいたいの中身は推測できた。複数枚の書類。つまり、単なる確認通知ではない。
封を切る前から、結果は見えている。H-1Bの更新は抽選で外れ、会社も政治力学と人件費の都合で、スポンサーとして一段上の在留資格を用意する気配はない。つまり、「この国に居続けるためのコストに見合う人材ではない」という判定。
もっと簡単には——帰れ。
便箋には、整然としたフォントで書かれていた。
Your request for extension of stay has been denied.
You are required to depart the United States within 60 days.
(あなたの滞在延長申請は却下されました。60日以内にアメリカから出国してください)
愛だの夢だの、そういう語彙は一語も出てこない。あるのは、滞在延長の否認と、出国期限の通知だけ。
アーチャーは便箋を二度読み、ゴミ箱ではなくテーブルの中央に置いた。窓の外では、午前の陽光が煉瓦壁を照らしている。非常階段の影が、窓ガラスに複雑な模様を作っている。
この国は、個人の意志より、制度の論理を優先する。
それは、理解できる構造だ。だが、理解できることと、受け入れられることは、別の問題だった。
*
夜。午後八時。
同じアパートの、同じテーブルで——ランサーがギネスの缶を開けながら言った。
「……で、何その顔」
クー・フーリン。通称ランサー。二十八歳。セールスマネージャー。
青い髪、赤い瞳。身長は百八十五センチ。肩幅が広く、スーツを着ていても「動ける身体」だと分かる体格。
祖父母がダブリン、両親はニュージャージー、本人はブルックリン育ちのアイルランド系二世。パスポートはしっかりアメリカ合衆国。この国で生まれ、この国の空気で育ち、この国の制度に守られている——アーチャーとは、決定的に立ち位置が違う人間。
だが——
この男は、週の半分以上、このアパートにいる。
クローゼットには、ランサーのジャケットが二着。洗面所には、彼の歯ブラシ。冷蔵庫には、ギネスとハラペーニョ味のポテトチップス。ソファには、彼が置きっぱなしにした靴下。
定義の問題だが、週に四日以上同じベッドで寝ている関係を「同居」と呼んで、特に問題はないだろう。
「死刑宣告でも受けたみたいな顔してるけど?」
ランサーの声が、アーチャーの思考を遮る。
「仮死状態、が近いな」
「は?」
「ビザが切れる」
ランサーの眉が、缶のプルタブより素早く跳ね上がった。彼の表情は、常に分かりやすい。怒り、驚き、困惑——全てが、眉と目の動きで表現される。
「……おい。待て。お前、ちゃんと働いてるよな?」
「就労実績、納税額、勤務態度、いずれも特筆すべき問題なしだ」
アーチャーは、淡々と答えた。
事実、会計士としての業務は滞りなくこなしている。Morrison & Associates。マンハッタン、ミッドタウンにある中規模の会計事務所。クライアントは、スタートアップから老舗企業まで様々。アーチャーは、財務諸表の作成と監査対応を専門にしている。
数字は嘘をつかない。エクセルのセルは、感情を持たない。それが、この仕事の魅力だった。
「ただ、この国の労働市場において、代替可能性が高い職種という評価らしい」
「言い方だろそれ」
「行政文書は、丁寧に人を追い出すための文芸だからな」
ランサーはギネスを一口飲み、深く息を吐いた。泡が唇に残る。彼はそれを手の甲で拭い、テーブルに肘をついた。
「で、選択肢は?」
「三つ」
「出たよ数学」
アーチャーは、指を一本立てた。
「一つ。会社にスポンサーとしての格上げを要求する。しかし、内部の政治力学と人件費の観点から、成功確率は低い」
「まあ、上は自分のボーナスの方が大事だからな」
二本目の指。
「二つ。荷物をまとめて帰国する。アカウントを整理し、クレジットカードを解約し、空港で”アメリカは素晴らしい国でした”と嘘をつく」
「嫌だろ?」
「合理性だけ見れば、完全に否定はできない」
三本目の指。
「三つ。君と結婚する」
ランサーは、ギネスを盛大に気管に入れた。
「……げほっ……はぁ!?!?」
咳き込む。泡が、テーブルに飛ぶ。アーチャーは、テーブルの上のティッシュボックスを押しやった。
「婚姻ベースのグリーンカードは、統計上もっとも安定した在留ルートだ」
「“ルート”って言うなよ。ゲームかよ」
「違うのか?」
「違うわ」
ランサーは、ティッシュで口元を拭いた。
「結婚はな……えーと……一応、“重大な人生の決定”とか、そういう扱いなんだよ世間的には」
「世間のレートは、審査官のレートとは別だろう」
「すぐUSCISで為替レート換算すんな」
ランサーは額を押さえた。窓の外では、誰かが非常階段を降りる音。金属の軋む音。夜のブルックリンは、いつもこうだ。人の生活音が、壁を通して聞こえる。
「なんで俺?」
「合理的だからだ」
「だからそれやめろって」
ランサーの声が、少しだけ苛立ちを帯びる。
「せめてワンクッション、“お前がいい”とかなんとか……」
「“お前がいい”という感情は、制度上参照されない」
「参照されねぇけどさ……」
アーチャーは、淡々と指を折り始めた。
「君はアメリカ国籍だ。移民局の審査官にとって、最も扱いやすいカテゴリだろう」
「扱いやすいって言うな。物じゃねぇんだよ俺は」
「安定した収入がある。納税実績も良好。信用スコアも高い」
事実、ランサーの仕事は順調だ。B2Bのソフトウェア販売。大手企業との契約を次々と取り、営業部門のトップセールス。年収は、アーチャーの一・五倍。
「アイルランド系移民の二世という出自も、“この国の物語”として好まれる」
「なんか腹立つ褒められ方だな」
「そして——」
「まだあんの?」
「洗面所には君の歯ブラシがあり、クローゼットには君のジャケットが二着掛かっている」
アーチャーは、冷蔵庫を指さした。
「冷蔵庫にはギネスと、君が買ってきたハラペーニョ味のポテトチップスが常備されている」
「それは……まあ……」
「同居実態がある」
「そっちは”同棲してる”って言えよ。なんだよ”実態”って。犯罪の匂いするだろ」
ランサーはソファに沈み込み、ため息を吐いた。このソファも、半分は彼のものだ。二人で組み立てた。IKEAの、安い三人掛け。クッションは既にへたっている。
窓の外では、車が通り過ぎる音。クラクション。誰かの笑い声。ブルックリンの夜は、決して静かではない。
「……で、聞くけどさ」
「うん」
「お前、自分から”結婚したい”って思ったわけ?」
「ビザが切れなければ、思わなかっただろうな」
「即答すんな」
「必要がない」
「“必要ないから結婚しなかった”って言い方やめない?」
「なら、“制度的圧力を受けて初めて、結婚という選択肢を検討に載せた”という表現にするか?」
「余計ひどいわ」
ランサーは鼻で笑った。笑い方は雑だが、アーチャー個人に向けた悪意ではない。この男の笑い方は、いつもそうだ。雑で、大きくて、だが——嫌な感じはしない。
「アーチャー」
「何だ」
「お前さ、俺のことどう思ってんの?」
その質問に、アーチャーは答えを検索する必要がなかった。既に整理済みの情報だ。
「生活構造を最適化する存在だと思う」
「……効率の話から入る?」
「事実だろう」
「具体的にどう最適化してんだよ」
アーチャーは、テーブルの上のギネスの缶を見た。結露で、表面が濡れている。
「君がいると、私の食事回数は安定する」
「……」
「冷凍食品とプロテインバーだけの夕食が減る。週末に外へ出る確率が上がる。会話量も適度に確保される」
ランサーは、黙って聞いている。
「“この国で完全に孤立しているわけではない”という錯覚も維持できる」
「錯覚言うな」
「君がいなくなると、それら全てが消える。それは、私の生活構造にとって、明確な劣化だ」
窓の外で、サイレンの音。遠くから近づいて、また遠ざかる。
「だから、君を失いたくないと思う」
ランサーは、黙ってアーチャーを見た。
その視線は怒りではなく、諦めとも違い——ただ「やっぱこいつ面倒くせぇな」という種類の親密な疲労だった。
「それ、多分さ」
「うん」
「普通の人間は”好き”って言うんだよ」
「ラベリングの問題だろう」
「お前は?」
「“習慣と構造への依存”だと思う」
「最低だな」
「知っている」
ランサーは笑い、缶を空にした。喉が動く。彼はいつも、ビールを一気に飲む。
「……でさ」
「うん」
「俺、お前と結婚したくないわけじゃないからな?」
「そうなのか?」
「そうだよ」
ランサーは、空き缶をテーブルに置いた。金属の音。
「ビザが絡まなくても、多分いつか”この関係、長期契約にしたいんだけど”ぐらいは言ってたと思う」
「本当か?」
「アイルランド系の家系なめんなよ」
ランサーは、少しだけ真剣な顔をした。
「めんどくさいくせに、一回くっつくと、基本ずっと引きずるタイプなんだよ」
「非効率だな」
「お前に言われたくねぇよ」
ランサーは、テーブルに肘をつき、にやりと笑った。赤い瞳が、アーチャーを見ている。この男の目は、いつも——妙に、まっすぐだ。
「……いいよ」
「何が」
「結婚。してやるよ」
「恩着せがましいな」
「命綱握ってるのこっちだからな?」
その言葉に、アーチャーは——初めて、少しだけ笑った。
窓の外では、夜のブルックリンが続いている。人の声。車の音。生活の音。
この国で生き延びるために、結婚する。
それは、ロマンの死体だ。
だが——悪くない選択だと思う。
少なくとも、ランサーという男となら——帰国するよりは、よほどマシだ。
◆
問題は、婚姻届を出した瞬間に解決するほど、アメリカの制度が甘くないという点だった。
数週間後。十二月。
ブルックリンのアパート。夜。窓の外では、雪が降り始めていた。小さな雪片が、街灯の光を反射して、金色に見える。
テーブルの上には、書類の束。
「USCIS、ほんと容赦ねぇな」
ランサーが、届いたばかりの封筒から書類を引き抜きながら笑った。
封筒は厚い。五十ページ以上。全て、フォームと説明書。
「“本件婚姻が真実のものであることを証明するため、以下の証憑を提出せよ”……だとさ」
「合理的だろう」
「いや、合理的なんだけどよ」
ランサーは、ページをめくる音を立てながら続けた。
Form I-130。配偶者の移民ビザ申請。
Form I-485。永住権ステータス調整申請。
その他付属書類、証明写真、健康診断書、警察証明、出生証明書——
そして、最も重要なのは——「婚姻が真実であることの証明」。
そこに書かれている”愛の証拠”は、驚くほど俗っぽかった。
・共同名義の賃貸契約書
・双方の名前が載った光熱費請求書
・同一住所が記載された銀行明細
・共同名義の保険証書
・二人で写った写真(家族・友人との集合写真が好ましい)
・メッセージログ、カード、メールなどのやり取り
ランサーは、リストを読み上げながら、一つ一つ指で追っていく。
「……要約すると、“寝室と銀行口座が混ざってるかどうか”の確認だな」
アーチャーが言う。
「言い方」
「愛情という不可視の変数より、電気代の名義の方が証拠能力が高いというわけだ」
「まあ、そりゃそうだろ」
ランサーは肩を竦めた。
「俺とお前が”本当に結婚してる”かどうか、審査官が知りたいのは、“昨日何回キスしたか”じゃなくて、“誰が家賃払ってんのか”なんだよ」
「ロマンの死体だな」
「ロマンは税金払わねぇからな」
ランサーは、ノートパソコンを開いた。画面の光が、彼の顔を青白く照らす。
「じゃ、まず——賃貸契約書」
ファイルを開く。PDFの束。
契約書の名義欄には——Archer Emiyaと Cú Chulainn。
二つの名前が、並んでいる。
「これ、去年の九月だな」
「ああ」
「保証人は、俺の親父」
ルー・アルスター。ランサーの父親。ウエストチェスターに住む、アイルランド系の建設会社経営者。
アーチャーがこのアパートに引っ越す時、ランサーが「保証人、うちの親父に頼んでいい?」と訊いてきた。
理由は単純だった。アーチャーは、当時まだH-1Bビザ。収入はあるが、信用履歴が薄い。保証人がいなければ、部屋を借りられない。
ルーは、特に詮索もせず、書類にサインした。
「息子の友人なら、問題ない」
それだけだった。
ランサーの家族は、他人との境界線が曖昧だ。
友人も、親族も、ほとんど区別がない。誰かが困っていれば、助ける。それが、アイルランド系移民のコミュニティの文化らしい。
「次、光熱費」
ランサーが、また別のフォルダを開く。
Con Edison。電気とガス。
請求書の宛先——Archer Emiya & Cú Chulainn。
支払いは、アーチャーの銀行口座から自動引き落とし。だが、名義は二人。
「これ、俺が”同居人として名前入れとけ”って言ったやつだな」
「……ああ」
「理由、覚えてる?」
「……信用履歴の構築、と言っていた」
「そう」
ランサーは、画面を見ながら続けた。
「お前、当時まだクレジットスコア低かったから。公共料金の名義に入れとけば、履歴が積み上がるって」
それは、事実だった。
アメリカという国は、信用履歴がなければ何もできない。クレジットカードを作るにも、車を借りるにも、アパートを借りるにも——全て、過去の支払い履歴が参照される。
移民にとって、その「履歴」を作ることが、最初の関門だった。
ランサーは、それを理解していた。
「……お前のためにやったつもりだったんだけどな」
「……ああ」
「結果的に、USCISの証拠になるとは思わなかったわ」
ランサーは、少しだけ笑った。
窓の外では、雪が強くなっている。風が、窓ガラスを叩く音。
「次、銀行明細」
また、フォルダを開く。
Chase Bank。
アーチャーの口座。毎月の明細。
住所欄——Brooklyn, NY 11215。
ランサーの口座も、同じ住所。
「これも、問題ないな」
「……ああ」
「保険は?」
「健康保険は、別々だ」
「でも、緊急連絡先——」
「君の名前が書いてある」
「俺もお前」
二人は、互いを見た。
必要なものをリストアップすると、意外にも埋まっている項目が多かった。
家賃はアーチャー名義、保証人はランサーの父。
光熱費は二人の名義で、支払いは折半。
健康保険は別だが、緊急連絡先欄には互いの名前。
スマートフォンの請求書も、同じ住所。
「実態としては、既に夫婦同然ということだ」
アーチャーが言う。
ランサーは、また別のフォルダを開いた。
「……で、次は写真」
画面に、サムネイルが並ぶ。
写真——数十枚。
ランサーの友人たちと行ったBBQ。プロスペクトパークの芝生。夏の午後。ビール。グリル。煙。
写真の中で、アーチャーとランサーは並んで座っている。ランサーの腕が、アーチャーの肩に回っている。
「これ、去年の七月だな」
「……ああ」
「ショーンが撮った写真」
ショーン。ランサーの大学時代の友人。アイルランド系。陽気で、声が大きい。
次の写真。
聖パトリックデーのパーティ。ランサーの親戚が大量に押し寄せた、ウエストチェスターの屋敷。
緑色の服。シャムロック。ギネス。ウイスキー。
写真の中で、アーチャーは——明らかに、困惑している。
周囲を、ランサーの親族が取り囲んでいる。全員、笑顔。全員、陽気。
「これ、お前、めっちゃ固まってるな」
「……覚えている」
「叔父貴が、お前にウイスキー五杯飲ませようとしてたやつだろ」
「……六杯だ」
「マジで?」
「記憶にある」
ランサーは、声を出して笑った。
「お前、あの時、顔真っ赤にしてたよな」
「……それは、アルコールの影響だ」
「でも、可愛かったぞ」
「可愛いという評価は、不適切だ」
次の写真。
ソファで、二人が並んで寝ている。
アーチャーの頭が、ランサーの肩に乗っている。
ランサーの手が、アーチャーの腰に回っている。
二人とも、目を閉じている。
「……これは」
「ああ、これな」
ランサーは、少しだけ照れたような顔をした。
「去年のクリスマス。映画見てたら、二人とも寝落ちしたやつ」
「……誰が撮った」
「スカサハ。“いい写真撮れた”って送ってきたんだよ」
「……そうか」
「こういうの、USCISは好きらしいぞ」
「……なぜだ」
「“日常生活の自然な記録”だからだって」
ランサーは、画面をスクロールした。
「こうやって並べると、ちゃんと”人生共有してる感”あるな」
「“感”ではなく、実際に共有しているだろう」
「はいはい」
ランサーは、少しだけ真面目な顔になった。
「なあ、アーチャー」
「何だ」
「これさ。仮にビザ関係なくても、“俺ら結婚してる”って言い張れるレベルだよな」
「構造としては、そうだな」
「構造って言うな」
ランサーは、画面を閉じた。
「まあ、いいや。とりあえず、書類は揃った」
「……ああ」
「次は、面接だな」
その単語に、アーチャーの背筋が少しだけ冷たくなった。
面接。
USCIS。移民局。審査官。
そこで、「本当に愛し合っているか」を——証明しなければならない。
*
面接の日は、三週間後に設定された。
一月。冬。
マンハッタン。ロウアー・マンハッタン。連邦ビル。
USCISのオフィスは、二十六階にあった。
エレベーターを降りると、白い壁。蛍光灯。プラスチック椅子。低い天井。古い雑誌。
待合室には、既に数組のカップルが座っていた。
全員、緊張している。
男性と女性。女性と女性。男性と男性。
年齢も、人種も、服装も——全てバラバラ。
だが、全員が同じ空気を纏っている。
——この面接で、人生が決まる。
恐怖と希望が混ざり合った空間だった。
「緊張してる?」
ランサーが小声で訊く。
アーチャーは、隣の椅子に座っている。
「心拍数は平常時より一五パーセント増しだ。統計上、“緊張”と呼んで差し支えないだろう」
「普通に緊張してるって言えよ」
「君は?」
「俺は……そうだな」
ランサーは少し笑った。
「“お前と結婚する権利を、アメリカ政府に確認してもらいに来ました”って感じ?」
「権利の確認を第三者に委ねる構造、健全とは言い難いな」
「まあ、それがこの国だろ」
ランサーは、スマホを取り出した。時刻を確認する。午前九時四十五分。予約時刻は、十時。
待合室の壁には、ポスターが貼られている。
“Report Immigration Fraud”——移民詐欺を報告せよ。
“Know Your Rights”——あなたの権利を知れ。
全て、英語とスペイン語で書かれている。
窓の外には、マンハッタンの街が広がっている。高層ビル。車の流れ。人の群れ。
この街で生き延びるために——結婚する。
その事実が、改めて重く感じられた。
「……なあ」
ランサーが、また小声で言った。
「お前、練習した?」
「……ああ」
練習——それは、過去二週間、毎晩行われた「想定問答」だった。
ランサーが、審査官役。
アーチャーが、申請者役。
質問は、ネットで調べたものと、ランサーが即興で作ったもの。
「いつ出会いましたか?」
「どこでプロポーズしましたか?」
「配偶者の誕生日は?」
「配偶者の好きな食べ物は?」
「朝、誰が先に起きますか?」
「週末は、どう過ごしますか?」
全て、記憶している。
だが——
観察結果として、記憶していることと、自然に答えられることは、別の問題だった。
「……大丈夫だよ」
ランサーが、アーチャーの手を握った。
——温かい。
手の平が、少しだけ汗ばんでいる。
ランサーも、緊張している。
それが、少しだけ——安心させた。
「番号、呼ばれたら——普通に答えればいい」
「……ああ」
「俺らは、嘘ついてるわけじゃねぇし」
「……そうだな」
「実際に、一緒に住んでるし。一緒に飯食ってるし。一緒に寝てる」
「……ああ」
「だから、大丈夫」
ランサーは、アーチャーの手を、もう一度握った。
その時——
「Emiya and Chulainn!」
名前が呼ばれた。
二人は、立ち上がった。
手を離す。
だが——
その温かさが、まだ残っていた。
観察結果として——
この男といると、少しだけ——恐怖が、薄れる。
それが、何を意味するのか。
まだ、分からない。
だが——
今は、ただ——
この面接を、乗り切ることだけを考えればいい。
二人は、ブースへ向かった。
蛍光灯の光。
白い壁。
プラスチックの椅子。
そして——
審査官が、待っていた。
◆
審査官は、四十代半ばの女性だった。
名札には、Officer Martinez。
髪は後ろできっちりまとめられ、眼鏡は細いフレーム。グレーのスーツ。表情は——完全に中立。笑顔でも、険しくもない。ただ、「これから業務を遂行する」という事務的な空気だけが漂っている。
ブースは狭い。三メートル四方。机一つ。椅子三つ。壁には、何もない。窓もない。蛍光灯の白い光だけが、空間を満たしている。
観察結果として——この部屋は、感情を排除するために設計されている。
「Good morning. Please have a seat.」
マルティネス審査官が、二つの椅子を指さした。
アーチャーとランサーは、並んで座った。
机の向こう側に、マルティネス。
こちら側に、アーチャーとランサー。
まるで、尋問のような配置。
「パスポートと、運転免許証を提示してください」
二人は、書類を取り出した。
マルティネス審査官が、それぞれを確認する。ページをめくる音。スキャナーの音。
「Mr. Emiya, あなたの現在のビザステータスは?」
「H-1Bです。期限は、先月切れました」
「分かりました」
マルティネス審査官は、メモを取る。
「Mr. Chulainn, あなたはアメリカ市民ですね」
「はい」
「生まれはどこですか?」
「ブルックリンです」
「両親は?」
「父はニュージャージー、母はブルックリン。どちらもアメリカ生まれです」
「祖父母は?」
「父方は、アイルランドのダブリンから移民しました。一九五〇年代です」
マルティネス審査官は、また何かを書き込んだ。
それから、二人を見た。
「では、本題に入ります」
彼女は、ファイルを開いた。
そこには、アーチャーとランサーが提出した書類の束。賃貸契約書。光熱費請求書。銀行明細。写真。
「まず、基本情報の確認から始めます」
ペンを持つ。
「いつ、どこで出会いましたか?」
——これが、最初の質問。
アーチャーは、答えようとした。
だが——
ランサーが、先に口を開いた。
「ドッグランです。ブルックリンの……プロスペクトパークの近くの小さい公園で」
マルティネス審査官が、アーチャーを見る。
「同じ認識ですか?」
「はい」
アーチャーは、記憶を辿る。
一年半前。秋。朝。
プロスペクトパーク。ドッグラン。
アーチャーは、朝のランニングをしていた。公園を抜けて、ドッグランの横を通り過ぎる——それが、いつものルート。
その日——
フェンスの向こうで、青い髪の男が、犬二匹に囲まれていた。
男は、笑いながら、犬たちを追いかけていた。
声が、フェンス越しに聞こえた。
「フィン、待て! モリー、そっち行くな!」
その声が——妙に、耳に残った。
アーチャーは、立ち止まった。
フェンス越しに、その光景を見ていた。
男が、こちらに気づいた。
「よお」
軽い挨拶。
アーチャーは、頭を下げた。
「……おはよう」
「ランニング?」
「……ああ」
「俺も、朝は走る方なんだけど、今日はこいつらの散歩でさ」
男は、犬を指さした。
「フィンとモリー。うちの家族」
「……そうか」
「お前は?」
「……アーチャー」
「俺は、ランサー」
それが——最初の会話だった。
特別な何かが起きたわけではない。
ただの、朝の挨拶。
だが——
それから、何度か顔を合わせるようになった。
同じ時間帯。同じ場所。
ランサーは、いつも犬と一緒だった。
アーチャーは、いつもランニングをしていた。
挨拶が、会話になった。
会話が、コーヒーになった。
コーヒーが、夕食になった。
夕食が——気づけば、週に何度も。
観察結果として——これは、「出会い」と呼んで差し支えないだろう。
「当時、私は朝にランニングしていて、彼は犬を二匹連れていた」
アーチャーが答える。
「犬の名前は?」
「フィンとモリーです」
ランサーとアーチャーが、同時に答えた。
マルティネス審査官が、わずかに口角を上げた。
——良い兆候。
「交際を始めたのは、いつですか?」
「……一年前です」
アーチャーが答える。
「具体的には?」
「去年の六月。彼の誕生日の夜です」
ランサーが補足する。
「俺の誕生日パーティで、こいつが——」
ランサーは、少しだけ照れたように笑った。
「“一緒にいたい”って言ったんです」
マルティネス審査官が、興味深そうにアーチャーを見る。
「あなたから?」
「……はい」
アーチャーは、その記憶を——鮮明に覚えている。
ランサーのアパート。友人たちが集まっていた。
ビール。ピザ。笑い声。
アーチャーは、その場に——居心地の悪さを感じていた。
知らない人々。大きな声。陽気な空気。
全てが、自分には合わない。
だが——
ランサーがいた。
彼は、アーチャーのそばに来て、小声で言った。
「大丈夫? 疲れたら、帰っていいからな」
その言葉が——
妙に、嬉しかった。
パーティが終わり、友人たちが帰った後——
アーチャーとランサーは、ソファに座っていた。
静かな部屋。
散らかったビール瓶。
ピザの箱。
「……楽しかったか?」
ランサーが訊いた。
「……分からない」
「正直だな」
「……だが」
アーチャーは、ランサーを見た。
「君と一緒にいたい、と思った」
その言葉が——
自分でも驚くほど、自然に出た。
ランサーは、少しだけ驚いたような顔をした。
それから——笑った。
「……それ、告白?」
「……定義による」
「定義とか言うなよ」
ランサーは、アーチャーの肩を抱いた。
「でも、嬉しいわ」
それが——交際の始まりだった。
「プロポーズは、いつですか?」
マルティネス審査官の質問が、記憶を遮る。
「……去年の十一月です」
ランサーが答える。
「どこで?」
「俺のアパート」
「どのように?」
ランサーは、少しだけ笑った。
「……実は、ロマンチックじゃないんですよ」
「構いません。事実を教えてください」
「こいつが、ビザの通知を見せて——」
ランサーは、アーチャーを見た。
「“結婚してほしい”って言ったんです」
「あなたは、何と答えましたか?」
「最初は、吹き出しました」
マルティネス審査官が、眉を上げる。
「なぜ?」
「だって、“ビザが切れるから結婚してくれ”って言われたんで」
「……」
「でも、考えたら——」
ランサーは、真剣な顔になった。
「俺、こいつと結婚したくないわけじゃなかったんで。ビザとか関係なく」
「それは、なぜですか?」
「……一緒にいたいからです」
その言葉が——
シンプルすぎて、逆に重かった。
マルティネス審査官は、何も言わず、メモを取った。
それから——
「いつから、一緒に住んでいますか?」
「書類上は、一年前からです」
アーチャーが答える。
「実質的には?」
「一年半前から、週の六割以上は同じベッドで寝ています」
ランサーが、平然と言う。
アーチャーは、小声で言った。
「……言い方」
「事実だろ」
マルティネス審査官は、また口角を上げた。
「どちらが料理を?」
「主に彼です」
ランサーが答える。
「私は夕食を作ることが多いです。彼は皿洗いと、ゴミ出しと、ビールの冷却を担当します」
アーチャーが補足する。
「ビールの冷却?」
「はい。彼は、ギネスを常に冷蔵庫に三本以上ストックすることを要求します」
「要求って言うなよ」
ランサーが笑う。
「お前だって、“コーヒー豆が切れる前に補充しろ”って言うだろ」
「それは、合理的な要求だ」
「ギネスも合理的だよ」
マルティネス審査官が初めて、声を出して笑った。
「……喧嘩はしますか?」
少し踏み込んだ質問。
「します」
「するな」
二人の答えが、また被った。
「どんなことで?」
「彼が仕事を家に持ち帰る時です」
ランサーが言う。
「夜中までコード書いてたり、」
アーチャーは、それを訂正する。
「私は、会計士だ。コードは書かない」
「財務諸表だろ。同じようなもんだ」
「全く違う」
「でもさ、夜中までパソコン見てるのは事実だろ」
「……業務上、必要だ」
「そういうとこ!」
ランサーが、マルティネス審査官に向き直る。
「で、俺がキレるんです。“勝手に一人で完結すんな”って」
マルティネス審査官が、興味深そうに訊く。
「Mr. Emiya, なぜ一人で完結するのですか?」
「……効率的だからです」
「効率?」
「はい。他人に頼ると、コミュニケーションコストが発生します。それを避けるために、自分で処理します」
「でも、配偶者に頼ることは——」
「非効率だと思っていました」
アーチャーは、ランサーを見た。
「だが、彼は——そうは思っていなかった」
ランサーが、少しだけ笑った。
「お前、最初、マジで何でも一人でやろうとしてたよな」
「……ああ」
「電球の交換も、家具の組み立ても、全部」
「……できるからだ」
「できるけど、二人でやった方が早いだろ」
「……そうか?」
「そうだよ」
ランサーは、マルティネス審査官に向き直った。
「こいつ、最初は”一人で死ぬ準備はできている”とか言ってたんですよ」
「準備は必要だ」
「必要だけど、言い方があるだろ」
マルティネス審査官が、少しだけ表情を変えた。
「……どうやって仲直りを?」
「俺が折れます」
ランサーは、即答した。
「アイルランド系の家、だいたいそうなんですよ。男はでかい声で怒って、冷静になって、すぐ謝る」
「Mr. Emiyaは?」
「彼は、怒鳴りません。黙ります」
「……」
「で、俺がさらにイライラして——でも、最終的には俺が謝る」
「なぜですか?」
「……こいつが黙ってると、不安になるんで」
その言葉にアーチャーは、少しだけ驚いた。
ランサーが、そう思っていたことを知らなかった。
マルティネス審査官は、ファイルから写真を取り出した。
「この写真について、説明してください」
写真——BBQのやつ。
ランサーの腕が、アーチャーの肩に回っている。
「いつ、どこで撮られましたか?」
「去年の七月です」
ランサーが答える。
「プロスペクトパーク。友人たちとBBQをしていた時です」
「誰が撮りましたか?」
「ショーンです。俺の大学の友人」
「Mr. Emiya, この時、何を話していましたか?」
アーチャーは、記憶を辿る。
BBQ。夏。暑い午後。
ランサーの友人たちが、大声で笑っていた。
ビール。グリル。肉の匂い。
アーチャーは——正直に言えば、疲れていた。
知らない人々。大きな声。
だが——
ランサーが、隣にいた。
彼は、アーチャーの肩に腕を回して、小声で言った。
「大丈夫? 疲れたら、俺と一緒に帰るから」
その言葉が——
妙に、安心させた。
「……彼が、“疲れたら帰ろう”と言っていました」
「あなたは、疲れていたのですか?」
「……はい」
「なぜ?」
「……私は、大人数が苦手です」
「でも、残ったのですね」
「……彼がいたからです」
その言葉が自分でも驚くほど、素直に出た。
マルティネス審査官が、また何かを書き込む。
それから——
「配偶者の、一番好きなところは?」
この質問が——来た。
アーチャーは、少しだけ考えた。
一番好きなところ——
ランサーの、何が好きなのか。
全部、と言いたい。
だが、それは具体性に欠ける。
「……生活効率を上げてくれるところです」
アーチャーが答える。
マルティネス審査官が、ペンを止めた。
「……生活効率?」
「はい。私は、一人だと最低限のサバイバルには困らない。しかし、“人間らしい生活”と呼ばれる水準からは恒常的に乖離する」
ランサーが、小声で言った。
「お前、もうちょい普通に言えよ」
「事実を述べている」
「でも——」
「彼がいると、その乖離が少しだけ縮まります」
アーチャーは、ランサーを見た。
「彼は、私に——“人間として生きること”を思い出させてくれます」
その言葉が——
ランサーを、黙らせた。
彼は——少しだけ、目を見開いて——
それから、笑った。
「……お前、たまに、マジでズルいこと言うよな」
「……そうか?」
「そうだよ」
マルティネス審査官が、ランサーを見る。
「あなたは?」
「俺?」
「Mr. Emiyaの、一番好きなところは?」
ランサーは、少しだけ考えた。
それから——
「全部、って言うと嘘っぽいですよね」
「……そうですね」
「でもまあ、ほぼ全部なんですよ」
ランサーは、肩を竦めた。
「こいつ、頭いいし、仕事できるし、料理うまいし、ちゃんと怒ってくれるし」
マルティネス審査官が、メモを取る。
「ただ——」
ランサーは、アーチャーを見た。
「そういうの全部抜きにしても、“この人と暮らしたい”って思ったのが先なんで」
「それは、いつ?」
「最初に会った時ですね」
「ドッグランで?」
「はい。こいつが、犬の名前覚えててくれたんです」
ランサーは、少しだけ笑った。
「“フィンとモリーだろう”って、当然みたいに言った時——」
彼は、視線を落とした。
「俺、“この人にはちゃんと見られてる”と思ったんで」
その言葉にアーチャーは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
これは、何という感情なのか。
まだ、名前がつけられない。
だが確かに、存在している。
マルティネス審査官は、ペンの動きを止めた。
それから、ファイルを閉じた。
「……光熱費と賃貸契約書、拝見します」
生活実態の確認に戻る。
愛情表現より、電気料金の名義の方が強い世界。
書類が、机の上に並べられる。
全て、確認される。
十分後——
マルティネス審査官が、顔を上げた。
「Your case looks good.」
その言葉に——
アーチャーの肩から、力が抜けた。
「最終的な通知は、数週間以内に郵送で届きます」
「……ありがとうございます」
ランサーが答える。
「ただ——」
マルティネス審査官は、二人を見比べた。
「個人的な印象としては——」
彼女は、少しだけ笑った。
「仲、良さそうですね」
◆
ブースを出た瞬間、ランサーが深く息を吐いた。
「……終わった」
「……ああ」
二人は、エレベーターホールへ向かった。待合室では、まだ他のカップルが緊張した顔で座っている——女性が男性の手を強く握りしめ、別のカップルは互いに何も言わず、ただ膝の上で指を組んでいる。全員が、同じ審査を待っている。「本当に愛し合っているか」という、測定不可能な変数の査定を。
エレベーターに乗る。ドアが閉まる。二人だけの空間になった瞬間、ランサーが壁に背中を預けた。
「……お前さ」
「何だ」
「“人間として生きることを思い出させてくれる”って、何だよあれ」
「……事実だ」
「事実でも、あんなタイミングで言われたら、ズルいだろ」
ランサーは、アーチャーの方を見た。視線が合う。彼の赤い瞳が、エレベーターの蛍光灯を反射している。
「……ズルい?」
「そうだよ。俺、マジで——」
言葉が途中で止まる。エレベーターが一階に到着する音。ドアが開く。ロビーに人の流れが見え、外の光が差し込んでくる。二人は、ビルを出た。
*
一月のマンハッタン。正午。空は灰色で、風が冷たい。ビルの谷間を吹き抜ける風が、コートの襟を立てる。通りには、ランチタイムの人々が溢れている——サンドイッチを手に歩くビジネスマン、コーヒーカップを持った女性、屋台からはホットドッグとプレッツェルの匂いが混ざって漂ってくる。
ランサーが、立ち止まった。
「……飯、食うか」
「……ああ」
「何がいい?」
「……君が決めろ」
「またそれかよ」
ランサーは、少しだけ笑った。肩の力が抜けている。面接の緊張が、ようやく解けたらしい。
「じゃ、いつもの場所」
二人は、地下鉄の駅へ向かった。
*
Joe’s Diner。四十二丁目とレキシントン・アベニューの角にある、ネオンサインの「J」の文字が半分消えかかっている店。ドアを開けると、ベーコンとコーヒーと揚げ油の匂いが押し寄せてくる。
窓際の席に座る。テーブルは狭く、二人の肘が触れそうな距離だ。
ウェイトレスのドリスが、コーラを二つ持ってきた。氷がたっぷり入ったグラス、結露で表面が濡れている。彼女はグラスをテーブルに置き、「料理、すぐ来るわよ」とウインクして去った。
ランサーが、コーラを一口飲む。喉が動く。彼はグラスを置き、氷をかき混ぜるようにストローで突いた。
「……なあ、アーチャー。もし、ビザ通ったら、お前、どうする?」
「……どうする、とは?」
「俺らの関係」
その質問に、アーチャーは答えを持っていなかった。結婚は、ビザのため——それが、最初の前提だった。だが、今、自分の中で何かが変わっている。ランサーという男が、単なる「生活構造の最適化」ではなくなっている。
「……分からない」
「分かんないのかよ」
「未来は、予測不可能だ」
「またそれかよ」
ランサーは、コーラのグラスをテーブルの中央に寄せた。氷が溶けて、グラスの底に薄い水が溜まっている。彼は少しだけ前かがみになり、両手をテーブルの上で組んだ。
「……俺はさ、お前と、ちゃんと結婚したいと思ってる。ビザとか関係なく。お前のこと、好きだから」
その言葉が、アーチャーの心拍数を毎分七十二から九十三に上昇させた。
「……好き、か」
「そうだよ」
「……定義は」
「定義とか言うなよ」
ランサーは、少しだけ苛立ったように眉を寄せた。だが、その表情には笑いも混ざっている。
「お前といると、楽しい。お前といると、笑える。お前といると、一人じゃない、って思える」
アーチャーは、テーブルの上に置いた自分の手を見た。それから、ランサーを見た。
「……私も」
声が、小さくなる。
「君といると——」
言葉が、うまく出ない。喉の奥で、言葉が詰まっている。感情を言語化する能力が、自分には欠けている——それは前から分かっていたことだが、今、この瞬間、ランサーの目を見ていると、余計に言葉が見つからない。
「君といると、生活構造が最適化される、というのは——嘘だ。正確には、嘘ではない。だが、君といると、効率とか、構造とか、そういうものがどうでもよくなる。君といると、ただ、一緒にいたい、と思う」
その告白が、ランサーを黙らせた。彼は数秒間、何も言わなかった。店内では、厨房のスタッフが何か叫んでいる——注文が通った合図らしい。ドリスが、別のテーブルに料理を運んでいる。
それから、ランサーが小さく笑った。
「……お前、マジでズルいわ。そういうこと、普通に言うなよ」
「……普通に言っただけだ」
「普通じゃねぇよ」
ランサーは、立ち上がった。椅子が、床を擦る音。
「ちょっと待ってろ。トイレ」
彼は、そう言って奥へ消えた。
アーチャーは、一人、席に残された。窓の外を、人々が行き交っている。ランチタイムの街。誰もが、それぞれの人生を生きている——そして、自分もその一人に過ぎない。だが、今、この瞬間、自分の人生に、ランサーという男がいる。
コーラのグラスに手を伸ばし、一口飲む。氷が溶けて、味が薄くなっている。
数分後、ランサーが戻ってきた。顔が少しだけ、赤い。彼は席に座り、自分のコーラを手に取った。
「……大丈夫か」
「大丈夫だよ。ただ、お前に”一緒にいたい”とか言われたら、マジで、どうしていいか分かんねぇんだよ」
料理が来た。ドリスが、二つの皿を運んでくる。Joe’s Special Burger——高さ十センチの建築物。パティ二枚、ベーコン三枚、チーズ二種類、茶色いソースがたっぷりかかっている。
「召し上がれ」
二人は、ナイフとフォークを手に取り、黙々と食べ始めた。最初の数分間、会話はなかった。ただ、ナイフが皿を擦る音、フォークが肉を刺す音、外から聞こえる車の音。
*
食事を終え、店を出る。外は相変わらず寒く、午後二時を過ぎて、太陽の位置が少しだけ西に傾いている。ビルの影が、通りを斜めに横切っている。
ランサーが、ポケットに手を突っ込んで言った。
「……なあ、今日、仕事は?」
「……休みだ」
「じゃ、俺んち、来ねぇ? 別に、何もしねぇよ。ただ、お前と一緒にいたいだけ」
その言葉が、また心拍数を上げた。アーチャーは、通りの向こう側を見た。信号が赤から青に変わる。人々が、横断歩道を渡り始める。
「……分かった」
二人は、地下鉄の駅へ向かった。
*
ランサーのアパート。クイーンズ、アストリア。古いレンガ造りの建物で、外壁は何度も塗り直された跡がある。入り口のドアは重く、開けると金属の軋む音がする。階段は狭い。四階まで、エレベーターなし。
四階に到着する。ランサーが鍵を回す音——ドアが開く。その瞬間、犬が飛びついてきた。フィンとモリー。二匹とも、尻尾を激しく振りながら、ランサーに飛びついている。
「おっ、お前ら、元気だったか」
アーチャーは、しゃがんで犬を撫でた。フィンの柔らかい毛、モリーの温かい鼻先。
「こいつら、お前のこと本当に好きだよな」
「……そうか」
「そうだよ。いつも、お前が来ると嬉しそうにしてる」
ランサーが、コートを脱ぎながら言った。
「コーヒー、淹れるわ」
アーチャーは、リビングに入った。ランサーのアパートは、アーチャーの部屋より広い。だが、散らかっている。ソファには服が積まれ、テーブルには本と雑誌が無造作に置かれ、床には犬のおもちゃ——噛まれてボロボロになったロープ、破れかけたぬいぐるみ。
この男は、片付けが苦手だ。だが、それが嫌ではない——むしろ、この散らかった空間が妙に落ち着く。
アーチャーは、ソファに座った。積まれた服を端に寄せて、スペースを作る。フィンとモリーが、足元に寝転んだ。
ランサーが、コーヒーカップを二つ持ってきた。
「はい」
「……ありがとう」
二人は、ソファに座った。ランサーは、アーチャーの隣に座る。距離が近い。肩が触れそうな距離。彼は、コーヒーを一口飲んでから、カップをテーブルに置いた。
「……なあ、アーチャー。もし、ビザ通ったら、お前、俺んちに引っ越さねぇ? お前の部屋、狭いだろ。こっちの方が広いし、犬もいるし」
その提案に、アーチャーは少しだけ驚いた。
「……引っ越す?」
「そう」
「……だが、君の、プライベートな空間を——」
「お前が来たら、もうプライベートじゃねぇだろ。俺らの空間になる」
その言葉に、アーチャーはリビングを見回した。散らかった本、犬のおもちゃ、キッチンのシンクには洗っていない皿が数枚、冷蔵庫にはギネスのステッカーとマグネット——全てが、生活の痕跡だ。
そして、その中に自分がいる光景を、想像できた。悪くはない、と思った。
「……考えておく」
「考えとけよ」
ランサーは、コーヒーを一口飲んだ。それからカップを置き、ソファに深く座り直した。腕を背もたれに広げる。その腕が、アーチャーの肩の後ろに来る。触れてはいないが、近い。
「……なあ」
「何だ」
「俺、お前と結婚できて、マジで、良かったと思ってる。ビザとか、制度とか、そういうの全部関係なく、お前と一緒にいられるなら、それでいい」
その言葉は、客観的には正確ではない。ビザと制度が、この結婚の起点だった。だが、ランサーがそう言ってくれることに、意味がないわけではない。嘘でも、悪くはない。
「……私も。君と一緒にいられるなら、それで、いい」
ランサーは笑った。それから、背もたれに置いていた腕を下ろし、アーチャーの肩に回した。自然な動き。躊躇いがない。
「……疲れた。面接、緊張したわ」
「……私も」
「でも、終わった」
「……ああ」
「あとは、結果を待つだけ」
二人は、そのままし
ばらく、黙っていた。ソファに座ったまま。ランサーの頭が、アーチャーの肩に乗っている。その重さは、体温と共に伝わってくる。
窓の外では、夕暮れが近づいている。冬の短い日。光がゆっくりと消えていく。建物の影が、通りを覆い始めている。街灯が、一つ、また一つと灯る。
だが、この部屋は温かい——犬の体温、コーヒーの匂い、ランサーの呼吸。全てが、生活の匂いだ。人が生きている匂い。
フィンが、小さく寝言を言った。足が、夢の中で走っているように動く。モリーが、目を開けて、アーチャーとランサーを見た。それから、また目を閉じた。
これが、幸福と呼ばれる状態なのかもしれない——だが、そう名づけることに、どれほどの意味があるのか。定義は曖昧で、測定は不可能で、再現性もない。ただ、今、この瞬間は、悪くない。それだけだ。
*
数週間後。また、緑色の封筒が届いた。差出人は、U.S. Department of Homeland Security。
アーチャーは、ブルックリンのアパートで、その封筒を手に取った。朝、午前九時。窓の外は、また灰色の空。二月の冷たい朝。封筒は、重い。
スマホを取り出し、ランサーに電話をかけた。三回のコール音の後、彼が出た。
「もしもし」
「……届いた」
「USCISから」
電話の向こうで、沈黙。それから——
「……今から行く」
電話が切れる。
アーチャーは、封筒をテーブルに置いた。開けずに、ただ見つめていた。この封筒の中に、自分の未来が入っている。承認か、却下か。この国に残れるか、帰国するか。ランサーと一緒にいられるか、離れるか。
三十分後、ドアがノックされた。
アーチャーは、ドアを開けた。ランサーが立っている。息が上がっている——走ってきたらしい。髪が少し乱れている。
「……来た」
「……ああ」
ランサーが、部屋に入る。封筒を見る。それから、アーチャーを見る。
「……開けていい?」
「……ああ」
ランサーが、封筒を手に取った。慎重に、封を切る。中から、便箋を取り出す。二枚。彼は、最初の一枚を広げた。目を通す。数秒の沈黙。
それから——
「……Approved」
その言葉が、静かに、部屋に響いた。
アーチャーの肩から、力が抜けた。膝がわずかに震える。テーブルに手をついた。
「……本当か」
「本当だよ」
ランサーは、便箋を見せた。
Your Application for Adjustment of Status has been approved.
承認。グリーンカード。永住権。この国に、合法的に残れる。
ランサーが、便箋をテーブルに置いた。それから、アーチャーを抱きしめた。
「おめでとさん」
「……ああ」
「これで、お前、アメリカに残れる」
「……君のおかげだ」
「俺のおかげじゃねぇよ。お前が、ちゃんと生きてきたからだよ」
その言葉は、客観的事実としては正しくない。アーチャーが「ちゃんと生きてきた」のではなく、H-1Bビザの抽選に外れ、会社がスポンサーを拒否し、婚姻ベースのグリーンカードが統計上最も安定した在留ルートだった——ただそれだけだ。だが、ランサーがそう言ってくれることに、意味がないわけではない。
この男がいなければ、自分は今、成田空港行きの片道航空券を予約していただろう。その事実だけは、否定できない。
二人は、また抱き合った。ブルックリンの小さなアパート。二月の朝。窓の外では、雪が降り始めていた。小さな雪片が、ゆっくりと落ちている。
運命の赤い糸など、どこにも存在しない。あるのは、Form I-130、Form I-485、共同名義の光熱費請求書、銀行明細に記載された同一住所、そして偶然と必要に駆動された一連の意思決定だけだ。
ロマンスは、電気代の名義より証拠能力が低い。それが、この国の婚姻制度の本質だ。愛、という単語を信じるかどうかは別として——このグリーンカードは、嘘をつかない。USCISのスタンプは、どんな詩的な言葉より、よほど確実な現実だ。
そして、その現実の中で、二人はこれからも一緒に生きていく。ビザのためではなく——正確には、もうビザは関係ない。ただ、一緒にいたいから。それが、理由として十分かどうかは分からない。だが、他に何が必要なのか、アーチャーには思いつかなかった。