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日本国総理大臣は靖国神社に参拝すべきか|1月8日討論会

1.はじめに

 我々右合の衆は、1月8日に靖国神社をテーマとする討論会を実施しました。団体に所属する7名の東大生が集まり、活発な議論が交わされました。この記事は、議論の中で主張された考えを正確かつ読みやすい形で公開し、読者の皆様へ議論の論点と骨子を提示することを目的としています。そのため、このNoteでなされる種々の主張は当団体に所属する各個人の意見であり、団体としての統一見解ではありません。読者の皆様には、記事に対するご意見、また記事のご共有等をいただけますと大変幸いです。

2.歴史

1.東京裁判と靖国神社の独立

 1946年から1948年にかけて行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、GHQ主導のもとA級戦犯として起訴された日本の政治的、軍事的指導者28名が裁かれた。
 裁判では、A級犯罪(平和に対する罪)、B級犯罪(通例の戦争犯罪)、C級犯罪(人道に対する罪)の容疑による審理が行われ、A級戦犯として25名が有罪とされ、7名が処刑された。東京裁判そのものの正当性に関する議論は今回の議論では行われなかった。
 靖国神社は、明治2年(1869年)明治天皇の勅命により国家のため一命を捧げた人々の御霊を慰めることを目的として設立された招魂社を前身とする。明治12年(1879年)に社号が改められ、現在の名称になった。
設立以後、明治維新以後の戦死者(戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、太平洋戦争等)を合祀してきた。戦後は、GHQによる国家神道の解体の要請の中、1946年に成立した宗教法人法のもと宗教法人とされ、国有の宗教機関から民間機関へと変化した。

2.東京裁判の受諾と戦犯の名誉回復

 1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約第11条で、日本国は極東国際軍事裁判所およびその他連合国軍事裁判所による裁判を受け入れた。また、極東国際軍事裁判所により判決を下された者は、極東国際軍事裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定により赦免、減刑が可能である旨が合意された。この合意に基づき、日本政府は関係国に対して赦免・減刑・仮釈放を要請し、東京裁判受刑者については「極東国際軍事裁判所に代表者を出した政府の過半数決定」により、それらが実施され得る枠組みが置かれた。条約11条は、日本に判決の執行義務を課す一方で、刑の変更は判決国側の決定と日本の勧告を通じて行うという建付けを定めていた。

3.B級、C級戦犯の合祀

 B・C級戦犯の合祀は、靖国神社が旧厚労省に名簿を照会する形で進められた。旧厚生省が、合祀の基礎資料となる「祭神名票」を作成して靖国神社へ送付し、靖国側はそれをもとに宗教儀礼として合祀を実施した、という二段構えである。この過程については、当時の宮司であった筑波藤麿が世論反発や政治的波紋を警戒し、「目立たない」形でB級・C級の合祀を進めた、という整理がなされている。結果としてB級・C級戦犯の合祀は、1967年10月17日の第4次合祀までに累計984名に達したとされている。

4.A級戦犯の合祀

 A級戦犯の合祀は、政府が一方的に決めた出来事というより、旧厚生省が合祀の基礎資料である祭神名票を整備・送付し、靖国神社が宗教儀礼として最終的に「いつ実施するか」を判断する、という二段構えの運用のなかで進行した。
 しかし名票送付後もA級合祀は直ちには実施されない。国内外の反発を見込み、少なくとも1969年初頭には「合祀は行うが外部発表は避ける」という趣旨の合意が厚生省側と靖国側のあいだに形成されたとされ、当時の宮司・筑波藤麿のもとでは実施が先送りされ、「宮司預り」の案件として棚上げされ続けた、という整理が研究・解説で繰り返し提示されている。
 転機は1978年である。筑波藤麿の急逝後に宮司へ就任した松平永芳が、就任2週間後の同年10月17日、A級14柱を秘密裏に合祀した。合祀の事実が広く知られる契機は1979年4月の新聞報道であり、以後、首相参拝問題と結びついて国内政治と外交の争点に転化していく。
 松平の判断過程を一次に近い形で辿る入口は、退任後に『諸君!』1992年12月号へ寄稿した手記「誰が御霊を汚したのか――『靖国』奉仕十四年の無念」である。同手記は、A級合祀をめぐる当時の意思決定を本人の回想として示す。東京裁判史観への反発、すなわち「A級戦犯」という枠組み自体を精神的に追認しないという問題意識と接続して説明する傾向が強い。結果として、A級合祀は「名票送付(1966)→公表回避の準備(1969)→筑波期の先送り→松平就任直後の秘密合祀(1978)→報道による顕在化(1979)」という段階を経て成立した。

5.昭和天皇の参拝取りやめ

 昭和天皇の靖国神社親拝(天皇自身の参拝)は、1975年11月21日を最後に途絶え、その後は生前を通じて再開されなかった、というのが大枠の事実関係になる。なぜ取りやめたのかについては、決定的な公式説明はないが以下の説明が有力とされる。
 A級戦犯合祀(1978年)への不快感が不参拝固定の決定打になったという筋である。2006年7月、日本経済新聞が「富田メモ」として報じた内容(宮内庁長官だった富田朝彦の聞き取りメモ)では、昭和天皇が1988年に、A級が合祀され、さらに松岡洋右・白鳥敏夫まで合祀されたことに触れたうえで、「だから私(は)あれ以来参拝していない」趣旨を述べた、とされる。
この見立ては、のちに刊行・報道された卜部亮吾侍従の日記とも整合的だとされ、富田メモの内容を補強する材料として参照される。
 ただし重要なのは、昭和天皇の最後の親拝(1975年)と、A級合祀(1978年)には3年のズレがある点である。したがって、この系統の説明は「1975年に急にやめた原因がA級合祀だった」というより、1975年以後しばらく空白があったところへ、1978年の合祀が起きた結果、“以後は二度と行かない”に固まった、という読み方が時間軸としては無理が少ない。

6.中曽根首相の公人としての参拝

 中曽根康弘の「公人としての参拝」は、靖国参拝を私的追悼から引き上げ、首相・閣僚の公的行為として制度化しようとした試みとして位置づけられる。中曽根は在任中に複数回参拝しているが、決定的なのは1985年8月15日の参拝で、政府内に設けた「靖国懇(閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会)」の議論を踏まえ、「公式参拝」という形式を採用した点に特徴がある。ここで政府が狙ったのは、参拝の趣旨を「戦没者追悼と不戦の誓い」に限定し、宗教行為ではないと説明できる外形を整えることで、政教分離の批判を回避しつつ、公的追悼を既成事実化することだった。
 さらに1985年の公式参拝は、A級合祀後に高まっていた対外的反発の回路を直接刺激し、日中・日韓関係を含む外交問題としても可視化された。この結果、中曽根は「公式参拝」を継続して既成事実化する路線を取り切れず、翌年以降は参拝を見送る方向へ傾く。要するに、中曽根の公人参拝は、靖国参拝を国家行為に近づけて正当化しようとしたが、宗教法人である靖国の性格、A級合祀をめぐる歴史認識、そして対外反発が絡み合い、制度化に失敗した。

3.議論

 この節では討論会でなされた主張を整理する。この討論会はフリーディスカッション方式で行われたため、多くの意見は断片的なものであり、また各参加者が議論の中で考えを深めていった。そのため、ここで明文化される主張は、参加者により共同作成された議事録及び筆者が個別に取ったメモを使い、筆者が再構成したものである。
 挙げられた論点は多岐に及び、関連する歴史や条約、国際政治で求められる論理との整合性、関係諸国(主に中国)の主張の正当性、戦死者への慰霊の精神、神道の位置付け、靖国神社への戦犯合祀や首相参拝の政教分離条項への合憲性、改憲の可能性などであった。
 これらの論点は国際社会に対する主張の妥当性と国家間関係への影響、靖国神社への戦犯合祀と首相参拝の合憲性、国家としての戦死者や神道の位置付けという3つに整理されると考える。最終的な政治判断はこれらを含め様々な論点を考慮、比較して行われるべきことを確認する。

・A級戦犯は、国内の裁判で裁かれたわけではなく、国内における犯罪者ではない。また、サンフランシスコ平和条約で名誉回復を果たしており、国際的にもこの御霊を祀ることは「戦争犯罪人を祀っている」とは言えない。A級戦犯は前線で戦った兵士と同じように国家のために命を落とした人々であり、その人々に祈りを捧げることは国家として当然のことであるから、憲法との兼ね合いはあるにせよ合祀についても参拝についても国際関係上の問題はない。よって国民の代表として総理大臣が参拝することも認められる。

・A級戦犯は国際的には日本の軍国主義の象徴であり、そのA級戦犯を祀った靖国神社に中曽根首相が 「内閣総理大臣として」参拝した1985年において、関係諸国の日本がファシズムに逆戻りすることに対する懸念は想定されるべきであった。1985年時点では、靖国参拝を政治論争の槍玉に挙げず、国家行為とする目的のために、合祀の延期、合祀後の分祠といった慎重な姿勢を取ることは国益に反していなかった。したがって、当時の宮司であった松平は、合祀のタイミングをより慎重に図るべきだった。
 また最終的にはA級戦犯を含めて総理大臣が普通に参拝できるようになることが理想である。

・A級戦犯は今なお軍国主義、全体主義を推し進めた象徴としての役割を持っているため、戦争犯罪人の名誉が回復されたとはいえ、彼らの御霊を合祀し参拝することは関係諸国に対する配慮に欠けている。また、国内においても、軍国主義、全体主義に戻るべきという誤ったメッセージを表現する可能性がある。また、戦後独立宗教法人となった靖国神社がその裁量により合祀したことには違憲性はない。文化として神道を保護するためB級、C級戦犯に関しては合祀、参拝しても良いが、A級戦犯は分祀するべきである。

 まとめると、A級戦犯は名誉回復を果たしており、国内的にも国際的にも犯罪者として非難されるべき立場にないという主張と、ファシズム的な日本を「思い起こさせる」可能性がある人物であるという主張が挙げられた。前者はよりA級戦犯とされた人々の人格に寄り添った意見であり、後者はより国際関係を重視した意見だと言えよう。対して、慰霊の精神や神道の保守に関しては大まかに意見が一致した。また、合憲性に関しては、改憲論が挙げられる一方、知識が不十分な中で司法判断に対する意見を明確にしない立場も目立った。

4.総評

 今回の討論会では、数多くの歴史や事例、及び個々人の歴史観、国際社会観の共有がなされ、参加者がそれぞれ知見を深めた。
A級戦犯の立場や国際関係に対しては活発な議論がなされた一方、戦犯合祀と首相参拝の合憲性や改憲等憲法に関しては、現憲法の意図や成立の過程、法解釈を含めたより精緻な議論が求められる。

5.最後に

 ここまで読んでいただきありがとうございました。読者の皆様には、記事に対するご意見、また記事のご共有等をいただけますと大変幸いです。

6.参考文献

一次資料・条約

日本国政府. 『日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)』(第11条を含む原文. 1951年(条約本文)
「世界と日本」データベース(東京大学東洋文化研究所/関連機関)「サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)」n.d. https://worldjpn.net/documents/texts/docs/19510908.T1J.html 
靖国神社公式サイト(歴史)靖国神社.「靖國神社史」. n.d. https://www.yasukuni.or.jp/history/history.html   (閲覧日:2026年1月22日).
靖國神社. 「靖國神社の由緒」.  n.d. https://www.yasukuni.or.jp/history/detail.html(閲覧日:2026年1月22日).

政府・国会資料(公式文書)

閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会. 『報告書』(いわゆる靖国懇報告書). 1985年8月9日.
参議院(質問主意書). 「靖国問題の基本的認識に関する質問主意書」1985年10月14日.
外務省. 「靖国神社参拝に関する政府の基本的立場」2005年10月https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/yasukuni/tachiba.html 
国立国会図書館. 「中曽根康弘関係文書(寄託)目録」2019年8月
人民日報(収録). 「靖国神社参拝についての外交部スポークスマン発言」1985年8月14日

報道・解説(ウェブ記事)

nippon.com. 「靖国神社と戦犯 合祀に至る道」https://www.nippon.com/ja/in-depth/a02404/   2013年8月20日.
読売新聞(戦後責任シリーズ)読売新聞オンライン. 「戦後責任/第5章 第3節」. n.d.  https://www.yomiuri.co.jp/sengo/war-responsibility/chapter5/chapter5-3.html (閲覧日:2026年1月22日.)

団体サイト(論評)

日本会議. 「戦後政治の原点としての[東京裁判]批判」. 日本会議(オピニオン. 2008年12月11日. https://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/865  

書籍(日本語)

秦郁彦. 『靖国神社の祭神たち』. 新潮社(新潮選書). 2010年
高橋哲哉. 『靖国問題』. 筑摩書房(ちくま新書). 2005年

執筆担当:大河内 2026年1月23日

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私は、大日本帝国は日本の「黒歴史」だと思う。 大日本帝国では、天皇は神聖不可侵な「現人神」だったが 天皇が望んでその地位に就いたのではない。 政治家を通じて国民が軍を制御する「…

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K.Jiro

論点がよく整理されており、大変勉強になりました。 元宮内庁長官・富田朝彦氏が1988年に記したとされる「富田メモ」には、昭和天皇がA級戦犯の合祀に強い不快感を示されたことが記され…

日本国総理大臣は靖国神社に参拝すべきか|1月8日討論会|右合の衆赤門会
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